怒り易くなった側面もある
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松本人志「怒ってない人に許してもらうのは不可能」 日刊スポーツ 2016/04/10
ダウンタウンの松本人志(52)が、日清カップヌードルのCMを苦情で放送中止に追い込んだ「どれだけ謹慎しようがどれだけ謝ろうが絶対に許さないという人たち」に苦言を呈した。
10日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」で、タレントの矢口真里(33)が不倫騒動以来初めて出演したことで話題となった同CMが、「不倫に関係している」「擁護している」などといった苦情が日清食品に寄せられたことでCMが中止になる事態となった件を取り上げた。パネラーの小藪千豊(42)は「僕はこういうことのルールを決める立場でもないので、世間の賢いみなさんが決めたらいいと思うんですけど、じゃあ徹底してよ、とは思いますね。なんである人だけ徹底的に言われたり、ある方は不倫したけどいっぱいテレビ出ても何も言われないのか。略奪愛で幸せになってる人も、一度は不倫している」と一部の人間だけが叩かれる風潮を指摘。さらに「太宰治だって『すごい文学ですね』なんてみんな言うけれど、あの人の恋愛関係見てほしい。矢口さんより無茶苦茶ですよ。本当だったら学校の図書館から太宰の本を全部なくすとかしないと」と持論を展開した。
番組MCの東野幸治(48)も、不倫発覚からすでに3年が経過し、そのうち1年半は謹慎していた矢口がようやく復帰したという状態で「企業からCMのオファーが来て、放送したらそのCMの側が『不快な思いさせて申し訳ありません』って謝ってCMがお蔵入りになる」と今回の件の異常性を指摘。
松本人志は「スキャンダルを起こしたタレント、有名人を叩きたい人というのは何パーセントか必ずいて、どんだけ謹慎しようがどんだけ謝ろうが絶対に許さないという人たちはいるんですよ」とした上で、「なんで許さないのかと考えると、そもそも本気で怒ってないからではないか。許すもなにも最初から怒ってない。それぞれの不満のはけ口になってるだけ。怒ってもない人に許してもらうなんて不可能」と看破する。そして「叩かれることを利用して頑張るしかない。矢口だってあのスキャンダルがなかったら今頃(芸能界から)いなくなっていたかもしれない。あれがあったからいまだに叩かれながらも(今のポジションに)いる」とエールを送った。
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これを聞いたとき、まあ実際のところこのような人がほとんどではないかとは思っていた。大体相当な覚悟でCMを日清食品は作ったのに・・・・ということは最初は思ったのである。
ただし、たまたま日清食品に関係している人に聞くと、多少攻めるCMを作っていく(それはすでにカップヌードルという製品は普及しており、その革新性を維持するためのCMという、一般的な方向性からかなりことなった意図を持っている)ということで、多少は従来の経験を反映し対応できる体制をとっていたが、今回は特に女性からの電凸が極端で、他部署まで波及するなど日常業務の対応能力を軽々超え業務を圧迫してしまい、下手すると地域偏在はあるようだが、社員の労務管理や果ては精神的問題まで及びかねないという部署もあったということらしい。だから日清食品に対して弱腰ということは一律にはいえないところもあるようだ。
たとえば、ドラマの表現手法に問題があるとして議論をよび、スポンサーや放送倫理・番組向上機構(BPO)に電凸が行われて、結果スポンサーが全社CM放送を取りやめる(降りたわけではない)ということもかつてはあったわけで、批判の倫理的概念については想像困難である。
しかし、、言葉は違うが、「許すもなにも最初から怒ってない。それぞれの不満のはけ口になってるだけ。怒ってもない人に許してもらうなんて不可能」というのはある意味、きわめて面白い表現方法で、大方の場合は意外と正鵠をついていると思っている。
ただし、「太宰治だって・・・・学校の図書館から太宰の本を全部なくすとかしないと」ということであるが、当時の文壇からも彼の素行は、人倫にももとるということまで言われている。たとえば川端康成は 太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人であるが、川端が「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と批評した経緯があり、もめている。(もっとも川端康成は割りと生き方自体を批判する傾向にはあり、エピソードも多い)事実、今でもこのことを評して太宰治の文章をまったく読まないという人もいた記憶がある。(この人はとにかく徹底していた。)そのため、個人レベルではきわめて偏執的ともいえるぐらいに、このような概念を忌避する人は多いようである。そして後にいかなる成果を社会に与えたとしても、忌避することは代わりがないのだが、社会に対しては忌避を公言することはあきらめ、ただ個人的に忌避することを徹底することを アイデンティティ・自己同一性の発露としている場合もあった。
このようなことは従前個人が抗議しようとしても、苦情電話やビラをまいたりする程度が限界で、思いが不特定多数に同時に共有されることはほとんどなかったことから個人的に忌避することを徹底させることで納得させていたところもある。また市民団体や消費者団体が公開質問状の提出などを行う程度であった上に報道側もこのような草の根的意見を一部の特殊例としてしか取り上げず、コンセンサスの共有化はできなかった。ところがインターネットの普及によって個人が意見や証拠を発信することが一般的になると、個人レベルでも組織的な追及が可能になり、示威行為に近い行動ができたりする発言力ができたという。
つまり苦情自体が埋没せず顕在化・拡散し、影響を及ぼすと考えると、ラウドネススピーカーの効果としてインターネット・SNSというコミニケーションツールは実はまったく同じ作用の表裏であるといえるのである。
もうひとつ、インターネットなどを用いる情報の増加は、情報量を格段に増加させるわけで、一人がインターネットで得る情報量(情報の質を問わない限り)は使わなかった場合の320倍になるという。その情報をいくらか選択して得るということをしたとて、他人の問題行動の事例を聞く割合は少なくとも50倍になっているとみなすと、情報は多く入るし、その問題点を拡散し、示威することが5倍楽になったと仮定すれば、何かことあらば250倍の苦情が発生源にぶち込まれる可能性があるのである。
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「最初から怒ってない。それぞれの不満のはけ口になってるだけ」というのはまあ電凸の原因の多くを占めているのだろう。しかし、基本的に倫理的なアイデンティティーを堅固に持ち、PTSDぎりぎりという場合さえある境遇の人が、ある意味効果的さえあるツールとして入力としてのWebサイト、出力としてのSNSを手に入れたということで、増幅された側面は無視できない、事象は怒っていない人の物見遊山な関与と、強烈に倫理観が強く排除しないと生きていけないほどさいなまれる人がおのおの少数おり、現象面としてはこの2つの層が加算されてことを大きくしているということに尽きるのではないかと思う。それは意図をしてだけではない。(参考:http://dehabo1000.cocolog-nifty.com/holder/2016/04/post-6370.html)
違う見方としてであるが、このような不倫問題や、その前だと生活保護の不正など、非難が根強い問題は今までにもある。これらの問題に対する非難、叱責、果ては排斥が根強いのは、生活の中でこのような問題によって直接的にも、また間接的にも利害損失の関係にある場合が極めて多いということもあろう。このことから規範として、忌避の信念を確固にするという機会が、一般の人には多く、その波及効果も見えやすい。結果これらの人には排斥どころか抹殺・私刑・自力救済もやむなしとおもうのも一因ではないだろうか。
私刑もそうだが、自力救済は、民事法の概念で、何らかの権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすことをいう。現代の民事法では例外を除き禁止されている。しかし、インターネットに限らず刑法やそれに代替する宗教戒律の普及すらも十分でない場合は戦国時代の日本でも、現代の一部の国(一時国家が存在しなかったソマリアなど)でもある。たぶんにインターネットでの扱いが、(人命には直接かかわらないように見えることと国の管理領域を超えていることから)自力救済を志向しているということもあろう。法治主義がまだ未発達な時代、私刑は日本でもあったことである。このあたりは法規制度の解釈の触れなど波及的問題が多そうである。
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