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公的資金で行う内容(2/2)

(続く)
長い文章である。要旨には必ずしも全面的に賛同しないし、それはちょっとと思う記載もあるのだがが、このような場面と意見は想像できる。できれば原文を参照願いたい。その2項目目である。
------------------------要約引用
http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20150504-00045406/
日本の理系の常識は、世界の非常識?-公的資金での研究は、国策に沿う必要があるのか?2015年5月4日 19時43分  みわよしこ (フリーランスライター 立命館大学先端総合学術研究科一貫制博士課程在学・元々科学技術の研究者だったようである)
さまざまな立場と考え方の発表が一同に会する、学会のポスター発表会場。
公金で行われる研究は、政府の意図に沿うものであるべき。さらに、納税者の期待を裏切ってはならない。
日本では、このように考えられがちです。特に理工系では、その傾向が強いようです。しかしこれは、世界の科学界の常識ではありません。
国によらず、そういうプレッシャがあるのは確かです。しかし「常識です!」と言い張れることだとは認識されていません。
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------------------------再開(要約)
今回の発表では科研費は使っていない。「国のカネで研究して発表しているのなら、国策に反する発表はしてはならない」という感覚は、日本では相当根強い。

しかし、カネの出処が科研費であったとしても、国策に沿うことを求められる理由にはならない。
学問の営みは、さまざまな実験が行われ(実験が可能な分野の場合)、調査が行われ、データが集められ、仮説が立てられ、検証され、議論され、反駁され、次の研究へとつながっていくことで成り立って来た。科研費をはじめとする研究資金は、この学問の営みそのものを維持するための投資だ。研究資金を得たのが大学であれ研究機関であれ企業であれ、分野が何であれ、違いはありません。右か左か? 現政権の意向に沿っているかどうか? そんなことは問題にされません。少なくとも現在のところは。
そもそも、「国策として次世代産業のための研究開発を推進する」は、日本以外の国では、それほど一般的というわけでもない。シリコンバレーの価値観では「次世代に『来る』のが何なのか、国や政府が予測できるわけはないから、ベンチャーに好き勝手にやらせて有望株が育つのを待つのがよい」という視点もあるが、これがその国・その文化で実行可能とは限らない。ただ、「国が決めて推進するのが当たり前」「公金で行われた学会発表は、ふつー、国策に沿うものでしょ?」という感覚は世界ではない。もっとも、国策に沿わせる制約は他国にないわけではないが、基本的にはいけないという認識ではある。
--------------------------中断
この学問の営みそのものを維持するための投資というものは、すでに企業研究機関では縮小が始まっている。というのは基礎研究を行う研究施設をもっている企業には、学会で行っている基礎研究を取り込むこと、ないしは基礎研究を取り込むためのリサーチを「基礎研究」としている事例がきわめて多くなっていると思うのである。
学問の営みである実験・・・・・・次の研究へとつなげるための人件費を確保する資産は、それなりに多いのだが、分野によっては設備投資コストが支えきれない。また研究投資が回収まで至るまでに、他社に成果を奪われるなど投資回収が成り立たない分野が増加してきた。こうなると確かに研究資金は、学問の営みの維持よりも、投資回収を確実化するための支援に近くなっている。また「産官学一体」というべき研究体制でも、企業による参画者や大学でも私立大学などでは、産官学のさまざまな拠点から集められた研究者が協働するといっても、研究のリソースの分け前にあずかるという「いっちょ噛み」の視点も無視できなくなっている。
このような変質だけでは、多様な人々による協力・多様性の重視・異質な人々とのコミュニケーションということはなくなっていない。しかし、研究体制の設立自体が国策に沿っているというより、国策ありきで研究体制を組むというのは、現体制の意向を忖度して研究体制をくんでいるとか、現体制の動向に合わせた目的達成をした研究組織を組んでしまうような現象が目につく。現政権の意向に沿っているかは問題にされないが、ただ研究成果を取り上げられず、科研費なども支給されない・・・成果の存在を無視される・・・ということである。人文科学ではまあそれでも研究されうるが、自然科学においては人件費などもこの科研費等を前提にしているため、そもそもの着手が不可能というところになる。
この点、大学の研究機関に関しては、元々の趣旨から外れるようなことは今のところは少ない。これは「教育」面の要素がある程度存在しているからではないかとおもうが、企業が経営の根幹になっている学校の場合は、それでも改廃がされている事例はあると聞いている。この場合は「スポンサーが支援した研究は、企業の施策に沿うものであるべき。」であり、この点はむしろアメリカの方が鮮明である。

以降は、元の文章をそのまま記載する。
---------------------------------再開
おそらく、政治的立場を明らかにすることや、政治的意見を科学研究の場で表明することに、日本の「理系」は、あまりにも慣れがないのでしょう。だから「国策と違うことを学会発表するな」とか「公金で政府方針と違う学会発表をするなんて」という意見につながるのでしょう。
でも、これからでも「慣れ」を作るべきです。その「慣れ」は、あらゆる人の自由を守ります。
今、国策に沿った研究ならばスムーズに行えるのであるとしても、その「国策に沿う」を決めるのは「お上」です。もしかすると、「納税者感情」も都合よく使われるかもしれませんが、とにかく自分ではない何者かによって決められることです。
いつ、誰が、あなたの意見を、あなたの活動を、あなたの研究を、「国策に沿わない」とするかわかりません。
そのときに、自分の意見や活動、そして研究を守るのは、国策に沿っているかどうかではありません。
そんなものに左右されない権利であり、自由です。
まずは、トイレの個室の中で小さい声で、改憲問題や辺野古問題などホットな話題について、誰にも聞かれないように小声で、自分の意見をつぶやいてみましょう。
そんな小さなことからでも、時間をかければ「慣れ」と度胸は作れます。
--------------------------------終了
これは当方の実感としてではあるが全く逆なロジックだろうと思う。この理由は、比較的自由な研究者として、しかし実績を作るのに苦労してきたこの文章の筆者と、企業内研究者の経験が長い当方との違いなのだろうが。

政治的立場を明らかにすることや、政治的意見を科学研究の場で表明することは、研究を採用する人達について、その技術を採用すること自体を躊躇させる。その環境では「国策と違うことを学会発表する」などの行動は、自分の研究自体を採用する人を失わせ、研究活動自体をやめざるを得なくなる。実は、そのため社会科学・自然科学の研究者をやめるしかなくなった人を、当方もいくらか知っている。人物は優秀でも、研究活動自体ができなくなってしまうため、研究活動から教育活動(その中には教員として中高生の指導に軸足を移す)にいける人はまだ救いである。そして、その中には『いつ、誰が、あなたの意見を、あなたの活動を、あなたの研究を、「国策に沿わない」とするかわかりません。』そのものの事例が見え、その点はあまり中国の状況を笑えないのである。自由刑のような拘束こそないものの、社会的な拘束・兵糧攻めは可能であるわけだ。
そういう視点から、政治的意見を科学研究の場で表明することに研究者が慣れがないとは私は思わない。意見を言うことに対しての習熟は、巧拙はあっても少なくとも一般人よりは研究者は高いのだが、やりたいことややるべきことの優先順位からみれば、政治的意見を科学研究の場で表明することは排他事項になるということであろう。研究活動をやめてから、政治的発言を繰り出す研究者の存在は胡散臭いと思う人もいるが、ある意味そのほうが意見が言えるということではないか。
反対に政治的立場を明らかにすることや、政治的意見を科学研究の場で表明するということに対し、そもそも政治的内容・人文科学は「定量性」に欠けるけるという事から適性がないと考えて、自然科学に進んだという人も多いようである。確かに、定量性・再現性を求める学究的志向は、政治や人文科学においてはむしろ戦略的な立案能力の欠如になってしまうことがある。(なお研究計画は、戦略的な立案能力であるため、似ていると思えるが、研究計画は立てられるもののそれを「政治」として運用できない研究者は多いようである)
そういうこともあって、自分の意見や活動、そして研究を守るのは、自分の考えと合致する国策を維持する国に動くか、研究職という立場を放棄し、他の仕事の合間に自身の研究を(他の支援を得ずに)継続するという選択になってしまうのではと思うのである。それは権利や自由の拘束でない、社会による拘束であろう。

「自分ではない何者かによって決められること」が支配する研究開発の世界で、ある研究者はこう言っていた。「だとしたら、いかようにも踊れるように、研究の種のストックをため込んで必要に応じて引き出すことで、やりたい研究を行うことができるようにするべきであろう。その結果自分がやりたい研究が現れた時・回ってきたときにタイミングよく出せれば目的は叶うのでは」と。

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