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背景にあるプロ意識の耐えがたき重さ(2)

中学生のころむかし、シーザー(今はカエサルというのだが)の劇的な演説で世論がひっくりかえるという話を聞いたことがある。要するにジュリアス・シーザー(シェイクスピア )の一節に由来する。
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この場面では、ジュリアス・シーザーの死後、ブルータスと、アントーニアスのうち、民衆の心を巧みにつかむことができた方が勝利することになるところで、シーザーが暗殺されたのち、アントニーがブルータス弾劾演説をするところがそのものである。ここはシェイクスピア作品中でも有数の名演説のシーンだという。どうも、「ローマ人の物語」(塩野七生)にも出てくるらしいが、これが真実の演説なのかは疑問もあるようだ。

ただし、この演説は故人をしのんでいるように最初は見えて語彙が途中から反語に見えてくるというところにみそがある。直前にブルータスが演説をし聴衆を虜にして、民衆の心はすっかりとらえられている中でもう安心と演壇を下りる。そこで反カエサル派に囲まれたアントニーがブルータスに対して何も敵対した言葉を出さず「哀悼の意」を表する場面がある。
------------------引用-------------
 友よ、ローマ市民よ、同胞諸君、耳を貸していただきたい。今、私がここにいるのは、シーザーを葬るためであって、讃えるためではない。人の悪事をなすや、その死後まで残り、善事はしばしば骨とともに土中に埋もれる。シーザーもまたそうあらしめよう……高潔の士ブルータスは諸君の前に言った、シーザーは野心を懐いていたと。そうだとすれば、それこそ悲しむべき欠点だったと言うほかはない。そしてまた、悲しむべきことに、シーザーはその酬いを受けたのだ……
  ここに私は、ブルータスおよびその他の人々の承認を得て、それも、ブルータスが公明正大の士であり、その他の人とて同様、すべて公明正大の人物なればこそ、今こうしてシーザー追悼の言葉を述べさせてもらえるわけだが……シーザーはわが友であり、私はつねに誠実、かつ公正であった。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、ブルータスは公明正大の士である……
  生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ったことがある、その身代金ことごとく国庫に収めた。かかるシーザーの態度に野心らしきものが少しでも窺われようか? 貧しきものが飢えに泣くのを見て、シーザーもまた涙した。野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、ブルータスは公明正大の士である。みなも見て知っていよう、過ぐるルペルカリア祭の日のことだ、私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たび卻けた。果して、これが野心か? が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、もとより、ブルータスは公明正大の士である。
  私はなにもブルータスの言葉を否定せんがために言うのではない。ただおのれの知れるところを述べんがために、今ここにいるのだ。みなもかつてはシーザーを愛していた、もちろん、それだけの理由があってのことだ。とすれば、現在いかなる理由によって、シーザーを悼む心をおさえようとするのか? ああ、今や分別も野獣のもとに走り、人々は理性を失ってしまったのか !
------------------終了------------
このあとシーザーの遺言が読み上げられる結果、、衆愚が暴徒と化してしまう。まさにこテクニックは演説ならいいが煽動等に使われたり、一般市民・民衆の反感・不信・反抗心・対抗心を示す政治的反応・行動を取り上げるポピュリズム・デマゴーグという大衆的かつ煽動的民衆政治家の側面に該当することかあるのは、昨今の政治の場面でも見かける。
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更にセンテンスが更に短くなっていき、一方ラジオ・テレビと訴求性の高いメディアができると、1発で大きくなるのもまた問題である。ワンセンテンスだけでこれらの効果が何倍も拡張され、短いから更に一人走りする。ヒットラー・ムッソリーニにも言えることであるし、昨今の政治の場面でも・・・・(以下自粛)
そのセンテンス化ということは、このようなアジテートにも表れる。
次期自由民主党総裁の指名を巡って争っていた竹下登が、右翼団体「日本皇民党」から、国会議事堂周辺に「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と宣伝カーで徹底的に誉め称える。(皇民党事件)ただ「悪い人」がほめちぎるので悪い言葉を言わず嫌がらせになる。この右翼団体が竹下を攻撃した理由は、竹下が元首相の田中角栄に叛旗を翻す形で竹下派経世会を旗揚げしたことに「義憤」を感じたためで、「表向き」はお金でないと言えるだけに、竹下は攻撃を止めさせられず、一方「右翼も処理できないとは、竹下は首相の器ではない」と競争相手に批判されていたらしい。(なおこのとき、ほめ殺しなる言葉を発した人物は、浜田幸一だという。)
ほめ殺しなる言葉は、元々は芸能で使われてきた用語らしく、有望な若手を必要以上に褒めることで有頂天にさせ、結局その才能を潰すということらしく、若手(というか子役)からの育成がほとんど家伝になっている歌舞伎関係の人がよく言う言葉のようである。但し、ひろい意味では競合関係にある人物を過剰にほめ上げて増長させ、不祥事等をを誘発させて社会的信用を失墜させ活躍の機会を失わせて才能を潰すこと。攻撃対象者を批判するのではなく、敢えて賛美・賞賛する中で皮肉を織り交ぜることにより、脅迫罪や強要罪の構成要件を排除しつつ攻撃対象者のイメージダウンをもたらす。ある意味演説よりもセンテンスのみの応酬は独り歩きしやすいだけにたちが悪い。
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さて、久々にみたのは、元の芸能の意味する場面でなく「ほめてるように上っ面は見えて、実は結構中は棘ばかりでDisっている」という場面である。要するに、「アントニーのブルータス弾劾演説」を生きる人に対してやったらこうなるのかなあ。

須藤凜々花は、「ドリアン少年」という曲(ただなあ、この曲歌詞が雑・・・という批判を受けている。私はそこまで気にすることはないとは思うが、シングルA面という曲のレベルかなあというのはある)でセンターを務めているNMB48の人だ。頭がいいキャラ(都立の進学高校卒らしい)でもあり、また哲学を好んで勉強しているということで、アイドルというより学業にいそしんだ方がいい人だとも思うのだが。ただそれでも苦労してこの世界に飛び込んだということもあるようだ。(大阪基盤のGrに東京からはいるということもある意味理由があってのことらしい)エピソードトークにしてもちょっと濃すぎる。
参考:http://nmbx48.blog.fc2.com/blog-entry-6506.html最後の 「さすがっす」という言葉は軽くほめているようで、実は見下しているように見えるのがみそである。
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ただ、技術系の会議に出ても最近は運営サイドは結構このような隠喩のある発言がでてくる事がおおくあり、どうも私にはこの点は依然なじめないのである。社会が暗喩と褒め殺しでできてるというのは厄介である。

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