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プロ意識と無限責任

ある意味ストーリーは似ている2つの事例を並べてみる。
(1)
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日本がなぜ戦争したかは、新国立競技場問題が教えてくれる 週刊プレイボーイ連載(206): 2015年8月10日
1923(大正12)年12月27日、国会議事堂に向かう皇太子(後の昭和天皇)の車が狙撃されました。犯人の難波大助は、父親が衆議院議員という山口県の名家に生まれた24歳の若者で、ステッキに仕込んだ散弾銃の銃弾は車の窓を破ったものの、同乗していた侍従長が軽症を負っただけで皇太子には怪我はありませんでした。
欧米のジャーナリストを驚かせたのは、事件よりもその後の出来事でした。
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内閣総理大臣の山本権兵衛はただちに辞表を提出し、内閣は総辞職しました。当日の警護の責任をとって警視総監と警視庁警務部長が懲戒免官となったばかりか、道筋の警護にあたっていた(事件を防ぐことはとうていできなかった)一般の警察官までもが責任をとらされて解雇されます。

難波の出身地の山口県の知事と、上京の途中に立ち寄ったとされる京都府の知事は譴責処分となり、郷里の村は正月行事を取り止めて「喪」に服しました。難波が卒業した小学校の校長と担任の教師は辞職し、衆議院議員である難波の父親は自宅の門を青竹で結んで蟄居し、半年後に餓死したのです。
政治学者の丸山真男はこの皇太子狙撃事件を例にあげて、日本社会の特徴は範囲の定めのない無限責任にあると論じました。いったん不吉なことが起きると、関係する全員がなんらかの“けがれ”を負い、批判の矢面に立たされるのです。
こうした無限責任の社会では、いったん責任を負わされたときの損害があまりにも大きいので、誰もが責任を避けようとします。その結果、天皇を“空虚な中心”とする、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会が生まれ、破滅的な戦争へと突き進んでいったのです。
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新国立競技場の建設計画をめぐる経緯は、戦後70年を経ても、日本が「責任と権限」という近代のルールからかけ離れた社会であることを白日のもとに晒しました。
事業の発注主体であるJSC(日本スポーツ振興センター)も、監督官庁である文部科学省も、オリンピックを招致した国や東京都、JOC(日本オリンピック委員会)などスポーツ団体も、計画にかかわったとされる政治家たちも次々と責任を否定しますが、この異様な光景も、「なにが起きても自分は責任を取らなくてもいい」という無責任を条件に参加しているのだと考えればよく理解できます。(中略)
過去の戦争をめぐる議論の本質は、中国や韓国からの批判ではなく、いったい誰に戦争責任があるのか日本人自身にもわからないことです。新国立競技場問題は、この疑問にこたえてくれる「生きた教科書」なのです。
参考文献:丸山真男『日本の思想』
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(2)
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バンジージャンプできなかったアイドルを叩きまくる 14歳にこれほど「プロ意識」を求めるなんて...  2015/6/19 18:30
バンジージャンプができなかったアイドルグループ「HKT48」の矢吹奈子さん(14)に対し「プロ意識がない」「もう帰れよクソガキ!」などと激しい批判が向けられている。
テレビ番組内の罰ゲームだったが、直前に泣き出してしまい飛ぶことができなかった。バンジージャンプは大人でも飛べない人がいるほど恐怖心にかられる。まして14歳、無理もないとも思えるのだが。
「ママに、生きて帰って来てね、と言われた」と怯える
矢吹さんが出演したのは「AKB48」グループメンバーが出演する日本テレビ系バラエティー「AKBINGO!」。2015年6月10日と17日、「AKB48」メンバーと「HKT48」メンバーによる野外での勝ち抜きゲーム大会が放送された。最下位になると、罰ゲームとして下に川が流れる高低差42メートルのバンジージャンプをしなくてはいけない。かなり過酷のようにも思えるが、出演していた今売出し中の若手メンバーにとっては、自分をアピールできる美味しい状況になる。10日の放送では矢吹さんと同じ年で「HKT48」メンバーの田中美久さんがバンジーをやり、 「寿命が1年延びた。もう1回飛びたい」とはしゃいでいた。しかし矢吹さんはゲームが始まる前から「ヤバイ、ヤバイ」などと呟きながら仲間たちと離れて歩き、「ママに、生きて帰って来てね、と言われた」などと怯えていた。ゲームに負けてジャンプ台に立った時には顔面蒼白の放心状態。それが10分ほど続き、とうとう泣き出し飛ぶことはできずにギブアップした。
「死にそうな顔してる子供に飛べって言う方が頭おかしいよな」
番組の続きは17日に放送された。矢吹さんはまたゲームに負け、飛ぶことになった。以前のギブアップから4時間後のことだという。出演したアイドルは10人ほど、ギブアップしたのは矢吹さんただ一人。2回目だから大丈夫だ、などとメンバーが励まし、矢吹さんがジャンプを練習する様子も放送された。余裕を見せてジャンプ台に立ったのだが、足がすくみ大粒の涙が。そして、 「危ない。やっぱ怖いです。本当に無理です。怖い。無理・・・・」と再びリタイヤすることになった。
2週続けのギブアップを見ることになったAKBファンは怒り心頭に発したようだ。ネットには、
「これほどまでに使えないとは」
「もう帰れよクソガキ 甘やかすな」
「もっとプロ意識を持って一つ一つの仕事で結果を残していかないと」
などといったコメントが並ぶことになった。
もっとも、まだ14歳、可哀そうではという声も目立つ。
「冷静に考えると飛びたくないって死にそうな顔してる子供に飛べって言う方が頭おかしいよな」
「13歳の女の子がバンジー飛べずに泣いたってええやん」
「許してやれよ 唇が土気色してたからさ」
「子供叩いてなにが楽しいの?」
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(1)は虎ノ門事件という。
「責任と権限」という近代のルールと彼は言っているが、ではこの場合は責任というのはどういうことを具体的に示しているのであろうかと思う。たとえばお金のことを言っているのかというと、そもそもこの金額をすべて背負える人はいない。また権限というものを厳格にしてしまった結果、関係ある人間をとんでもなく増加させてしまったともいえる。つまり事業を起こす時のリスクという意味では税法上の無限責任のほかに倫理的な無限責任を負わせるというが、この無限責任を負わされる事によって社会の一見誠実な運営ができているという現実もある。
このようなことを考えると、「なにが起きても自分は責任を取らなくてもいい」という無責任を条件に参加するものしか、本件は誰も引き受けるものはいない。一種のリスク管理である。責任が分散しているものだから各々が意見をもちだすわけで統制がとれないが、一方責任をとる人物を設定すると、今度は責任がゼロだったらら誰も動かないということになる。更にこのような責任を負わせるにはそれなりの高額な人材コストを払って人を雇うことが必要であるが、そういう人材に対してはむしろ従わず、結果的にカネに従う人のみが従う。「このようなことが起きる前提を考えると、日本ではすでにオリンピックを背負う責任能力のある体制をとれないし、そのようなトリガーを盛り上げる社会の構成ではない」と私はかねてからあげているのだが。
更に、「過去の戦争をめぐる議論の本質は、誰に戦争責任があるのか日本人自身にもわからない。」という議論をしているのだが、私は、ドイツに関しては過去の無限責任を基本、特定の人間に集中的に負わせてしまっているからこそ整理ができているのであり、責任をとるとすればそれを選出する人間に責任があるがこれに関しては国民全員に将来にわたって負わせるという認識をしている。ただこれは合成の誤謬という認識でかつ無限責任をとれる人間がいないということになり、かつ天皇の責任を問うことが治安上否定されたということになると、そもそも戦争責任を問える人間なぞいないとなってしまう。日本が「責任と権限」という近代のルール自体をかなり極端に解釈し、それを前提に社会が構築されているという方が、私は妥当性があると考える。
このようにお金など具体的高額資産が絡む場合は、責任をとるという前提が絡んでしまうためかなり要件としては困難である。しかし基本的に日本人はお金をもらった業務には無限責任を求めるし、また無限責任を負うことが前提であると考えなければならないと、担当者にも経営者も、そしていっぱんの人も思っている節がある。
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(2)はこの無限責任に関する見かたが、すべての仕事に関して求められてしまったということである。
矢吹奈子はHKT48にに入る前からCMや映画の子役として実績を積み、今もAKB48チームBのメンバー兼任というように仕事は評価されている上に、果ては芸歴13年といじられる始末である。

また、(ある意味今の師匠格である指原を慕ってというが)HKT48にに入るため、埼玉県から家族ごと福岡県に引っ越したという、ある意味ステージママによることもあるかもしれないが、比較的業務意欲が高い(ように仕向けられているところがある)HKTの中でもプロ意識が極めて高いメンバーといった方がいいという。そういうことを考えると、ステージママなら、「ママに、生きて帰って来てね、と言われた」とは言わせないと思うわけだが、まあそれは仕方がないだろう。
テレビ番組内の罰ゲームだったが、直前に泣き出してしまい飛ぶことができなかった。バンジージャンプは大人でも飛べない人がいるほど恐怖心にかられる。しかもその意見を出しているTVの先の人間は直接的にお金を出しているわけでない。それに対して、「お金をもらっている価値がない」というのは、労働対価の責任を無限に求め、かつ職業倫理的な面でも無限責任を負わせるような発言を、対価を払うことをしないものがいって追いつめるというようなことになってしまうのである。たしかに、この無限責任を負わされる事によって社会の一見誠実な運営ができているという現実はあるのだが、言う人の職業倫理感覚を押し付けることになる。少なくとも放映する側(要するに賃金・コスト・そしてリスクを引き受ける側)が放送している以上職業倫理上ではバンジージャンプを跳ばないというのは、納得ずくで業務を遂行していると認識できる。そして師匠格である指原も、かつて同じようにバンジージャンプを跳べずいじられるもとになったことも、影響している可能性さえある。

(1)に戻る。
・内閣総理大臣・山本権兵衛は慰留されたもののし全体責任をとり内閣総辞職
・警視総監・警視庁警務部長(のちに政治家・読売新聞社社主となる正力松太郎)が警護責任から懲戒免官
・出身地山口県知事は2ヶ月間の2割減俸
・犯人が立ち寄ったとされる京都府知事は譴責(なおこのころの知事職は官選である)
とここまでは公的なものである。うたれた皇太子(昭和天皇)は「家族の更生に配慮せよ」と指示したらしいがが実際は類は忖度が忖度を呼び地域全体に及んでいく。
・卒業した小学校の校長と担任が教育責任を取り辞職
・犯人の父親(衆議院議員)は辞職し・蟄居の上餓死
・難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め謹慎
・長兄は勤務先を退職(次兄は辞意を示したが慰留というよりは退職届を破棄されたという。のち三菱重工の社長になる)
現在でも犯罪者の家族が生活ができないような人権無視の環境におかれることは、洋の東西を問わず法律が機能しているところでは逆に行われる(逆に法治主義がない地域ではこの問題が起こりにくい)。このように、責任者を明確にするということは共同正犯という認識になってしまうということ(これはけがれ云々というよりは、潔癖症という方が向きではないか)になる。また衆議院議員まで勤めていた家は没落したが、これは地域全体で排斥したということがいわれる。問題点の排除意識が人権維持という考え方に勝ったともいえる。

しかし、その根幹は日本人の職業観が、集団統制の中で守旧的環境を維持するということ前提で構築され、逆に責任も全て共同正犯となり、裁くことが問題解決というよりその人員の抹殺に近いことになるため、あまりにも手戻りが大きくなるということになるのだろう。従ってこれを直すどうこうという議論が広がる場面は、まず台湾二・二八事件のようなことが全国で生じるとかしても変わらないと考える。しかもこのような具体的排斥が起きる引火点は極めて低いのである。「範囲の定めのない無限責任」ということではなく、無限責任が全ての責任分担のデフォルトで、論評する際に波及が来ないようにして意見が言えるただ一つの方策が、姑息ともいえる無限遠点からの匿名による意見表示であるというのもいかがなものか。

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