アブストラクトだけ解する読み手と聞き手(3)
(承前)
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津川雅彦「テレビと左翼思想によって日本映画ダメになった」 2014年1月8日(水)16時0分配信 NEWSポストセブン
日本映画が質量ともに復調してきたと言われて数年経つ。1990年代には公開本数、興行収入ともに落ち込むばかりだったが、現在は毎年のように注目のヒット作が生まれ、シネコンが普及し映画館へ足を運ぶ人も増えた。ところが日本映画の父、マキノ省三の孫で俳優・映画監督の津川雅彦氏は「テレビ局がつくるのは最低の映画ばかり。映画賞もくだらん」と嘆く。作家の山藤章一郎氏が、津川氏の日本映画批判の言葉を報告する。
----------------------------------中略(続き)
しかしまあいま、娯楽映画といえばテレビ局のつくる紙芝居。『テルマエ・ロマエ』を筆頭に、あれは映画ではない。紙芝居。なぜか。テレビの演出家が映画、ドラマを勉強していない。起承転結、ドラマチック、キャラクターづくり。最初の掴み、終わりよければすべて良しとかね。テーマも鮮明でない。要するにストーリーだけで運ぶ。
牧野省三が映画について〈1・すじ、2・ぬけ、3・動作〉といった。すじは、脚本、ストーリー、ぬけは、キャメラや現像、撮影のこと。動作は役者の芝居です。
そして長男のマキノ雅弘はこういった。「30%やぞ」と。〈30%〉とは何か。映画は目で見る。見える部分は〈30%〉にしておけ。70%は観客の想像力を喚起させよと。想像できる内容ですよね。それがないと映画にはならんと深い所を突いているんです。
ものは、見るだけでは頭脳を発達させない。読むことこそ、想像力を働かさせる。映画に必要なものはこの想像力だと。だから、見させるだけで終わるのはテレビです。その昔は紙芝居だった。同じ類いのものですね。
マキノ一統は、見えるものだけで勝負したらだめだぞ、といってきたわけです。筋はおもしろおかしくつないでいくが、見た後で、残るものがない。見えていなかったものこそが実は残るんですよ。
ところが、観客のほとんどはテレビで脳みそを薄くされ、30%で満足している。テレビに飼いならされた大衆だ。そこで、日本の映画はどんどん衰退したんです。
※週刊ポスト2014年1月17 日号
----------------------------------終了
これを見ると、映画に期待しているものが人・年齢層によって頭から違うということが分かると思う。
「要するにストーリーだけで運ぶ」のは、人々が暗喩・示唆による感性が弱くなっているからという指摘もあるし、その側面は否定しない。しかし、そもそも暗喩・示唆以前にある基礎知識・認識が異なると、まったく異なった感覚を与えてしまうことが、マーケットで負の要因(映画を見ないというネガティブ方向の感覚)を与えうる。結果的にメッセージ性も娯楽性の高い映画は、観客の想像力を喚起させた結果、疲れる・見たくない映画というアナウンスを誘発することになった事例が続発したのであろう。
たしかに、クリエーター全般に言えることであり、この発言はもっともであるなあと思うのは、この記載である。
ものは、見るだけでは頭脳を発達させない。読むことこそ、想像力を働かさせる。映画に必要なものは想像力。
ところが、想像力は各個人の資質にかかわる側面があり、それを直接的に共有できることは、言語など二次的な発言によるものを介在する。その段階で各個人の差異が出てくる。さらに言うと映画を見るものに想像力が備わっているかという保障は担保されず、見る資質がないというクラスの人がいても、それを排斥することが現実的ではないのみならず、全世界マーケットでないと投資が回収できないしクライアントもつかないとなると、上記のような「顧客志向」は現実的でないことが分かる。
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「見えていなかったものこそが実は残るんですよ。」という視点は、ある程度映画を見ていると、よく分かる経験もある。ただし、実は日常にも頭に残るものはいっぱいある現実の中で生きていると、あまた頭にに残るものを上書きしてしまうために映画を見たのに、余計なことを感じてしまいストレスになったということはないだろうか。
エピソードで「『となりのトトロ』と『火垂るの墓』は当初二本立てで上映されたのだが、楽しい「トトロ」のあとに『火垂るの墓』を上映し衝撃を受け、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出した。」というのがある。このようなことが、往々にして生じる結果、あまり映画を見なくなったという人もいる。
映画を想像力の構築の材料、鉛筆としてみる者と、忘却のためのツール、消しゴムとしてみる者のがいると思うのだ。さもなくば「広義の空気系」に代表される、会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品(これらは、想像力を働かせずに安定したコミニュティーを描くこと自体を、評価材料にしている)が、メインになっている。素材を頭の中に残したくなく、ただ見たことから自分や自分の生活に反映してどうなるのかを考えたい・・・という二次的なことを頭に残したいのなら、強烈な印象・風景はむしろ邪魔である。テーマが鮮明なドラマを、むしろ主義の強要、押し付けと感じ、なぜお金を払って共感させられなくはいかんのか・・・とまで憤慨する場合さえある。これとは別に、映画によって強烈な印象を思い出させてしまう結果、一種のフラッシュバックを起こす場合もあるだろう。「仁義なき戦い」を上映していたころ、広島県出身の年長の知人が「過去の経験を思い出してしまった」といって映画館から出ていったという話もある。
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個人的に言うと、ヨーロッパの映画界が、氏の言う芸術映画以外は埋没して言ったのは、まさに大規模なアメリカ的娯楽映画の造り方の中で資本投下の量と、幅広い層・民族が誤解される見うる一般性と引き換えの陳腐さに、淘汰されているのではと考えている。(某映画は席を立ったこともある)また、娯楽に関してはTVにせよ、映画にせよ外的選択の中で選別するということを嫌う、ある意味自立した民族性を持っており、簡単に低コストで作成できるTVに移行することも多かったかもしれない(それを言うとナチの宣伝映画はどうなのかという意見もあろうが)。
その見方をすると、「観客のほとんどはテレビで脳みそを薄くされ、30%で満足している。」というのは間違いではないところもあるが、感動や示唆を映画から得ること(これはTVに対しても同じ)に対し、無定見には期待していないし、むしろ感動や示唆を自分にとって与えるものを選択していくなら、映画でもTVでも、そしてビデオでも同じというある意味での合理性がある人が増えたのかもしれない。少なくともTVで脳みそを薄くされたというのではなく、映像情報や創作物に対し少々の期待はあっても、過度な期待・依存をしないということだと考える。
そうなると映画の本当の価値は、意外と限られた人が心象を深くするツールとして用いる芸術主義的な映画か、空気系のような単にさらっと流してあんまり意味合いや、言いたいことはない(ある意味無味な)映画で、日ごろの鬱憤を「希釈」するような存在のニーズが高くなってくるのは、分からなくもない。要するに津川雅彦氏の作りたい映画はおなかいっぱいという人が多いのではないだろうか。
そう考えると、最近の映画はいわゆる単館系のものしか私は見ていないようである。少なくともアメリカ映画の大作は「おためごかし」(表面はいかにも観客のためであるかのように偽って、実際は自分の利益に誘導する)ことが強くにおってしまう。 そして、収益が得られるようにつくられた映画が増えた日本の映画では、私にとって見たい映画がないのも事実である。
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さらに言うと 外部の情報に対しその意義を見出さないという主観が強い人が、個人主義の中で尊重される現在、、映画でも言論でも何でも、受け入れることをしないという人が正当化される場面が多くなってきたと思う。この傾向は映画のみならず講演・セミナーでも出てくるようだ。
講演において、今までなら口でロジックを立て、政権放送よろしく演説をするのは、その人の論理構築能力を見るのに好適であると考えられてきた。ところが、口で話した論理性は、その実アジテートメントである可能性がある。たとえばジョージ・コーレイ・ウォレス・ジュニア(1968年アメリカ合衆国大統領選挙に立候補・アラバマ州知事4期)も最近話題のトランプ氏とにたような演説をしたようだ。彼の演説を文字おこしすると論理は破綻しているが、それを演説ではまったく感じさせないというテクニックもあったらしい。そのようなことが多くある現在では、少なくとも日本では、すでに講演は単に日本語の意味の「プレゼント」に近いものとなっており、文章・資料・エビデンスがあくまで後からトレースできる公的宣言とみなすべきであるということも言われる。(逆に講演が軽くなっているから、失言は出やすくなり、それを突っ込む・突っ込まれる人も多いのだが)
そうなると、記録化された映像・画像はともかく、講演などでは正確な情報伝達という目的はむしろ忌避されモチベーションを上げるということのみに徹したほうがいいということも多々ある。TVの影響もあるのだろうが、そのような情報に対するジャッジメントが厳格になり(その中で、情報の受け側は自分の資質の有無・レベルに対する視点を完全に忘れているが)とにかく他人の意見は疑ってかかるということが増加している。これは金銭を払ってもらったセミナーでも同じである。
さらに、そのなかで要するに聴取者の既成概念からの連想で印象付けを図るような進め方は、余計な解釈・忖度・類推を促すことで、意図しなかった方向に情報が変化していく。聞く側にもアナウンスメントできる能力がある(Webなど)現在、確実な情報伝達を、どうやっても悪意のない解釈をされないようにすることは、説明過剰な形をとらないことには、すべてに対し「不幸」な結果をもたらすことになってしまった。(続く)
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