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「鋼板の厚さ」から離れられない

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自動車の安全性、「鋼板の厚さ」から離れられない中国人=中国メディア  サーチナ3月16日(月)18時40分
 中国メディアの天府早報は13日、中国のネット上では日系車が事故で大破した写真や「日系車は鋼板が薄いため安全性に劣る」などといった情報が氾濫していると伝える一方、「中国以外の国では日系車に対する評価は中国国内の評価とまったく異なる」と論じた。
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 記事は、米国では「中国人消費者に“信頼性に劣る”と認識されている日系車は、米国では信頼性が高いと評価されている」と伝え、米国の権威ある調査機関や団体においても日系車の安全性や信頼性は「欧米ブランドの自動車を凌ぐほど」高い評価を得ていると指摘した。

 続けて、中国では日系車と欧米の自動車のどちらがより安全なのかという議論は絶えず行われているとし、同メディアの記者が四川省成都市内の自動車販売店で100人の中国人消費者にアンケートを行ったところ、75人の消費者が「欧米ブランドの自動車のほうが安全」と回答したことを紹介。
 さらに、その理由として「欧米ブランドの自動車は鋼板が厚く、日系車は鋼板が薄い」、「一部の日系車はフェンダーを指で押すだけでへこむが、欧米ブランドの車はまったくへこまない」などといった意見が挙がったと紹介した。
 続けて記事は、「鋼板の厚さを理由に自動車の安全性を語り、自動車を選択するうえでの要素とすることは意味のあることなのだろうか?」と疑問を呈したうえで、自動車専門家の言葉として「鋼板の厚さは自動車の安全性を決定する要素ではない」と指摘した。
 さらに、「敢えて壊れることで衝突のエネルギーを吸収する一方で、キャビン部分を頑丈に造る日系車はむしろ安全性が高い」と論じ、欧州の自動車安全テスト「ユーロNCAP」では多くの日系車が最高評価を得ていると指摘し、「アウディなど一部のブランドを除き、フォルクスワーゲンやプジョーも最高評価を得ることができていないのが現状」と紹介。
 つまり、日系車の安全性は「中国人が誤解しているような水準ではなく、欧州ブランドの自動車も中国人が想像しているほど安全性が高いわけではない」などと論じた。
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衝突安全を得るボディーの構造は、衝撃を吸収する「クラッシャブルゾーン」と、乗員の安全を確保する「セーフティゾーン」(キャビン構造)に分けられており、全体ではこれらを組み合わせたモノコック構造である。
簡単に言うと衝突事故のほとんどは、オフセット衝突である。フロントが複雑につぶれても、キャビンが原型をとどめ、乗員が無事でドアが開く、さらには歩行者事故を巻き込む場合もダメージを減らすため歩行者頭部保護性能テストもある。
また、側面衝突に対しては、低速事故でも人的被害が大きく、衝撃を吸収するスペースを確保しにくいため、鋼板の厚さを調整したり構造を複雑に組み合わせたり、衝撃吸収のスペースを捻出してエアバッグ等を配置することで安全性を確保する。このほかにも種々の対応がされている。
日本、オーストラリア、韓国、中国、ヨーロッパ、南米・北米では多少差異があっても、同様の衝突テストが実施されているのだから、中国に流通している車が基準に適応していないわけではないのである。そして概して仕向け地に応じて部品や構造をそう大きくは変えられない。(型も一緒である)となると、中国と日本で安全性を変えるのは法規的なチューニングのほかは大きな差が起きないようである。
なお日本車でも自動車会社によって「クラッシャブルゾーン」の作動を優先させ、その構築を前提にフレームを構築する場合と、フレームを確固なものとしてその中で「クラッシャブルゾーン」等をどう構築するのかはメーカーによってかなり設計手法・検証手法に違いがある。この差異、ひいては設計思想の違いは、引いては車体構造の差にまで関わってくる。
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但し、これはたとえば他の自動車等との衝突に対して自分の車が壊れても他人を守るというところまで考えるのが是であるという日本人の感覚と、衝撃吸収はたしかに必要であるが基本他者に対し引くことが、負けと解釈されたらそのあと社会的に一段低くみられるという日本以外の見かたの差が、設計思想の差の奥底にないとは言えないと思うのである。というのはドイツ車はこのバランスが屋や日本とことなっており、まず衝撃からのディフェンス、しかる後に防護という作りになっていると見えるのである。
http://dehabo1000.cocolog-nifty.com/holder/2014/09/post-d34d.html(自虐感覚)でも述べたのだが、
自虐的な発言の適否は、聴取相手のきわめて属人的知識と理念に依存していると考える。

(1)自虐性のある主張は、交渉内容の調整検討をしているという姿勢を見せるといういみで、積極的であり誠意ある姿勢を見せることができることは、そのバックボーンが分かっている相手だったり、交渉相手がある程度心理的・金銭的余裕がある相手であれば、説得性を持つ。これは全面勝利というような圧倒的な圧迫感を持たない交渉では有効である。また、「暴力装置」を持たない交渉の場合、この手法は選択するなかでは効果が大きい可能性は高いものである。
(2)核心的利益を奪い合うような交渉のように、調整代が全くない交渉に陥った場合、自虐性のある発言自体が回りまわって自己のダメージの材料になる場合がある(本当の意味で自虐になってしまう)。これは事実認識自体が各々の革新的利益のためにいくらでも論理を構成できるようにバイアスが成り立つものであるからである。この状況は第二次世界大戦前の日本の交渉がうまくいかなかった場面で、いくつかみられる。
(3)文化の差異が広いため、相手文化を理解すること自体がどだい無理というのが、国際紛争でも多くある。このようななかで、文化的融合を求め自虐性のある発言で会話・交渉の糸口をつかむことは、そもそも謙譲という概念がある人のみで行えばそれなりの成果が得られる。但し民主主義ではこのような謙譲による交渉が国益上であしき妥協と見える場面も多く、更に謙譲による交渉を無意味と判断する人間を選出する事もあり、謙譲という概念自体を持つ人間が用いられていない傾向が出てきた。(一部の経済人が政治家になる場合、謙譲という概念をあえて持たないからこそ、政治家になりうる経済的資質を得たともいえる。今に始まったことではないのだが。)

つまり、国際的には謙遜を行うような習慣は理解されず、隠喩なき直截的言動が意図を良く伝えると珍重されていると感じるが、国民の中でも実際の利害交渉で誠意を尽くした話し方がすでに交渉行動の中では求められないという雰囲気の場合、単品的が「部分的に」構造が弱いということが自動車「全体の強度」と異なるといっても、弱いということが、全てを悪く解釈されるならばデメリットと見なされることになると思う。
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「負けるが勝ち」ということがある。もし自動車で人にぶつかったとしてへこんでしまっても、相手が傷を最小にするなら、それは一つのメリットになるというのは、ある意味「負けるが勝ち」であろう。ところが、負けるが勝ちを英文に約すると、「To lose is to win.」という言い方(勝つための屈服)とかいうようであるが、倫理的な意味合いというより、取引等の戦術や戦略的な、どちらかといいうと姑息な意味合いという話をネイティブから聞いたことがある。他に「Yielding is sometimes the best way of succeeding.」という記載もあるが、成語というよりは教訓的に扱われるなど、ニュアンス的には大いに異なるということで、全く同意の言葉はないという話も聞いた。
この辺りを考えると、やっぱり「鋼板の厚さ」から離れられないというのは、どうも民族の思考全体にあり、どっちが正しいかどうかというのでなく、そういうものという見方の差異があるという設計というものの考え方をお互いに知ってもらうしかないと思うのである。

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