IT化教育の前提(2)
(承前)
日本では教育現場だけがICT化から取り残されている・・・学校内外でのネットやメールの活用度を比較すると日本は先進国中で最下位 2016年3月15日(火)15時30分 ニューズウイーク 舞田敏彦(武蔵野大学講師)
この論文について議論をしている。
氏によると、いわゆる教育の情報化をOECDの国際学力調査「PISA 2012」で見ると、調査対象となった日本の15歳生徒の平均点は、他国との相対比較では日本は学校外・学校内とも、利用度スコアの平均が最も低いらしい。昨今日本でも、学習指導要領改訂で探求的・問題解決的な学習が重視され、大学入試もこうした資質を測る方向に動いている。そのためには教育のICT化を進めることで、コンピューターの活用が不可欠とな学習者が能動的に参加する「アクティブ・ラーニング」が推奨されている。教育現場が現状のままでは、こうした改革案も「絵に描いた餅」で終わる可能性がく、学校は社会から浮いていることになる。情報化社会では、情報化社会を生き抜く力を持った人材を育成しなければ、日本の社会はいずれ世界で沈没してしまう・・・と結んでいる。
こんどは、基礎的知識をベースにして、その上に職業教育の一環としてICT教育を幅広く展開するのが前期中等教育であろうと私は思っているのだが、このアクティブラーニングはどの段階で行うべきかということについて述べる。
ドルトン・プランとうものがあり、この方向性は大正自由教育運動に影響を与えた。統制がとれないことから、戦時中は一部の先駆的教育を行う学校以外は、継続しない。戦後その反動で広まるのだが反対に戦後は経済的問題の面もあり、さらに経済発展の志向には統制を取るということも必要との側面、さらには質が高くなくても「均一な」教育環境を構築する必要性もあって、一律にこれが適用されているわけでない形が出来上がった。
内容は個別教育(ある意味ここは公文式に似ている)と、協調性を含める方式である。
Wikiにこのような記載がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3
日本におけるドルトン・プラン(中略)
1928年、永野修身が海軍兵学校長に就任した際、自学自習を骨子とするダルトン式教育(注:ドルトン式教育と読み替える)が海軍兵学校において採用されていたが、永野が軍令部次長に転じた後に消滅してしまった。ドルトン・プランが消滅してしまった大きな原因は、海軍兵学校の時間割の関係から必修科目が多く、生徒たちが自由に議論したり、勉強をする為に必要な自由時間が不足していたことが理由だといわれている。また、海軍兵学校は大学のように生徒が自由闊達に自主探求・自主創造を通じ新しい仕組みや原理を発明したり、幅広い意味で、国家の各方面で活躍する人材を育てる為の教育機関ではなく、あくまで軍隊という組織を動かすための駒を育てることが大きな使命であり、軍隊という小さな世界の人材を育てる為の教育には向かなかったという意見もある。55期(吉田俊雄によれば58期から60期)を中心とする永野の教え子達からは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい一方、他律的な型嵌め教育を受けていないために任官後他の期の士官からは上官に対する意見(提案)が多く「理屈っぽく、意見が多い」と評判が悪かったという。
第二次大戦中に兵学校長を務めた井上成美は「一人前の海軍士官を育てるのが兵学校最大の任務で、ある程度型嵌め教育は必要」との立場から永野のダルトン式教育を批判し、永野が井上校長時代の兵学校を訪れた際に「生徒の前で永野に持論を述べられると困る」との思惑から生徒向けの訓話を行わせなかったという。
但し、ダルトン教育を受けた者の中には数々の有能な人材を輩出している。また、太平洋戦争での惨敗の反省から当時の海軍の教育政策の問題と組織体質が問題視されており、現場の指揮官や若い士官が提案をしても退けられてしまい、年功序列・権威主義が優先され、組織としての柔軟さが欠けていたといい、敗因にも影響しているのではないかと述べられている他、アメリカ軍に比べ日本軍の戦術・戦法は教科書通りの戦法を繰り返すだけで、アメリカ軍に簡単に戦術・戦法を見透かされていたことなどから、永野が実施したドルトン・プランによって各人の創造性や専門性を開花させ、新しい戦術・戦法を生み出そうとした柔軟な発想の教育改革は海軍兵学校の歴史の中でも驚異的な革新性であり珍しい事例だという意見もある。
実は、中等教育において、このような議論はなかなか難しい。しかも、永野修身も井上成美も教育者(人格者でもある)としての資質を今もなお高く評価されている人物である。「すぐ現場で役に立つ即戦力としての海軍士官を育てることが兵学校の最大の任務」と考える井上、「将来、生徒が問題や壁にぶつかった時、自らの頭で考え、進んで自学自習ができ、問題解決能力のある人材を育てる」と考える永野の考え方の違いである。ただここで注意するべきは、海軍兵学校は職業教育の場で目的意識はあまりにもあきらかな中での位置づけであること、また、海軍兵学校の入学者自体がすでにエリート的選別を潜り抜けた基礎知識を持った人間であることは忘れてはならない。
基礎的な資料の採否、そしてそれが妥当性のある資料なのかは各個人が持つメディアリテラシーによるものであるが、そのリテラシーを持つため、または採否を決めるための判定は初期の初等教育によるものである。つまり、初等教育の場面で「アクティブ・ラーニング」の実施からはじめていくと、確かに資質が高い生徒の抽出を得ることはできるのだが、逆に論理構成が成り立たないような人材を育成することになるというのもあるようである。つまり、フレキシブルスタディーという形では、「アクティブ・ラーニング」は有効ではあるが、根拠や考え方を構築せず感情や感性のみで押し進める弊害もある。つまり、実用上は旧来の教育を保たなければ、少なくともフレキシブルな思考の資質を維持することのできない人間が生活できるための、規範を守るという社会要請を維持できない人間を多数作ることになってしまうのである。ドルトン・プランはさらに手数をかけるため公教育に知っては負担が大きく、中途半端な体制を組む危険性があるともいえる。
私学など、安全弁として公教育がある場合に限っては、アクティブラーニングの展開は(保護者の支援もあろうし)それなりに行える有効な手段とは思う。しかし、来るものの資質以上に家庭環境・資産的問題・宗教的な意味も含む信条の統制を取ることを否定されることを前提とする公教育の場合は、一定の教育姿勢を習慣付けしないでおこなうと、討議するという前提に立った指導さえ行えない。選択式という形を強くとるしかないが、アクティブラーニングもドルトン式教育も、指導側の人的・資産的リソースが相当影響するということは怖さとして残る。
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その側面から、現段階ではICT化教育は職業教育を取り込める中学1年をスタートとして車の両輪のように行う中に入れるのが現実的なバランスでは必要であると私は考える。カリキュラムにも、教育資産(TOOL)にもこれは必要であろう。
カリキュラムいっぱいに学習してもらう時間が足りないし、またそれでも高等教育では基礎知識が不足している嘆きもある現実では、単純にICT教育を追加するということでは、ツールの充実・自主学習の意欲向上と引き換えに学習内容の希薄化と、雛形をただ写すだけというモチベーションの低下が双方に山を作ることになる。階層意識を強く持つ社会では肯定されるのだが(あまり激しいとやる気をなくする)これが日本で起きると、社会不安がさらに高まるとも言えるのではないか。
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確かにICT化に遅れると、思想が世界を縛らず、強欲資本主義が世界を縛る世界では、追従できないというのはよく分かる。ただしその強欲資本主義がつぶれることも昨今あるように感じる。わが道を行けばいいというのは資本主義の一員としては通用しないだろうが、ICT化教育による人的資産の向上策におけるトレードオフ分析は、回顧主義でない視点で行っておいても損はない。
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