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アブストラクトだけ解する読み手と聞き手(4)

(承前)
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今の日本映画にもの申す…「レベルが本当に低い!」 英映画配給会社代表が苦言  産経新聞 4月9日(土)17時30分配信
 英国の映画製作・配給会社「サードウィンドウフィルムズ」代表、アダム・トレル氏(33)と先日話す機会があった。アダム氏は日本をはじめアジア映画を海外に紹介しており、現在公開中の日本映画「下衆(げす)の愛」(内田英治監督)のプロデューサーも務めている。
 「日本映画のレベルは本当に低い。最近すごく嫌いになってきたよ!」
 アダム氏は憤っていた。断っておくが、アダム氏は日本映画をこよなく愛している。だからこその“苦言”なのだろう。
 「アジア映画の中で韓国や中国とかが頑張っている。それに比べて日本はレベルがどんどん下がっている。以前はアジアの中で日本の評価が一番高かったけど、今では韓国、中国、台湾やタイなどにお株を奪われている。ちょっとやばいよ」
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 「下衆の愛」を手がけたのも「好きな日本映画があまりなくて海外配給が大変になってきた。それじゃ自分がプロデューサーになろうと思った」という動機からだ。

 「日本映画の大作、例えば『進撃の巨人』はアメリカのテレビドラマっぽくてすごくレベルが低い。何でみんな恥ずかしくないの?」と一刀両断。最近目立って量産されているコミックが原作の恋愛映画についても「ハーッ」と大きなため息をついた。日本で主流になっている「製作委員会方式」に不満があるようだ。リスクの分散・回避のために複数のスポンサー企業が製作費を出資するシステムだ。
 「日本では映画は製作委員会のもので監督のじゃない。例えば、誰が監督したかみんなほとんど知らないでしょ。監督の名前を宣伝しない。英国などでは出演者には興味がない。『この映画はマイク・リーの新作』などと監督を重視する。日本では、例えば園子温(その・しおん)監督の『新宿スワン』を誰が撮ったかは95%の人々は知らない。監督は製作委員会のパペット(操り人形)なんだ」
 ロンドン生まれのアダム氏は、22歳のときにサードウィンドウフィルムズを立ち上げた。「自分の好きな監督のオリジナル作品を海外に宣伝して配給したり、映画祭に出したりしている。海外でその監督が人気になったら、次作をプロデュースする。例えば園子温。『愛のむきだし』や『冷たい熱帯魚』とかを配給して『希望の国』をプロデュースした。藤田容介監督の『全然大丈夫』と彼の短編映画も海外に配給したらすごい人気があった」。女性お笑いトリオ「森三中」の大島美幸が男役を好演し、海外映画祭で主演女優賞を受賞した同監督の「福福荘の福ちゃん」もプロデュースしている。 日本映画の配給第1号は中島哲也監督の2004年作「下妻物語」。「その前は韓国映画のイ・チャンドン監督の『オアシス』や『ペパーミント・キャンディー』などを配給していた。中島監督はすごくリアルな描写が大好き。『嫌われ松子の一生』や『告白』も海外配給したよ」
 海外ではどういう日本映画が受けるのか。「衝撃的なビジュアル(映像)を持ち、物語にオリジナル性があるものが売れる。園子温とか中島哲也、塚本晋也とか。中村義洋監督の『フィッシュストーリー』はすごい人気で、『アヒルと鴨のコインロッカー』もとっても人気があったよ」
 では今の日本映画の何が悪いのだろうか。一番の問題は「お金」と強調する。「ギャラが低すぎ。キャストやスタッフはお金をもらったらもっと頑張る。『下衆の愛』は予算が低くてギャラも安いけどロイヤルティー(対価)を出す。ヒットしたらみんなと収入を共有するので公平でしょう? お金が戻ってくると、みんな頑張るじゃないですか」
 そんな日本映画に愛想を尽かしているアダム氏だが、海外に日本映画を紹介するための努力は惜しんでいない。「海外版のブルーレイ用に北野武監督の映画をレストア(劣化したフィルムを修復)している。日本ではまだブルーレイはできないけど、イギリスは最近『HANA-BI』『菊次郎の夏』『Dolls』とかがブルーレイになった。また豊田利晃監督の過去作品のブルーレイを作っている。『ポルノスター』『ナイン・ソウルズ』『アンチェイン』とか。塚本晋也監督とも最近、一緒に彼の映画を全部きれいにしたよ」
 やっぱり日本映画を愛しているのだ。
----------------------------------中断
邦画公開本数は2015年に581本、1955年の423本より多く、映画自体が作られなくなった訳ではないが、画像としての創作量はTVドラマを比較すると多くなっているわけで、その存在感は減っていることにはなろう。その当時をベースにして、現代日本映画の「レベルが低い」というのは先にのべたようにいろいろな人が言ってはいる。ただ何をもってそう言われているのかが実は問題で、その人ごとに映画が描くべき究極のモデルがかわっている。
津川雅彦は「日本の映画が欧米だけに限らず、韓国、インド、イランにも負けている。それが壊滅状態のひとつの証。何で負けているかと言うと、市場で負けている。日本映画は世界の市場に出て行っていない」といったようだ。先の話と軌を同じくするが、市場に勝つために取った手法が実は「アメリカのテレビドラマ」的な、推量ができ誤解なく伝わり、その反動として推察や想像性を排除したものになってくるとも言える。ある意味(お金がない、母国語に市場性がない)ことからどうしてもアメリカの劣化コピーにしかならないと思うが、では潤沢なスキームを得るためとなっても、この手法は物量次第になっているともいえる。
でそこで残るのは単館系の芸術性のあるものになろう。園子温や藤田容介というのは訴求力はある作家だが、どちらかといえば「映画で現実を忘れたい」層にとっては、後味悪いものになるところにあり、収益性が悪いものになるし、また一番の問題は「お金」という意味でも、「ヒットしたらみんなと収入を共有するので公平」であるが、投資回収を義務つけられている(それは映画の文化をどうこうということとは別)出資者にとっては、映画ができてから頑張られてもあまりありがたくないのである。しかも、その出資自体にリスクが付きまとってしまうので、製作委員会方式という形でしかお金が集まらなくなったわけで、出資を投資回収という企業的論理で考えると、このような特徴ある映画に対し出資することは可能性が低い。日本独自の製作委員会方式を否定すれば、出資者がなくなるのが現実であることは、投資回収が難しい社会環境にあるともいえることは分かるべきである。(リスクを取るほど日本では出資者の懐は豊かではないともいえる。)
さらに言うと「空気系」「日常系」という映画が、特に増えてきている現在では、日本人があくまで後に残らない映画を好み、かつ考えることを映画のシーンで期待しないことを求めていると思える。(日ごろに後に残る雑事を抱え込んでいる環境では娯楽性の高いものしか見る気がしないし耐えきれない。)TVにおいては「画面を見なくても」ある程度分かるという映画と違った意味での顧客ニーズがある訳だ。これの考え方を「膝を詰めて対坐する」映画に対するニーズと感じると、そら作家主義の求める営業方針とはTV局が出資者になるなら合わないですわな。アダム・トレル氏の求める映画感覚は本当に残念ながらお金が配分されるべき環境になく、母集団マーケットの需要が偏ったため少なくとも日本の映画愛好家と投資家がそれに従ったというだけで、コンテンツの胴元がTV業界に影響されているものになるならこのような話にしかならないのである。

まず、撮影技術についてであるが、アナログによる時代に対して各国がデジタル技術を用いると、撮影技術というよりその撮影機材の選定の方にウエイトがでてくるので、お金でリカバーできるものになりつつある。したがってこれについては技術の蓄積があれば一日の長があるが、投下資本の差でカバーしつつあるものと言える。となると、監督や脚本家に人材が手薄な事、かつ映画作成における投資家が投資回収を厳格に行わなければならないためリスクを取れないことが主因と考える。
ただここで初めて知ったのは、このようないわゆる主張の激しい単館系の映画は、その文化に合わせた形で整理した供給体を取れれば、少なくとも欧州では市場があり、製作費も回収できるともいえるのである。どうもアメリカ形の娯楽一辺倒の映画に対して、相当抵抗感のある人が欧州ではいるということであろう。つまり、日本の場合このような海外への映画売り込みを行う企業を支援するのが先なのではないか。(一方映画配給会社自体の廃業も多くなっているのだが)
------------------------------------再開
 ところで、日本映画が衰退している一因で“その通り”と思ったのは「映画評論家が『この映画はだめ』と言わないこと」という指摘だ。
 「日本人はみんな優しいから(だめだと)思っていても言わない。逆に『すごい』とか持ち上げてばかり。なんでかね」
 これは個人的にいつも思っていることで“わが意を得たり”と膝をたたいた。先日の試写会でも、あまりにひどい出来の邦画を見て思いっきり腹立たしくなった。終映後、社交辞令なのか「面白かった」と話す人も散見されたが、宣伝担当者に不満を話すと「正直におっしゃっていただいてありがとうございます。とても参考になります」と感謝された。
 根拠のない誹謗・中傷はよくないが、だめな映画を「だめ」と言わなければ日本映画に未来はない。(伊藤徳裕)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー終了
映画評論は映画の作成者・企画者に対して話をする場合と、幅広いもともと映画に興味のない人たちに見てもらうことを目的にしている場合がある。例えば故淀川長治は・・・
・「どの映画にも見所はある」というのが持論で、どんなB級映画でも決して悪口を言わず、「このセリフ回しが素晴らしい」、「女性の脚の組み方がいい」など、一般人は見過ごしそうな箇所を見つけては褒めていた。一方でテレビ解説に限っては、淀川はつまらない映画の解説の時はその映画とは全く関係ない部分を無意味に褒め、その映画が駄目なものか良質のものであるかを暗に示していた。
・『日曜洋画劇場』での物腰が柔らかい姿とは対照的に、こと評論においては・・・非常に舌鋒鋭く映画に踏み込んでいた。ビートたけしによると、「こうすれば売れるだろう」といういい加減な計算の作品をすぐに見抜き、酷評していたと言う。
という逸話がある。今でいうトークショーにおいては(多少独断的ではあるが)かなり辛辣な見識を語っていたという。
このように人によってダメな映画というもの自体、求める客層が多様化した結果、ほとんど一般性がない。このため、私はそういうものは「専門雑誌」で買って読むもので、試写会では節度ある対応となるものと思うのだが。

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