即戦力を求める人(2)
(承前)
どうも、資本の求めるニーズに対応するというのはこういうことではとおもった記述である。
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アメリカにみる大学の将来 (池上彰) 2015/5/25 3:30 日本経済新聞
アメリカの大学といえば、リベラルアーツ教育に力を入れていることで知られています。学部の4年間は、人間としての基礎的な教養を身につけることに重点を置き、専門的な学問は大学院で学ぶというのが一般的なカリキュラムです。
と思っていたら、最近はだいぶ様相が変わってきたというのです。『フォーリン・アフェアーズ・リポート』という、アメリカの外交問題誌の日本版5月号に、「米エリート大学の嘆かわしい現実」という論文が掲載されています。
■現状は「リベラルアーツの充実」と正反対
それによると、アメリカの大学の多くが、学生に教養を与え、啓蒙するという伝統的な場ではなくなりつつあるというのです。教養よりは、最新の資本主義の目標と需要を満たせるような人材の育成に力を入れるようになったとか。
「大学は学部生を教える仕事を薄給の非常勤講師に任せる一方で、学生とはほとんど接することのない著名な研究者を引っ張ってくることに血道をあげている」という声が紹介されています。
これでは、アメリカの大学の特徴とされてきたリベラルアーツの充実とは正反対です。
これは、ひとごとではありません。日本の大学でも問題になっています。学部レベルの授業は非常勤講師の献身的な努力に任せっきり。非常勤講師の給料は時給計算。信じられないくらいに低く、これで経費を節減。浮かせた費用で高い報酬を払って著名な研究者に来てもらい、大学の名前をアピールする。こんなことがまかり通っていては、学部レベルの教育の充実につながりません。
「特許などの知的所有権の技術ライセンスが大きな収入源となり、企業が資金を提供する寄付講座が増え、資金だけでなく、授業内容にまで口を出してくる」(同誌から)
大学も経営努力をしなさい。外部資金を持ってきなさい。これは、しきりにいわれることです。その結果、大学本来の教育機能が失われていくのではないか。これが懸念されているのです。
アメリカは、いつも日本の少し先を行く。となると、アメリカのいまの姿は、明日の日本の大学の姿なのでしょうか。すぐ役に立つ大学であれ。プレッシャーが高まります。
■「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」
そこで思い出したのが、去年、地方の国立大学の文系の先生から聞いた言葉でした。「地方の国立大学には文科系の学部は必要ないという方針が打ち出されているんですよ」との恨み節です。
そういえば、青山学院大学の猪木武徳特任教授も、5月3日付読売新聞朝刊で、このことに触れていました。
文部科学省のウェブサイトを検索したら、ありました。去年9月、文部科学省から各大学に出された「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」についての事務連絡です。
それによると、「学部・大学院それぞれにおける教養教育について、そのポリシーを明確にし、更に充実すべきではないか」との意見がある一方で、次のような提言が盛り込まれていました。
「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むべきではないか」(一部抜粋)
「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」とは、地方の国立大学には、もはや教員養成系学部や人文社会科学系の学部は必要ない。もっと社会から求められる学部に改組すればいい。こういう意味なのです。
「社会から求められる学部」ばかりつくっていたら、社会からの要請がなくなった途端、存在の意味がなくなってしまいませんか。「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」と喝破した慶応義塾の塾長だった小泉信三氏の発言を思い出してしまいます。
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「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」というのは感じることはある。HowTo本は、たしかに付け焼刃に対応としては好適であるのだが、問題はここから遡及してこの基礎的内容に立ち返り、自分なりにでも理由付けしないでおくと、すぐ使えないとか応用ができない内容になってしまう。ただそのこととこの言葉はちょっと異なるようだ。
小泉信三は「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」。だから、「すぐ役に立たないようなことを教えれば、生涯ずーっと役に立つ」といったらしい。
まさにこのことが「リベラルアーツ」なのだろうと思う。幅広い知識を知っている事はこの意味では知識とされ、教養とは言わない。知識の関連付けから仕組みが見えてきたり、新しい知識が古い別の知識の関連をつけるということをできるような習慣付けを行うことができる能力を教養というのではと思う。これを繰り返すことができるとその構成全体がおぼろげながらも見え、ある程度の現象の将来の推察が可能になる。
同じことは先端的な科学技術にも言える。それまで習得した最先端の知識も大学を出ていくらか経つと役に立たなくなる必然性がある。(この辺りの滅却時期は技術によるが、従前この年数が20年ぐらいだったのが最近は5年といわれているらしい)となると、技術の進化についていく、新しい知識を身につける、という手法自体を体得させ、習得する必要性が大学での教育にある。「すぐ役に立たないようなことを教え」るのはそこから現実に目の前で起きていることに関する対応ができる訓練の機会を与えることである。
ただし、大学教育では「早く専門的なことを勉強したい」という学生のニーズはあるし、また専門的内容を知っている事を企業が高く評価する結果そのような人物が重用される(就職が容易になる)。一方一般教養を知っていても企業は収益スキームに関わらない以上、業務の関連知識としての認識をしないとなると、「リベラルアーツ」を知っていることは(かろうじてその人の人格を評価するとしても)意味がないとか、果ては「業務に集中できないため採用に値しない」ということさえできてくる。つまり、企業の経営面から考えるとその人の成長や資質の伸び代は、自分たちの企業活動の伸長に関わらせないと考えている場合が多くなっているのではないか。さもなくば、その人の成長や資質の伸び代によって企業活動が伸長するようなフレキシブルな体制をとらないという企業の経営姿勢という場合もあろう。
後者はすこし説明が必要で、あまりにも作り込んだ企業システム(特にサービス系)では独創性や独自対応は企業運営上忌避される事である。いちいちこのアクションの意味を考えて行動するような人材は、何も考えずに機械的に対応する人材に劣るという適性上の問題がでてくるのである。
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「社会から求められる学部」ばかりつくっていたら、社会からの要請がなくなった途端、存在の意味がなくなってしまうという指摘を池上氏はしているが、これは大きな論理の逆転である。
社会からの要請がなくなってきた結果、社会から求められる学部を作る体制を余儀なくされ、それが社会に求められなくなったらカリキュラム・学部名を変えていくという、大学や学問にとっては主体性のない対応を求められているわけである。更に言うと、本当はこのような場合、特に「独創性や独自対応は企業運営上忌避される」事業形態の企業が人材を大学に求めるというのは、高校卒業の人材では資質が更に低く使いにくいという消極的理由だったりするし、実務における教養の関与が排除される業務が相当数増加している。
ただこのような大学の人材育成機能に対する要求の低下というのは、どうやらシステム化によりがちがちに均質化した企業経営が求められていることで、下手に「リベラルアーツ」の知識をもった人材は企業内では使いにくいという方向性に至っている企業体が、どうもアメリカでも増加しているのではないだろうかと思う。というか、法規遵守・CSRはある意味企業体での自律的に考える人の存在を否定する機能でもあるという事であろう。つまり、その雇用者の人生まで企業体は及ぶことができないという人権意識が起きている事を考えると、大学のリベラルアーツ教育自体には社会的価値はともかく、企業経営には一利なしという経験をした経営者が多くなっているともいえる。
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これとは別の事例になるが、当方はかつて企業内教育の運営実務を行っていた。職能別集合研修を数日行うときには、必ず「リベラルアーツ」的な内容を90分ぐらいは入れることをしていた。いわく、論語の話とか、クラッシックの演奏会とか、海外駐在経験者による文化論とかである。これは、日ごろ対外的交渉等を行うことがある中核人材では、そのリベラルアーツ・教養をどこかで引き出す余地を作っておかないと、社会的な面でも妥当な判断行為ができないという視点をもっていたからだそうである。また、実際には終日研修を行う場合でも、このように広範囲の内容にしないと、聴講者がだれてしまう側面もあり、非常に私は賛同していた。
ところが、これがあるときからやり玉にあがる。コスト面での問題はたしかにあるが、このようにリベラルアーツや教養をもっている人間が尊敬されるかというとむしろ競り負けるという場面がでてきたというのである。交渉事で紳士的な行動と論理的な説得によるような場合があっても、教養ということがない人間相手の場合むしろひけらかすような見かたになるんだそうで、むしろどやされるとかになる。一般的に高圧的な人間に折衝する時はリベラルアーツの視点はむしろ邪魔で、力の論理、ないしははぐらかすなどというどちらかというと論理的にはいかがといえる行為、おためごかしのテクニックの方が有効で、むしろこのようなことに「リベラルアーツ」的思考はブレーキをかける。かつこの強欲さ自体が国ごとの文化の差異を超越するということが公然と語られてきだした。
そうなると、企業が目指す経済活動の上では「リベラルアーツ」的思考をもたない人間の方が、強欲経済の上では有効になる。強欲な資本経済は「リベラルアーツ」を捨て去っている人間の方が尊重される、まさに弱肉強食の社会を夢見ているのではと思うのである。
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但し、大学に限らず、若いうちに「リベラルアーツ」的な意識を取り入れた方がいいという視点はある。あくまで自分の生活の中にとどめるしかないのだろうが、それでも陰にこういう意識をもって探究心を育てる配慮をしておくというのは、長く生活力を維持できる場面が更に増加すると考える。
---------------引用
http://amass.jp/56433/
人は33歳までに音楽的嗜好が固まり、新しい音楽への出会いを止める傾向がある、という研究結果が話題に 2015/05/14 17:13
人は33歳までに音楽的嗜好が固まり、新しい音楽への出会いを止める傾向がある、という研究結果が話題に。テクノロジー系ブロガーのSkynet & Ebertが音楽ストリーミング配信サービスSpotifyのリスナーデータをもとに調査。それによれば、
「10代の大半はメインストリームのポピュラーミュージックをいろいろと聴いているが、20代になるとその頻度はゆっくりと落ちはじめ、30歳ぐらいになるとメインストリームのポップミュージックはますますその割合が減っていきます。平均して33歳までには新たな音楽を探すのを止めるようになり、音楽的嗜好が固まる傾向がある」
とのこと。
また研究では男女の違いについても説明
「10代の頃は男女ともに同様の音楽を聴きますが、その後は男性はメインストリームの音楽を聴く傾向が女性よりも早く下がっていく」
とのこと。
[source]
http://skynetandebert.com/
http://www.altpress.com/
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あるいみ「音楽に限らず大体の知の探求欲が消え失せる」のだろう。33歳という値が他の知的内容にも通じるとは言わないがトレンドはそう変わらないのではないか。今見聞きしているもので満足し、単なる探究心が消え失せるということではないかと思う。あるいみ硬直化・老化現象のことかもしれない。となると、新しい刺激を得るということに対する考え方を構築することは教養ということではないが、むしろリベラルアーツということになるのである。そう考えると33歳より前に少なくとも知識を習得する方法をを覚えていくことは、時々刻々変わっていく社会に対して、生き延びる可能性をグーンとあげるということは言えるのではないかと思う。もちろん古い知識蓄積は(滅却はするだろうが)消えては行かないだろう。知の探求欲が消え失せるというなら、知の探求が容易に可能になるルーチンを得ておけば、いいという考え方である。少なくとも、知の探求欲をもっていることががストレスになるという前には。
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