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日本人の意識下にある「よいひと」

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失言のオンパレード…森喜朗元首相という人【鴻上尚史】    週刊SPA! 7月18日(土)9時21分配信
(前略)
 劇作家・鴻上尚史氏は、新刊『この世界はあなたが思うよりはるかに広い』の中で、森元首相とのエピソードを紹介している。2014年ソチオリンピック・フィギュアスケートの浅田真央選手に対する発言に関して書かれたエピソードだが、森元首相「らしさ」も納得できるコラムなので、ここに紹介する。
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◆森・元首相という人
 数年前、ラジオ局の偉い人に赤坂の小料理屋に招待されたことがありました。ビルの6階か7階だったかと思うのですが、1階でエレベーターに乗ろうとしたら男性が一人、先に階数表示のボタンの前に立っていました。
 その人は、僕が乗り込もうとしたことに気付くと、ごく自然に「何階ですか?」と聞きました。そして、少し微笑みながら、なんの抵抗もなく、当たり前のように、階数ボタンを押そうとしました。僕は、少し戸惑いながら、階数を答えました。「同じですね」とその人は柔和に付け加えました。
 まるで、エレベーターボーイのように、階数ボタンの前に立ち、なんの疑問もなく、人に聞き、その通りにする――それが、昨今話題の森喜朗・元首相でした。

 森・元首相は、僕が招待された同じ小料理屋で、支持者の人達との会食のようでした。気さくにしゃべる話し声が漏れ聞こえる中、「ああ、この人は、これが魅力の中心なんだな」と僕は思いました。
 秘書や部下を引き連れて、その人達にすべてやらせて、自分を結果、高く見せる人はたくさんいます。売り上げという数字が根拠になっている企業人ではなく、得票数という評判が根拠の政治家さんは、その根拠が薄弱であるからこそ、周りを使って、自分を高く見せるのだと思います。
 俳優さんも、そういう傾向があります。スポーツ選手は数字ですし、音楽アーティストはアルバムの売り上げ枚数という、明確な根拠ですが、俳優は「人気」という、じつに曖昧なものです。だからこそ、お付きの人数とか名前の表記の順番とか出演時間とかに、こだわるのです。
 で、僕は森・元首相の、あまりにも気さくであまりにも自然体の振る舞いに、衝撃を受けたのです。
 僕を見たときの反応から考えて、森さんは、僕のことを知らなかったと思います。ただ、後から人が入ってきたから、階数を聞いて、ボタンを押した。それだけのことです。
 簡単なように聞こえるかもしれませんが、40年以上政治家という職業にいながら、こんなことがサラッと当然のようにできるのはすごいことだと思います。首相までやった人です。
 どこかの大企業の社長が、一人赤坂のビルのエレベーターに乗っていて、あきらかに自分より年下の他人が乗り込んできたとき、穏やかな声で率先してボタンを押すでしょうか。気さくな、人の良いおじさんなんだな。僕はそう思いました。
 そう考えると、浅田真央さんへのあの発言。「なんとか頑張ってくれと思って皆見ておられたんだろうと思いますが、見事にひっくり返っちゃいましたね。あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね。なんでなんだろうな」は観客へのリップサービスだったんだろうと感じるのです。
 人の良いおじさんは、観客が聞きたいことを話します。観客をもてなすためです。その場で、一番、求められていることを話す。それが、後々、どんな影響を与えるかどうかは考えません。目の前の人を楽しませることが大切だからです。だから、失言のオンパレードになるのです。
 こういうおじさんは、じつは、職場にも親戚にも普通にいます。その場を楽しませるので、人気があったりします。
 もちろん、全体を楽しませるために、相手に余計なことを言ったりします。
「ちょっと太ったんじゃないか?」
「髪の毛、薄くなってないか?」
「結婚、まだなのか?」
 みんなが聞きたくても聞けないことを、じつに悪気なく、言います。そのざっくばらんさが人気の元です。けれど、東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を務める人は、「必ず転ぶ」などという表現をしてはいけないのです。
 驚いたのは、ネットで「全文を読んだのだけれど、どこにも悪意はない。これはマスゴミのでっち上げである」という弁護がずっと続いたことです。もし、森・元首相が民主党だったとしても、みんな、弁護したか? 絶対にしなかったと僕は断言します。
 悪意があろうがなかろうが、絶対に言ってはいけない言葉が「立場」にはあるのです。親戚や窓際のおじさんが言えても、言ってはいけない「立場」はあるのです。こんな人が会長をやっていてはいけないのです。
----------------------------終了
 地元の評価などを見ても森氏を頭がいいということで評価している人は、見事にいないらしい。また古い世代の政治家という認識もある。但し、親しみやすい、しゃべることはいい加減でも聞くだけには明瞭である、いざというときのみにリーダーシップを発揮するとか、さもなくば、「支援者みんなの意見をまんべんなく聞いている」という評価になるわけで、少なくとも民意を聞いているという信頼(あるいみ誤解)、そして民意に対し二枚舌を使う狡猾・あくどいことを行うほど頭もよくない(苦笑)をされることにある。
個人的には、少なくとも知識の量などを考えると、彼に国家を任す知力があるとはまず思えないという意見には、私も同意するかないだろう。ただ、体力と話を聞いてるような姿勢を取りながら進めるということができるというところがあるような気がする。
たしかに、『悪意があろうがなかろうが、絶対に言ってはいけない言葉が「立場」にはあるのです。・・・こんな人が会長をやっていてはいけないのです。』というのはわかるが、これだけ失言癖があるのに、なんでいい年で引退しても、もういいと思うのにまだ持ち上げられるのかを考えるべきである。
どうも彼にはリーダーシップを誰も求めていないのでは。ただ、むしろ彼の運動関係の国内外への人脈と良くも悪くも図体か示す存在感があること、それで人脈が広く、良くも悪くも「穏やかないい人」ないしは「ゆるキャラチックな容姿」を醸し出していることから、少なくともみんなから、お金を出してくれる(寄付)たり、それとも何らかお手伝いしてもいいなという人がいる、人脈の構築を考えると存在価値は高い。また、リーダーシップが最初から高い人がけん引するプロジェクトは結果的に破たんしてしまう日本社会の情緒的かつ倫理的な視点の限界、更には支援者には金銭的繁栄(利潤の誘導)しか与えず新規需要の創出は基本的に難しい、スポーツの祭典という今となっては価値創出の効果が偏るものでは、どうしても妥当な人材自体がすくなく、必然的に森氏が次善の策となるしかないのではと思うのである。 「気さくな、人の良いおじさん」でない場合は、協力しないというボトムアップ的な意欲は、経済の衰退と先行き不安の中では少なくとも企業人は出資しようとしないだろう。
『こんな人が会長をやっていてはいけない』。そうだろうと思う。「全文を読んだのだけれど、どこにも悪意はない。これはマスゴミのでっち上げである」というのもやや無理繰りだし、本当ならこういうタイプの人は、副会長ぐらいに退く方がいいだろうとも思う。又国際政治の中では二枚舌を使う狡猾な手口を使うことができないのは、決してほめられたものとも言えない。(但し二枚舌を使う狡猾さは国内では急激に人望を失うという、日本国民の視点もまたあるのだが。)
しかし、本会の長のような業務を受ける人が嫌がって受けない、受けるべき資質の人が選定できないという中では、人材がいないOR育たないOR報酬が詰めない(実際、経費以外は手弁当という話もある)なかで会長に値する人間は払底し、比較的近くにも彼しかいないとなると、選択肢がなく上記の記載は無理筋ではとおもう。能力があたわないと言われながら、競合候補が一向に出てこなかったのである。日本人がこの「祭事」に適した人材を育てること・人材を見出し推薦することができないということをまず問題にするべきだ。厄介な神輿というかゆるキャラ相当品の神輿を担ぐしかないのだろうと思う。
ただし、意外と当人は切り替えが早い(うたれ強いともいえるが、むしろこの場合は外野の讒言に鈍感ともいえるのだろうが)ところがあるのは、目的意識の高さという意味では他の政治家に比べれば、まだ救いかも知れないとさえ思うことがある。それを考えると「もし、森・元首相が民主党だったとしても、みんな、弁護したか? 絶対にしなかったと僕は断言します。」という言葉はおかしいかもしれぬ。民主党だったとしたら彼はそもそも国会議員に連続当選したかも疑わしい。事実あのタイプの政治家は民主党にはいないと思う。
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もっとも私自身は、五輪の開催ができるような状況に、日本の社会ができるほどの体力と、集団幻想をもつ意識付けをすでに持てないと思っており、。今回の五輪開催は副次的な混乱を前にも後にも生じるだけで、やるべきではないとはとはまだ思っている。

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