アブストラクトだけ解する読み手と聞き手(2)
(承前)
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津川雅彦「テレビと左翼思想によって日本映画ダメになった」 2014年1月8日(水)16時0分配信 NEWSポストセブン
日本映画が質量ともに復調してきたと言われて数年経つ。1990年代には公開本数、興行収入ともに落ち込むばかりだったが、現在は毎年のように注目のヒット作が生まれ、シネコンが普及し映画館へ足を運ぶ人も増えた。ところが日本映画の父、マキノ省三の孫で俳優・映画監督の津川雅彦氏は「テレビ局がつくるのは最低の映画ばかり。映画賞もくだらん」と嘆く。作家の山藤章一郎氏が、津川氏の日本映画批判の言葉を報告する。
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工藤栄一監督から、聞いたんです。「ぼくはマキノ光雄さんに育てられた」って。先に系譜をいうと、マキノ光雄は牧野省三の次男。長男がマキノ雅弘。ぼくは、四女・智子の子です。
工藤さんは慶応法科を出て、東映の企画室に入った。のちに、集団抗争劇の傑作『十三人の刺客』や、やくざ映画を作った人です。で最初に、光雄から「毎日一冊本を読め。1年365本の企画書を出せ」と命じられた。工藤さんは3年間きっちりそれをやる。ほぼ1000冊ですね。「それがぼくの演出力とアイディアになっているんだ」と。映画を全盛に導いたのは、そのバイタリティです。そして基本。
原作を読み漁る。テーマをどうするか。何で客を呼ぶか。キャラクターをどう立てるか。
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ここまでの記載から分かるように、プランを立てて業務を遂行する一般的、オーソドッグスな議論でありこれ自体はクリエーターとしてある意味正しい考え方である。このような作家主義でお金を出す投資者がいるならば。
要するに映画なり興行自体の収入では、投資回収ができないという前提の変化が起こっている。クリエーターの作るものに対して「はあそうか・・・」などと、価値をお金を出してみてから評価するということがなくなった、価値観の崩落があると、このような提案が空論になっているということだろうか。
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牧野省三は明治41年、日本初の劇映画『本能寺合戦』で、すでにその基本を打ち樹(た)てている。ヒーローとヒロインは同じ性格であってはいけない。相反、葛藤して初めてドラマになるといっています。それが〈ドラマチック〉だと。大映のオーナーだった永田雅一が「このごろのドラマにはチックがない」といったのは有名ですが、〈チック〉とは、匙加減で少し面白くする、派手にする、そういうサービス精神です。
それがまあ、ひとつはテレビによって日本映画はだめになった。もうひとつは左翼思想。いっとき、左翼にあらずば映画人にあらずの風潮が吹き荒れた。左翼思想は別に悪くないが、反資本になる。
私もマキノ雅彦を名乗って、いくつか監督をやった。叔父である雅弘にマキノを名乗るには条件がひとつあると言われました。自分でカネを出すな。自分でカネを出すと、客を喜ばそうとせずわがままになる。俺が損すりゃいいんだろうと自分の喜ぶ作品をつくる。それはダメだ。金主にカネを出させる。そして必ず儲けさせる。これがマキノの鉄則ですね。
ところが左翼は、資本家を儲けさせたらだめだという。大島渚監督まではなんとかなったが、あとはどんどん芸術映画を作った。芸術映画も結構ですよ。『舟を編む』本当に地味ですが、いい映画なんです。あれこそ芸術。奥田瑛二の『今日子と修一の場合』も実にリアルでいい話なんです。まさしく芸術映画、そらぞらしくない。客も入りません。
娯楽映画がたくさんあって、たまにああいう映画がある。これが日本映画の良心です。山田洋次とはえらい違いだ。『武士の一分』なんて作って〈一分〉を描かない。反対に、武士はだらしないという映画にする。娯楽映画でも芸術映画でもない。なんだろ、あれは。
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これ、芸術映画を否定しているのではなく、むしろ肯定しているのに注意するべきである。ただ、芸術作品と彼のいう娯楽作品との組み合わせが意味があるのに、娯楽作品が変質していくため、相対的に映画全体が存在を薄めてるというのである。
匙加減で少し面白く、派手にするということが、現代の社会ではきわめて厄介な業務になっていることが彼には分かりにくいようである。
まず匙加減というところについてであるが、舞台技術・映像技術というものがツールの開発・普及に伴って、観客の側にも「ああそうやっているのか」とか、「こうすればいいのか」とか、舞台裏が見えるようになってきたし、機材自体を購入することもできるようになってきた。つまり匙加減で面白くすることをさめた目で見始めたようである。
こうなると、いかなる方向性で考えていくか。
とことんツールによって作りこんだ世界を提供するのはあろう。このためには市場を拡大化させなければならない。作りこむには投資、すなわち「ヒト・モノ・カネ」が必要であるし、そうなるとアメリカ発の映画ビジネスのように世界同時フォーマットで映画音楽を(ローカライズをしても)普及させるという投資の回収を旨にした、作り方になる。必然的に誰でも、文化的素地が異なる場合でも同じようなストーリーで理解できるようになるが、このことは派手なことにはできても、観客の想像力を喚起させるということに関してはベースの認識が、その国民の間で共有されていないのだから、必然的に平板な、ある意味陳腐とまで言えるストーリーに落としこむことになる。つまり高いインフラコストを回収するに見合うマーケットを構築するには、汎用的である意味オーソライズされた結果陳腐なストーリーしか作れないし、こまごましたということになる。
もう一つは「派手にするサービス精神」に追従して興味を持つことを娯楽映画は求めているのに対し、すでに顧客が疲れてしまってる場合はないのだろうか。
(続く)
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