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かように他者への認識は

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2015-11-21 保護者「うちの子にはゲイの教師の授業は受けさせません」→教師が完璧なレスポンス LGBTニュース ゲイ
英国で演劇を教えている同性愛者の男性が、彼の性的指向を理由に「うちの子にはクラスをやめさせる。カネ返せ(要約)」とするテキストメッセージを保護者から受け取りました。この男性が保護者に送った返信が、たいへん的を射ています。
詳細は以下。
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Mさん(26)が演劇スクールで指導している子供の母親から、ある日こんなテキストメッセージが届いたのだそうです。

最近あなたのライフスタイル(訳注:英語圏で同性愛を『ライフスタイル』と呼ぶのは、『同性愛とは神に背いて自分で勝手に選んだ生活様式であり、変えることができる』という偏見を持っている人に特有の行動です)について知りました。クリスチャンとして、うちの子たちが奇抜な考えの影響を受けることは許せません。男性は女性と結婚するべきだというのがわたしたちの信念です。予約金の返金を楽しみに待っています。小切手で送ってくだされば結構です。
M先生のお返事を一部訳すとこんな。
わたしの知る限り、わたしのセクシュアリティーは、教師としての能力に影響を及ぼしていません。それはちょうど、お宅のお子さんのひとりが万一具合が悪くなったとき治療にあたる医師の能力に、その医師のセクシュアリティーが関係ないのと同じです。救急治療が必要なときには、お子さんの健康が何よりも優先されるはずだと信じておりますが、あなたはお子さんの命を救う手術の前にまず医者たちのライフスタイルをチェックしなければならないとお考えなのでしょうか?
そして、返金についてはこう。
遺憾ながら予約金は払い戻し不可となっております。しかし心配ご無用、お宅様からの予約金はもうLGBTチャリティー団体のストーンウォールに寄付しましたから。
(中略)
 上で引用した救急治療の話、ただのたとえ話だと思う人もいるかもしれませんが、ゲイやレズビアンの医療関係者なんて別に珍しくもなんともないんですよ実際。しかし、我が子が交通事故に遭っていざ手術室に運ばれようとしているときに「オペ担当者はゲイですか? 異性愛者ですか? ゲイなら他の医師が来るまで待ちます!」なんて叫ぶ親御さんの話というのは聞いたことがありません。もっと言うと、子供が好きなお総菜をデパ地下で買うときいちいち調理担当者の性的指向を聞く人もいないし、子供部屋の壁紙を貼ったクロス屋さんがゲイかどうかなんて誰も気にしません。こういうときには都合良く性的指向は不問とする(あるいは、子供にとって益となる人間はなぜか全員異性愛者であると解釈する)くせに、別のときには「奇抜な考えの影響」とやらを理由にカネ返せと言い出すのは、筋が通らないというものです。(後略)
---------------------------終了
まあ、言いたいことを帳消しにする追記の記載がなんだかなあという感じがする。このような形で返却を迫るというのも契約の重要さが分かっている国ではまあ、言いがかりに近い側面はある。
まず要件を整理してみよう。
 演劇スクール(日本風に言うと、公的教育ではなく習い事のような気がする) :Mさんは指導員で、私塾の場合予約金(授業料ではない)は返却できないというのはそう変なことではない。
演劇教室は売り物だし思想の違いを尊重するのも考え方であり、そのような硬直化した考え方が前提にある親御さんに対しては、引いてもらうというのはある意味経営的にも当然であるとは考える。だから、このような形の断りはまあありうると考える。

ところで、教育というものの場合、特に品質の担保を考える場合は、教育内容や技術の担保が親御さんにできるとは限らない。そこで多くの場合第三者の評価ということで決める場合が多いが、一方親御さんと指導者がお互いに話ができ、相互にある程度の価値観の共有を図るということが求められる側面がある。(これはコンサルの場合でも似ている)
そうなると、「わたしのセクシュアリティーは、教師としての能力に影響を及ぼしていない」というのは自分の技術を高く持っているわけで、また教室が運営できている事を考えるとそれは一応担保されていると考えるが、全ての人に認知されるかは別物である。教師としての能力以外の「お互いに話ができ、相互にある程度の価値観の共有を図る」ということに対しては、この教師は親御さんにとっては失格であると考えたのであろう。そのため、教師という立場の場合は(宗教学校等、特別な宣誓をしている場合を除いて)あまり思想の色を出さないか、明確に宣言する方がいいと考えている。ゲイである事と、教育者としての人格。公教育の場合、切り分けられる人・技術内容でないとこの理屈は通用しない。「右翼/左翼の教師の授業は受けさせたくない」という話でも同じである。明確に宣言することは、価値観の共有がどうしてもできない人を初めから排除するということになり、公教育では避けるべきものである。その意味では、技能教育・私塾というものでのこの手法は、まあ仕方がないのかなあと思う。
そう考えると、私が習った高校には、某国立大学の助手だった、ばりばりの現役左翼の理科教師がいた。指導は熱心でかつ新機軸を打ち出す(当時としては珍しくVTRで生物や化学の実験を撮影し、時間的に実験できないものをTVに映していた)などであったが、授業に対してはそのような話は一切せず(ただ試験監督に来る時、前衛を読んでいるのはどうかと思ったが・・・)それなりの評価を得ていた記憶があった。他にもLGBTの可能性のある先生はいくらかいたが、教師としての能力は高くても会話が父兄と成り立つという前提は守っていたようである。
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ただ、「救急治療が必要なときには、お子さんの健康が何よりも優先されるはずだと信じておりますが、あなたはお子さんの命を救う手術の前にまず医者たちのライフスタイルをチェックしなければならないとお考えなのでしょうか?」というのは、なかなか難しい話である。
医師にとってはその倫理的志向として古くは「ヒポクラテスの誓い」とそれに影響された「ナイチンゲール誓詞」 ・「ジュネーブ宣言」がある。          

「ジュネーブ宣言」
医療専門職の一員としての任を得るにあたり、
私は、人類への貢献に自らの人生を捧げることを厳粛に誓う。
私は、私の恩師たちへ、彼らが当然受くべき尊敬と感謝の念を捧げる。
私は、良心と尊厳とをもって、自らの職務を実践する。
私の患者の健康を、私の第一の関心事項とする。
私は、たとえ患者が亡くなった後であろうと、信頼され打ち明けられた秘密を尊重する。
私は、全身全霊をかけて、医療専門職の名誉と高貴なる伝統を堅持する。
私の同僚たちを、私の兄弟姉妹とする。
私は、年齢、疾患や障害、信条、民族的起源、性別、国籍、所属政治団体、人種、性的指向、社会的地位、その他いかなる他の要因の斟酌であっても、私の職務と私の患者との間に干渉することを許さない。
私は、人命を最大限尊重し続ける。
私は、たとえ脅迫の下であっても、人権や市民の自由を侵害するために私の医学的知識を使用しない。
私は、自由意思のもと私の名誉をかけて、厳粛にこれらのことを誓約する。

となっており、抽象的かつ概念の固定化・読みかえはあるが、基本的には医師の側が子供に限らず治療を忌避することは、基本的には(医療遂行が困難な場合はともかく)ありえないのである。
しかし、患者側ないしは患者側の環境が、『命を救う手術の前にまず医者たちのライフスタイルをチェックしなければならない』というのはあって、そこは価値観の共有なのであくまでサイは患者側にある。その意味でこの説明を加えた追記の内容はどうかなあと悩むものである。
たしかに、ゲイやレズビアンの医療関係者は別に不思議な存在ではない。しかし医療関係の人に聞くと、我が子が交通事故に遭って「オペ担当者はゲイですか? 異性愛者ですか? ゲイなら他の医師が来るまで待ちます!」ということは、そうないわけではないそうである。「オペ担当者は仏教徒ですか。違うなら他の医師が来るまで待ちます!」「オペ担当者は男性ですか。男性なら他の医師が来るまで待ちます!」というのは、実際はないことではない。とまれ、一般には一刻を争うということで押し切られてしまう。従って業務上の資質目的と個人的志向は分けるならば、受診者が会話を拒絶するような自己宣言は業務の妨げになる。
特に一部の宗教で輸血をしないことを宗旨としている方が運ばれた場合は、義務教育を終えていない15歳未満の患者に対しては一時的親権停止、15歳から17歳の患者については、本人と親の双方が拒めば輸血しないが、いずれかが希望した場合などは輸血を行う事例もあり、裁判にもなっている。更に救急車で運ばれてきた病人が、その宗旨での治療を拒否して、転院前に亡くなったということも(自分が入院していた折り!)聞いている。(この場合は医師の宗教的バックボーンが問題になったようである)ただこれによって訴訟ごとになることは、いまだにある。
総菜をデパ地下で買うとき調理担当者の性的指向を聞く人はいないとは思うが、一般商店でコロッケを買う時に、意識する人(そして店を変える消極的行為)はやっぱりいた(し、残念ながらそういうことで廃業した店舗もある)わけで、上記のような視点をする人は、実際のところ都合良く性的指向は不問とするということとさえしないというのも経験している。
要するに、多くの場合、価値観の異なるどころか価値観が真っ向から相反している文化圏においては、価値観共有化は難しいのであるが、この幅がこの議論でも更に顕在的に出ている。別に未接触文化とか敵対性の高い相手(例:インド洋北センチネル島には、文明を拒絶し、外界との接触を一切持とうとしない部族が6万年以上前から暮らしており、近づく者に襲いかかり死者も出ている。)でなくても、最近はテロ等の現状、国際的なヘイトスピーチの段階でこのような場面はもういたるところにあるのだ。
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金返せというのは全く別のところで議論することである。ただそれを前提で議論を深めるなら、このようにある程度積み上げの中で構築された美学的要素にはわかりあえないということがでてくる。要するに専門職に対しては同じ価値観の中での信頼という前提がないことには業務が成り立たない。
これは、昨今の原発の議論でも技術者の信頼に関する志向の低下が強くなり、そもそも人は信頼するべきものではない(リスクを前提にして信頼をするということではもうなりたたない。リスクを算定する者・それを用いて立案をする者全体が信頼するべきものとはいえない・・・)ということを言うのにも似ているのだが、現実問題価値観が真っ向から相反していることのために、業務推進ということは事実上むずかしいことがでてくる。
小田嶋隆 @tako_ashi
「話せばわかる」という前提がお花畑である旨を指摘して何かを言ったつもりになっている人たちに、
「話さなければわかりようがない」ということをお伝えしておきたい。

「テロリストとだって話せば分かる、酒を酌み交わせばわかる」という言葉もある。まあ実際に酒を酌み交すということではなく、あくまで深く話すことであろうと思う。私は話すこと自体はトリガーとしては一番優先であると考えるので、これが甘いことという苦言には同意しないが、しかし、妥協できる先の核心的問題において一番深刻な話が出たときに、「問答無用」ということになってしまうのは、やっぱり免れない。
たとえば話してもわからないテロリストは、コミュニケーションの手段を交渉ではなく暴力を選択したとなるわけで、彼らとのコミュニケーションを、暴力以外で行なう余地はないということになる。共通言語としてのコミュニケーションのツールがそれしかないからで、戦争がいつまでたっても終わらないのはコミュニケーションの手段がないからではあるし、また核心的目標も持てないわけである。大きな世界の警察が存在しない中での戦争の終結は、概して相互の死体の発生ということが、共感できる手持ちのコミニケーションとなってしまうことも言えなくはない。
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そうなると、価値観の違う上に、相容れる姿勢もなければそもその相反して終息がつかない人に対してこの先生がとった対応は、ある意味「芸術」というものの中では比較的いい手法である。しかし、その引き合いとして医療をもってくることなどは、価値観の違いが現実には内包しているものを切り捨てているという無茶な手法のため、単に無茶な論理を出していると見えてしまう。その意味では完璧なレスポンスどころか悪手であろうし、それを擁護した追記は、なんだろうかと思ってしまう。ただ、代わりの手法があるかというと、SNS上ではこれが限界であると考える私もいる。

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