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報道になじまない研究発表、報道しないと得られない原資

日経バイオテクのメルマガ記事にこんなものがあった。
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研究者は研究発表の記事化を拒否できるのか?    2016/3/11  日経バイオテク 副編集長 河野修己
 ちょうど1週間前のメールマガジンで、K副編集長が「公的研究費による研究開発の情報公開はどこまですべきか?」という記事を投稿しました。このテーマ、日本の科学技術の健全な発展に欠かせない重要なものと私は考えており、今週も取り上げることにしました。
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 というのも、研究開発を行う側(企業ではなく主にアカデミア)とその成果を報じるメディアの“常識”に埋めがたいギャップがあり、そのギャップは徐々に拡大していると感じるからです。(中略)成果報告会に取材OKということで行ったものの、複数の発表者から記事化を拒否されたと書いています。また、最近は学会の取材規約に、「取材した内容を記事する場合は、発表者の許可を得ること」と書いてある場合が増えてきました。こうした規約が堂々と明文化されているということは、「発表を記事化できるかどうかを自分たちでコントロールできる」と研究者が考えている証拠でしょう。

 研究者とメディアの間の1つ目の認識ギャップはこの点にあります。報道の原則からすれば、何百人から何千人の多数が存在する場所で発表された事柄を報じるのに、許可を得る必要はありません。メディアの入場を許可しておいて、「あれは記事にしていいこれは記事にするな」と要求するのは、本来であれば通らない話です。
 「学会は関係者だけのクローズな場だ」と主張する研究者もいますが、「学会で発表すると新規性が失われる」と特許法で規定されていることから分かるように、明らかに学会は公の場です。にもかかわらず、今でも上述のような報道規約がまかり通っているのは、研究者との揉めることなどを嫌がり、主張すべきことをきっちりと主張してこなかったメディアにも責任があります。

 もう1つ指摘しておきたい点があります。それは、発表を記事にする場合でも、掲載前の原稿をチェックできると考えている研究者がかなりいることです。これは、学会発表に限らず、通常の1対1の取材でも、要求されることがよくあります。私が属している日経グループだけでなく、大手新聞系のメディアで働いている記者で、この要求に応じる者はほとんどいないはずです。というのも新人記者は、「掲載前の原稿を絶対に外部に見せるな。外部の人間が原稿のチェックを要求する行為は検閲と同じだ」と厳しく指導されるからです。そのため我々は、原稿を外部に見せるのは重大な規則違反だという意識を持っています。
 企業の広報担当者はその辺の事情はよく分かっているらしく、「原稿見せろ」とはめったに言われないのですが、研究者の場合はかなりの確率で口にされるのでかねがね不思議に思っていました。しかし、このサイトを発見してようやく納得がいったのです。
http://togetter.com/li/942363
 サイトのタイトルは「科学とジャーナリズムと査読と検閲」。このサイトには、「メディアに原稿チェックをお願いしても、聞き入れてもらえない。なぜだろう」などの書き込みがあります。
 私は書き込みを読んでいき、「そうか。研究者にとって、掲載前の論文を外部にチェック、つまり査読してもらうのは、当たり前の行為なのか」と理解したわけです。研究者側からすれば、「間違いがあっては困るから親切にチェックしてやろう」というくらいの気持ちなのかもしれません。それを、「検閲だ」と激しい拒否を受けると、困惑してしまうのでしょう。研究者とメディアの常識には、それほどの溝があるということに行き着いたのです。
 ただし、メディアの側にも、掲載前に外部に原稿を見せるわけにはいかない理由があります。まず、インサイダー取引を誘発する危険性があります。記事の掲載が、関連する企業の株式の売買に影響を与える場合があるからです。
 もう1つは、論文と記事の性格の違いがあります。論文の場合、大部分の記述は、過去の研究のおさらい、実験方法、実験結果などのファクト(事実)で占められています。
しかし、一般に報道記事では、ファクトを記述した部分以外に、論評や意見に類する部分がかなり含まれています。記事の見出しも、論評や意見を反映していることが多々あります。研究者に原稿を見せると、往々にして論評、意見に対して口を出したくなるようなのですが、そここそが記事の存在意義であり、論評、意見に正解はないので、議論が延々と終わらなくなります。
 間違った内容の記事が掲載されるの避けるため、「事前に内容を確認させてくれ」と研究者が要求する気持ちは理解できます。特に、日本の大手メディアには大学で自然科学を専攻した記者が極めて少なく、自分が話した内容を本当に理解してくれたのか、心配になることも多いでしょう。
 両者が互いに不信感を持ったままでは、科学技術に関する報道のレベルは改善されず、科学技術への投資に対する国民の理解が低下する危険性があります。例えば、学会の取材はスライドの写真撮影(スライド撮影を禁止している学会が多いが、詳細情報を入手できればより正確な記事を書ける)も含めて原則自由とする、その代わり記事中のファクトに関する部分については掲載前に何らかの手段で確認するといった双方が納得いく取材ルールの策定が、そろそろ必要ではないでしょうか。
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このように、比較的自然科学を専攻した記者がいるような媒体においても、自分が話した内容を本当に理解してくれたのかどうかというのは、結構問題である。むしろ検閲という見方は当人にないだろう。「一字一句同じ記述をしてくれなければ、推測・忖度が入り混じって、あらぬ暴走を招く・・・」といったことが多く発生しているのではないだろうか。
ここにもあるように「論文の場合、大部分の記述は、過去の研究のおさらい、実験方法、実験結果などのファクト(事実)で占められているが、一般に報道記事では、ファクトを記述した部分以外に、論評や意見に類する部分が含まれて、記事の見出しも論評や意見を反映していることが多々ある」分けである。このような論文をべた記事で論評させずに社会に発信することに意味があるわけで、そこが論評の起点であると考えるから、論文集は独自の編集を起こすことはない(書き方はその雑誌ごとに決まっている)。緩急の議論はその論文集や論文発表の中で帰結する上に、その評価もあくまでインパクトファクターなどの論文集の周辺で行うことである。
では、、論評、意見に正解はない。だから議論が延々と終わらなくなることはその昔にも会ったが、今はこのような報道機関の公開とソーシャルネットワーク類によって無定見に研究者に直接非難・罵声も届いてくる一方、それに対する投資・支援は所管機関には着ても当人にはあまりかかわりがないようである。たしかに報道の原則からすれば、多数が存在する場所で発表された事柄を報じるのに許可を得る必要はないのだが、彼らはその広報能力から多くの場合「知的好奇心がある」「一定の基礎知識がある」「それなりの段取りを踏んで聞きにくる」「一定の峻別がつく」ことが前提である。メディアの入場を許可すること自体研究費の獲得を意図しないならば、必要悪という認識もあろうと思う。
余談だが、2007年3月まで『家庭医学』という、ミノファーゲン製薬提供の医学情報ラジオ番組があった。54年続いた。この番組は確かに学会の知己を集めた専門医師が解説していた。ただ、家庭医学といいながら、「多くの場合家庭の人には理解しやすい表現とはまず言い難かった」(Wikiの記載)という認識がある。それは専門的内容もさることながら、厳密さを要求し、また余計な推測を除くとそうなってしまうのであろう。(時間帯からして一般受けしない時間帯である)
医療関係の番組は専門家向けのものは日経ラジオで昔からあり(メディカルワイド)、その内容と多くは変わらないようにおもわれる。(この放送自体が日本医師会の生涯教育講座で、つまり医療系継続教育の資料でもある)が、そもそも医療の専門家は大衆向けの内容の告知を臨床系として分けているような側面もあるのだろう、臨床系の医師のほうがこのような放送に適しているとは思うし、放送では話すことに長けた医師が解説専門の形で出ることもまた多いが、この内容場合は先端研究の普及・継続教育の資料とはなりえない場合もまた多いのである。
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こうなると、研究者にとっては、確かに公開された研究内容であるが、それは少なくとも「求める人」が「一定の資質を担保した状況で」「一定のロジックを踏んで」ということを前提にしないと、所属する研究体制が混乱だけして研究に見返りがないということになるわけである。
ただし研究に対する「大衆的認知度」がいまや研究のリソースのみならず人件費の調達にまで影響を与えている現状では、研究の継続ないしはテーマアップに対しても対応しなければならないし、また研究の目的が「知られなき科学の真理の獲得」ということに対して批判となる意見を、「美学的視点」から持ってくる場合さえある現在、メディアに対して簡単な言葉でも示す必要が出てきている。そのために「科学技術への投資に対する国民の理解が低下する危険性」が、闊達な研究姿勢を保つ姿勢を損傷していると感じた人にとっては、せめて、科学技術のプレゼンは、論文ベースでの議論を商としてほしいと思うのだ。「両者が互いに不信感を持ったまま」ということよりも、もともとの「研究とはどの社会にどのように寄与するものであるか」というところに利害相克が出てきているというのが、私の印象である。
従前、複数の論文雑誌・専門雑誌の編集に一端でもかかわったことがあるが、これらの場合わかりやすくすることの行為自身が推測を招き、その研究の存立意義をなくさせたり(広義の政治的意向で研究を停止された事例もあった)ということは散見され、論文掲載自体も否定されたこともいくらかあったわけである。研究者にとっては、国民の理解が低下する程度で科学技術への投資が止まるなら、そもそも研究開発という行為自体の社会的存立意義はすでになくなっているという認識なのでないかと思う。
かくて、専門雑誌は確かに表現についてのサジェスチョンは編集者が行うが、内容はむしろ加筆しないということになってしまうのである。だから、「掲載前に外部に原稿を見せるわけにはいかないのは、記事の掲載が、関連する企業の株式の売買に影響を与える場合があり、インサイダー取引を誘発する危険性がある。」というロジックなら、記事の掲載行為自体が研究開発の独自性がないことを正当化するのである。

また、「「学会は関係者だけのクローズな場だ」と主張する研究者もいますが、「学会で発表すると新規性が失われる」と特許法で規定されていることから分かるように、明らかに学会は公の場です。」というのは異見と思う。基本的に学会は公益性があるが原則私的場所である。特許出願などで研究を促進する社会要求に対し特許は研究者の自由な公開を前提としなければならない内容なので、あくまで特許法の存立をベースにした公益性の優先のため(利益相反の問題もありながら)特許法はこう規定しているだけで、基本的には学会の存立意義は私的行為と考えるものである。
そう考えると、
●学会の取材は彼らの公的発表のみとする(詳細情報は入手する手法の紹介にとどめる)。
●調査報道は論文と別の「レビュー」という形で研究内容とは切り離した記載とし、ここは記者の著名記事とする。
●論文発表をする側には必ずファクトに関する部分については記事用原稿を研究機関側が作成する。
このように発表報道と、それを由来とした論評・調査報道(ここに自然科学を専攻した記者がいる)をきっちり切り分けるという、調査報道のスタンスの変化(従来の記者手法による調査報道の否定)も試みなければならないと思う。その昔のニュースセンター9時以前のNHKの報道にさらに現場取材を離した、古典的「ストレートニュース・べた記事」の手法に極めて近くなる、一種の退化を認めるべきかもしれない。

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