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自己責任論は醜悪なのか(1/2)

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池上彰さん、声震わせ「彼の笑顔ばかり浮かぶ」  読売新聞
ジャーナリストの池上彰さん(64)は「本当にショックで……。今は彼の笑顔ばかり浮かびます」と言葉を詰まらせた。
「後藤さんは紛争地などで苦しんでいる人たちのことを『世界に伝えたい。誰かが行かなきゃいけない』と常に言っていた。『戦争の犠牲者はまず女性であり、子供』とも話し、常に優しい目を向けていた」と語り、「イスラム国に敵対していたわけではなく、悲惨な現状を伝えるために赴いた人を殺害するというのは本当に許し難い」と声を震わせた。
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過激組織「イスラム国」による日本人人質事件で、フリージャーナリストの後藤健二さん(47)が殺害されたとみられる動画が31日夜(日本時間2月1日早朝)、インターネット上に公開された。
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ご冥福をお祈りいたします。

後藤さんはNHKやテレビ朝日から現地報道を受託していたどある。いわゆる戦場カメラマンといわれる人は、現地レポートなどをすることも割とよくある。その意味ではNHKで報道の一線にいた池上さんとも面識は当然あっただろう。厄介なのは、悲惨な現状を伝えるいう使命を感じたといえども、このこと自体がかの「国」の国益に反し敵対していると認識されたなら、これはすでに相入れる物はないともいえるジレンマなのである。
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http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20150125-00042523/
「自己責任論」で中世に退行する日本 古谷経衡 | 評論家/著述家 2015年1月25日 3時6分
・吹き荒れる自己責任論
イスラム国(ISIS)が、ジャーナリストの後藤健二さんと湯川遥菜さんの二人を拘束し、法外な身代金を要求するという事態は、日本のみならず世界中に衝撃を与えている。
さらに1月25日、イスラム国が湯川春奈さんを殺害した事を仄めかす画像を、ネット上に公開した。
人命に関わる微妙な問題なので、書くべきか書かざるべきか、これまでギリギリに悩んでいたが、風雲急を告げる事件の性質上、やはり書かずにはいられない。
事件発生以来、やはりというべきか、2004年のイラク日本人人質事件の時と同様、拘束された二人に対し、主にネット上で「自己責任論」が沸き上がっているのは、ご承知のとおりだ。
簡単にいえばこの「自己責任論」というのは、「(人質となった二人は)危ない地域と承知で行ったのだから、何をされても自分が悪い」というもの。「身勝手な二人のために、例え身代金以外に掛かる諸々の費用であっても、税金の無駄ではないのか」という意見すら、ネットの中では散見される。正直言ってこんな風潮は世も末だと思う。
こういった「自己責任論」には、綺麗なまでに「同胞」という意識が欠如している。「同じ日本人同胞が、海外で危険に晒されている。同じ日本人なら、彼ら助けたい、と思うはずだ」という認識に従って、イスラム国の誘拐犯らは、動画の中で「君たち(日本人)が同胞を救助するために政府に圧力をかけるための残された時間は、72時間だ」と言った。しかし、当の日本人から返ってきた少なくない反応は、「同胞」という意識を全く欠如した「自己責任論」。この反応は、イスラム国側も想定の範囲外だったのかもしれない。
・「動機が不純」は関係がない
遡ること、2004年のイラク日本人人質事件の際には、人質になった3人は、既に外務省から出されていた渡航自粛勧告を無視する形でイラクに入国し、拘束された。今回拘束された湯川さんも、内戦状態のシリアの深刻な状況を認識した上で、語学能力にも事欠く状況で渡航した、とされる。後藤さんは拘束前、「何が起こっても、自分の責任」というメッセージを残している。
今回、「危険を承知で」あえてイスラム国の近傍に渡航した二人に、全く何の落ち度もないのか、というと、特に湯川さんの方には、経験や知識という意味で問題がありそうだ
「動機が不純だから」とか「当人が危険性を予め承知していたから」などという理由で、「国外で危険に晒されている同胞を助ける必要はない」という結論に達するならば、これはもう「近代国家」の根底が崩壊することになる。
・近代国家と同胞意識(中略)
・中世のレベルに退行する同胞意識
「台湾出兵」から100年以上たった現在、近代国家の根本である「同胞」という価値観が全く欠如した「自己責任」を問う世論が、今回の事件を契機に特にインターネット界隈で盛んだ。
「(シリアに渡航した)動機が不純だから、国家は彼らを助ける必要がない」という自己責任論がまかり通るのなら、それはもう「鎖国という祖法を破って、海外に渡航する領民については、何をやっても幕府は捨て置く」という、江戸時代の日本の、中世の世界観と瓜二つである。
実際には、江戸幕府は、「祖法」を破って海外に渡航する日本人については、抜荷(密貿易)の事実がない限りはおおよそ黙認していたが、それと合わせて「出国」した日本人については、当地でどんな目にあおうが原則「黙殺」の態度を貫いていた。「国民国家」という意識の薄い、前近代の中世の国家にあっては、同胞意識は限りなく薄弱だった。「同じ日本人」という概念は限りなく薄いのが「国民国家」が形成される以前の、中世に於ける同胞意識だ。
だから例えば、戊辰戦争で薩摩の藩兵が会津で暴行陵虐の限りを尽くす、という悲劇が平気で起こる。「国民国家」以前の世界には、「同じ同胞の日本人」という意識がきわめて希薄なのだ。
「動機が不純だから、国家が保護する必要はない」という、今回の事件を契機にまたも沸き起こった「自己責任論」は、このような前近代の中世の世界観を彷彿とさせるものだ。
・なぜ同胞意識がなくなったのか
今回の誘拐事件で、「自己責任論」を高らかに言うのは、所謂「保守系」と目されるネット上の勢力が根強い。彼らの言い分は、「国家の税金によって、身勝手な連中を助ける必要はない」という意見に集約されている。
どれほど身勝手で不純な動機だろうと、同胞であるかぎり死力を尽くして助けるのが国民国家の原則であるのは、明治冒頭の台湾出兵の事実で明らかだっただろう。
「自分たちは働いて、まじめに納税しているのだから、”海外で無茶をする連中”を助ける必要など無い」
というのが、彼らの意見である。「納税者でないものは、人に非ず」とでも言いたげな、典型的な「強者」の理屈である。
国家に貢献しないものは、庇護する必要はない―。この考え方を突き詰めれば、例えば生活保護の受給者そのものを蔑視したり、社会的弱者を嘲笑する、という昨今のネット上の風習に行き着く。
ネット上で保守的な見解を表明するクラスタは、大都市部に住む中産階級が多い、というのは、私が実施した独自の調査によって明らかになりつつある。彼らは経済的にも社会的にも「強者」であるがゆえに、「自己責任論」を振りかざして憚りないが、自分がいつでも、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回る可能性がある、という想像力を欠いている
・「自己責任論」で中世に退行する日本
「自己責任論」で中世に退行する日本には、ネット上の保守派が最も重視するはずの「強い日本」とか「強固な国家」という「理想としての美しい日本」が、どんどんと遠ざかっているような気がするのは、気のせいだろうか。当然のことだが、「強い日本」とか「美しい日本」は、彼ら言う「家族のような同胞」の連帯を基礎としているからだ。「自己責任論」はそれに反し、同胞を同胞とも思わない、醜悪な前近代の世界観が支配しているように思える。
「動機が不純だから」という理由で、かけがえのない同胞の生命の危険を、ヘラヘラと見ているだけの日本人に、良心はあるのだろうか。いつから日本は、「国民国家」という近代国家の根本を排除した、「異形の近代国家」に変質してしまったのだろうか。
涙がでるほど、情けない。
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政治的に考えると、「身代金を払えば次の誘拐を招く」という論理はこれはこれで現実味があり、今回の場合資金源になっているという事から考えると、米英が身代金の支払いに否定的なのこの論理によって説明できる。他の欧州各国でも表向けては身代金は払うことはないようであり、むしろ民間の寄付や篤志家による迂回的な身代金支払いはあるらしいが、国としては払わないことを堅持しているようだ。このため、米英国民が誘拐された場合、他の国民より多く殺害されてきたともいえる。もっともこの判断は、このようなところに乗りこんでいく人が他国に比べ絶対数が多いという場合もあり、一律に議論することではないのだが、どっちかというと英米の場合は身代金等は謝絶の上あくまで交渉活動(で破たんしたら軍を入れることも辞さず)で、一方死者が出た段階で戦死並の扱いにするようである。
では、救出活動自体が成り立つのかというと無制限にこれを果たすことができないのも事実。毎年雪山遭難や噴火などで捜索隊が出るが、日本では事後に限って個人や家族に実費費用弁済が請求され、すごい額でになるということはあるらしい。あくまで安全が確保される範囲内で公益が対応することは、まあそこまで問題ないと私は思っているのだが、これさえも異論を聞くことはたまにある。いわく「登山保険(山岳保険)というものはあるだろうに。」けど山岳保険・旅行保険は金銭的には保証されるが、直接的に救出作業をすることはない。国民の生命が危険にさらされている場合、国家がそれを黙殺することは能力として可能でありまた有効なもの(いわゆる暴力装置)を持っているなら、なされるものである。但し、「能力があれば」であることに留意することは必要。(続く)

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