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即戦力を求める人(1)

このニュースに関してはいろんな媒体の記事があるが、私はこの記事が短くてもまとまっていると思った。
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“即戦力だけ”は「産業界の求める人材とは対極」 経団連、国立大の文系学部見直しに声明   ITmedia ニュース9月11日(金)12時29分
 日本経済団体連合会(経団連)はこのほど、文部科学省が6月に各国立大学に通知した、文系学部の見直しを求めた通知について、「即戦力を求める産業界の意向を受けたものとの見方があるが、産業界の求める人材像はその対極」との声明を発表し、安易な見直しへの懸念を表明した。
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 文科省は6月、各国立大学に通知した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」で、18歳人口の減少を見すえ、教員養成系や人文社会科学系の学部について、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」などとした。

 経団連は、産業界が求める人材像として、「理系・文系を問わず、基礎体力や幅広い教養、課題発見・解決力、外国語によるコミュニケーション能力」などが大切とし、大学・大学院では、専門分野の習得に加え、留学などを通じた文化・社会の多様性の理解などが重要と指摘。理系でも文系科目を学ぶこと、文系でも理系の基礎知識を身につけることも必要と指摘する。
 一方で、日本の公教育は「画一的、知識詰め込み型」で、産業界の求める人材に必要な能力は身につけにくいと指摘。各大学が学長のリーダーシップの元、強みや特色を生かす形で機能分化を進め、主体的な改革・経営刷新を行うことを求めている。また、政府に対して、大学の主体的な改革を最大限尊重するよう求めている。
 経団連は、大学幹部との直接対話などで意見交換に努めるほか、企業人講師の派遣やカリキュラム作りでの協力、海外留学のための奨学金事業などを通じ、大学との連携を強化するとしている。
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経団連がこの手の政策に公然と異見を明らかにするのは異例であろう。直前の文部省からの通知に企業の意向を反映したものとの批判が広がり、その総本山は経団連などという認識さえ出た。科学者2千人以上の科学者でつくる日本学術会議も政策に深い懸念を示した。
私なりにまとめてみると
*経済界は即戦力がほしく、文系はいらないとは認識していない。
*日本の公教育の現状は画一的、知識詰め込み型の教育に偏り、産業界の求める能力とは異なる。
*各大学が主体的に判断し、リーダーシップによる強みや特色を活かす機能分化改革の必要性はある。
となるだろう。これは従来の大学に対する人材の養成と、研究体制によるアウトプット訴求の現状を肯定し、加えてこの活動が文系にもさらに及ぶということを示している。ある意味現状肯定的であるわけだ。

一部の報道では、本来は教員養成学部の見直しについての指摘であり、本質としてはどうこうということではないのが話が広がったという話もある。というのは、教員養成系学部において、教職免許状の取得を卒業要件としない『ゼロ免課程』という一般教養を主と部門があるがこれを整理しようということである(一種のリベラルアーツ)。これについてさえも、もともと師範学校を前身とする国立の教育系学部は、GHQの指示で米国のリベラル・アーツ・カレッジを範として戦後に設立された場合が多いわけであるが、リベラルアーツ教育に対しては、日本の国情では専門性に乏しいため教職以外の業務に対しては社会的ニーズが極めて乏しい(この問題は科挙の伝統のある中国・韓国でもつきまとう)という事情が大きく、一部の私立大学以外は多くは定着せず、教員養成専門ということに振り分けられた。
もちろん、理系は国立に、文系は私立に任せようという動きは従前からあった。文系といわれる分野が一部のエリート以外に対するものが、国家による監督の特性にそぐわないという側面、逼迫する国家予算の配分課題もある。もし国の教育政策の方針がエリート教育志向とすうなら、大学教育のカリキュラムも変えなければならないわけである。
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ところで、日本学術会議は声明で、「社会的要請の高い分野」の定義については、「具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請もあれば、長期的な視野に立って知を継承し、創造性の基盤を養う役割を果たすという社会的要請もある」と指摘。「前者のみに偏り後者を見落せば、社会の知的豊かさを支え、より広く社会を担う人材を送り出すという大学の基本的な役割を失いかねない」と言っている。

但し、厄介なのは「具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請」というものである。
成果の測定ということが利潤ということになっている場合、このテリトリーによる利潤回収が極めて効率的な業務スキームが主に高い収益構造になってきており、そのような企業が人材採用の主流になっている企業は多くなってきている上に、収益構造が高いため、大量に雇用が生じることになる。
一方「長期的な視野に立って知を継承し、創造性の基盤を養う役割を果たすという社会的要請」の活動は、研究機関などに求められたり長期的な視野にたった投資(人材投資を含む)を求める企業体にて得られるものであるが、こちらは公益的視点に立った投資であったりするため、投資回収が高くならない傾向が出てきており、昨今の状況では必然的に雇用の創出規模が低くなりがちである。そして、この立場の企業が多くなっているのが製造業がメインとなる経団連である。つまり経団連の立場が社会の正義であるとは言えない情勢になっているわけである。

こうなると、社会的要請は絶対数では、当意即妙に踊る成果を測定することになじみやすい要請の方が社会的に資本形成を行うためには投資対効果が高いということになってしまう。(そしてサービス業が多くなる多くの企業は、この経団連の活動に批判的になってきている)というわけで、大学における知の概念を頭から否定することで事業が成り立つということが現在の社会ではできているのであろう。
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昨年10月7日、文部科学省の有識者会議で、株式会社経営共創基盤CEOの冨山和彦氏の主張が議論を呼んだ。一部のグローバル人材を生み出すG型大学、その他をローカル大学(L型大学)として位置づけ、現在の大学制度そのものを見直す提案であり、G(グローバル)企業とL(ローカル)企業とに分けて考えろという。この考え方は現状の教育というもの自体に否定的である。
G企業(GDP 30%)は知識集約型で、グローバル経済圏で勝つか負けかの戦いを強いられ、高度なしかし少数のグローバル人材が求められる。L企業(GNP70%)は地域産業で、労働集約型で人手を必要とする。一部のトップ校は世界に通用する高度人材を育成し、それ以外の大学はL経済を支える人材育成を担う。大学も機能分化すべきというのがこの提言の趣旨といえるだろう。
ただこれは案外な問題をもたらす。L企業自体はそもそも高度な思考訓練・思考能力を必要としない人員でも業務が成り立つという場合が、業務資質上成り立つので、結果的には現場における問題解決という基本的な技術変革の可能性を頭から潰してしまうことになる。また欠点としては知識集約型の人材は、実は教育・思考経験の繰り返しで育成することができるといっても、その発露の時期は中学・高校でなく大学生活で芽吹くということが実際は多いことである。G大学の学生が思考訓練に耐えきられるかというと、これはそうでない(適性がない)場合も多く、むしろL大学の学生がむしろ思考訓練に耐えられるという場面も多いというのが私の肌感覚である。
更に言うと、少なくとも30代ぐらいまでこの思考訓練に耐えられるかどうかという人材の入れ替えは生じる。いわゆるG企業の社員と議論してみると(これらは概して思考能力があるという前提のはずなのに)すでにそのような能力がなくなっているという人も多くある。反対にL型大学で頑張ってきた人にも、遅咲きで思考訓練ができている人も多く(そしてこういう人はG型企業への雇用さえも考えられなかった環境である)、この間には年齢としてG型大学に行っていて訓練されていても、むしろL企業の方に活躍できる素地をもっている人が多いという場面も多くなっている。
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こう考えるとG企業を育成するとしてもG型大学で育成された人材が後に思考能力を低下することがあることを考えると、「長期的な視野に立って知を継承し、創造性の基盤を養う役割を果たすという社会的要請」に対応した人材はG企業でも活躍できるし、場合によってはL企業でも活躍でき、更には両方を行ったり来たりすることもできるのに、「具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請」という育成からG企業に向きな資質を得たとしてもそれが用されるわけではない。つまり大学教育においてすそ野を広げておかないと、結果的に人材全体が枯渇するということが30年単位で生じることになる。問題は多いし、一部の学科の整理統合は必要とは言えるが、それはあわてて行うと人材全体の崩壊を招く。
 G型はグローバルに競争できる高度な人材が必要だ。しかしハーバード大学やオックスフォード大学などは、ごく一部のエリート対象の教育機関であり、その卒業生は労働人口の1%にも満たないがこれで回っているという議論をする人がいる。とはいえ、ハーバード大学・オックスフォード大学等にいた複数の日本人と話をすると、大所高所からの議論で現実分析をするためのツールが理解力と想像(創造ではない)性しかないため、すり合わせ的な議論は全く成り立たないということを感じたことがある。大学ではなく産業構造の問題とみるということも視野に入れた方がいい。
製造業はグローバル化で新興国に生産拠点を移し、日本に残るのは研究開発と経営だけという意見を見る。しかし生産拠点がない地域は研究開発を起こすトリガーがなく、何らかの形で生産拠点を維持しない限りは研究開発は後追いしか成り立たないということもある。また経営においても経営の問題点を現地幹部にあげる現地の従業員がいないということは、多くある。そうなると、職業訓練校という言い方にされたL型大学の出身者がそれなりのロジックを一応でももっていないと、大本の事業が腐るということになるのである。
というのは、仕事で海外の製造工場の指導に関わったことがあり、問題解決能力が(品質という意味だけ見ても)低い企業が生じるのは、結果的に基礎的な思考訓練を学校などでしていても、そのロジックの偏りが多い人材・その知識の偏りが多い人材の場合いずれも、人材の入れ替え(特にアメリカ・カナダの事業所では、企業内教育ということを初めから投資対効率から入れない場合が多い)という当たり外れの多い手法しか成り立たないというものも、見たからであろう。そして(現地にいた人間にも聞く話だが)知識に関する共通のコンセンサスは、まず日本人では現場作業者に対しては無理だと嘆いていたところ、現地のキーマンの方が頭からそのようなコンセンサスをとることをあきらめており、下手すると家畜を扱うような扱いになっているということがあるようだ。(憎悪の問題もあり一律にこれを言うのは問題があるが、このような視点に対しては『アーロン収容所』(会田雄次)の著作を思い出した)
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胴元である企業の方が「具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請」をベースにした企業ばかりということも起きるというのもある。このところはいかんともしがたいという悩みはあるのだが。

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