アブストラクトだけ解する読み手と聞き手(1)
------------------------------------引用
松本人志、オバマ氏「奴隷」発言の丸山氏にダメ出し 日刊スポーツ 3月11日(金)20時49分配信
ダウンタウンの松本人志(52)が、オバマ米大統領について表現で批判を受けた自民党の丸山和也法務部会長(70)に対してダメ出しした。
丸山氏は11日放送のフジテレビ系「ダウンタウンなう」に出演。問題となった発言について「アメリカはね、昔は黒人を奴隷にしていたけど、人種差別を乗り越えて今では大統領になるまでみんなが支持するような自己変革をする素晴らしい国なんだ」と真意を説明し、「差別する気なんて全く無かった。オバマさんも支持してたし」と釈明した。
丸山氏は自身の発言をめぐる批判について「まるっきり私が言っている逆のこと」と受け止められたと主張したが、松本は「おしゃべりを仕事にしている人間として一言物申したい」と丸山氏の参院憲法審査会での発言について「僕らの仕事でいうところの“オチ”の持って行き方が間違っている」と指摘した。
松本は「どこに起承転結を持っていくか。あの順番であの話をすると、こういう切り取られ方をしてしまう。悪くはないけどミスです。言葉の順番の間違いかな」とダメ出しした。
------------------------------------終了
まあ、いっていること全体を見てみたところで、そう意味のある発言とは思えないのだが、ただし、こういう切り取り方をされるというのは、弁護士のキャリアのある彼にとっては、不如意ではあるのもわかる。もちろん全体に当方の意見と相容れないということはあるが、だからといってこういう取り上げ方は彼にはたまったものではないといいたくはなろう。
この問題は、どちらかというと、意見の応酬に対して寛容でない視点を持つものがだんだん意見を増しているからであろうと思う。ただ、元の発言を読んでなお、失言といういいかたをするのかなあ・・・とは思っていた。ここの失言は内容ではなくむしろ、訴求手法が聴取する人々の読解技術に向いていないということである。そして、松本氏はこのところをピックアップしており、内容のことを言っていないところが興味深い。
--------------------------
いや、こういうことは天皇機関説の議論でもあった。
城西大学・古河電気工業・横浜ゴムを設立した中島久万吉は、足利尊氏が自作した像を見てその感想を俳句同人誌に投稿したのだが、大臣となった13年後、(皇国史観のもとでは)逆賊たる尊氏を評価する者が大臣なのは教育行政にとって望ましくないと両議院で批判を受け、特に貴族院での執拗な追求の結果が、議会の内外の右翼による攻撃、宮内省への批判を招いた。結果、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった。
この状況は、天皇機関説が国体に反するとして攻撃を受け、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)への批判になり、天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行たものの、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が上げた抗議の怒号が収まらなかった。ただそうした者の中には機関説自体理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいた。(ただし批判した菊池武夫議員は次の選挙で落選している)
ここでなんで、平易明瞭に解説する釈明演説を行っても収まらなかったのかということなのだが、今残る文章を見ても、一定の読解力がある人なら「全部読めば」結果は同じであってもシステム的分析か観念的な論理かの違いにしか過ぎないと理解できるとも思えるのだ。しかし、法律の仕組みや文書の読解力、それよりも基礎的な論理の立て方が(観念的で)学者と異なる人には、これはわからないということはわからなくもない。そして政治家の失言とされている発言のうちかなりの割合で、このようなニュアンスで火を噴いた発言があるわけだ。
さらに、読む側にとってもセンテンスを切り取っている表題から、内容を読み進めていくという手法で新聞などを読み、ラジオでニュースを聞くとなると、迅速性の高い報道こそこのようなセンテンスが跳ねて、勝手な方向性に行くと思う。まさに「センテンススプリング」である(誰がうまいこと言えと)。
---------------------------
では、この場合松本氏の言うとおり、この言葉の話し方の組み立てを変えていくと、こんな問題にならなかったのか。もっとも事象自体の事実に関しては、錯誤があると言うところは目に付く。ただ、それを言うとこの演説(参考人招致での質問で、参考人の専門とする内容である)自体が、あまり意味のないそれこそ翼賛的な内容になるわけだ。この内容自体がどれだけ意味があるかというと、まあ切ってもいいかなとは結果的には思うが、あくまで参考人の意見を仮説提案で盛り上げるということであるならば、前に持っていけば、意味が通らない。つまりこの発言をするなら、位置の変更では追いつかないのである。となると、この文意自体を問題視するということにしかなりえないわけで、発言内容自体の否定ということしか結論が出ないし、論旨が「不謹慎」というところしか、センテンス基点で理解する人には内容自体が解釈できないというジレンマが生じそうである。
--------------------------
このようなことを考えると、理解できるレベルのことを単純化し、理解できるようにする専門家と、理解してほしい内容を抽出・発掘する専門家がいて、各々職分を分離しなければならないほど、物事の理解をあまねく広げるのは困難になってきている。その昔報道記者とアナウンサーは同一職分だったのだが、今や(地方の民間放送では職分が混在している場合も多いようだが)キー局・準キー局ではほとんどの場合は分離する結果になっている。そして特徴のあるとがった見識に関しては、その提案を相手となる多様な階層に合わせて説明する必要が出る結果、とく著的な意見は出せないし、出したとて曖昧模糊とするしかないというジレンマに陥る。さらに責任編集という形でとがった意見を出すと、理解できない層・理解できる層がもめて収支がつかなくなる。
天皇機関説の議論の場合、分かりよく、批判の少ない天皇主権説に寄せるしかなかったのは、機関説なるメカニズム的構成は当時の一般人の知的能力を超えたこともあろう。また、政党政治自体に迅速対応ができない調整業務が入ることから機能的でない側面が元来あり、それに対して直感的に動くこともいとわない軍部が評価され天皇を絶対視する思想が感覚的に理解しやすい層が、主権者の中で多くを占めていたということではないかと思う。(しかも当時は徴兵制があり、軍自体のメカニズムは実感されやすかった)
これは学術論争ではなく、政争の道具にされ、軍部による政治的主導権奪取の手段として「国体明徴声明」を出すことで利用されたのである。帝國憲法の立憲主義の統治理念はここで公然と否定されたというが、統治理念自体が複雑で、理解するための知識が当時の社会におけるエグゼクティブ・知識層が、有権者に対して説明納得してもらうには、概念的理解さえもできなかったが、一方盲目的追従もしなかったということか。その上、センテンス的な言葉に引っ張られなければ、理解してもらえないため、国民の大多数に対し言葉が届かない状況になっていたと思う。
(続く)
« その段階で革新性があるものは逃げていく | トップページ | アブストラクトだけ解する読み手と聞き手(2) »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント