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自己責任論は醜悪なのか(2/2)

(承前)
さて、自己責任論は2004年におきたイラクでの人質事件でもでてきたが、それ以前にも1990年の湾岸戦争の際にクウェートにいた日本人をイラクヘ連行・国外移動禁止処分にしたときに、当時国会議員でもあったアントニオ猪木が自費でトルコ航空機をチャーターして在留日本人と全人質を解放救出したということでも、国家が能力的に力が出せず、不測事態の問題等があったため、手が下さないということはあった。(純粋に力がないということよりも、国際的にけん制されていたという方が正しいようであるし、しかも私費を出したということから国家の意図とは異なるとみなされたのだろう。)また、玄倉川水難事故(1999年、大雨によるキャンプの避難勧告に従わず救出できなくなった)の件も自己責任論の議論が出てくる。
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自己責任論に共通な論理は、「危険を承知ないしは告知されていて、その前提で自分の意志で行った前置条件では、その行動が問題にされたからといって、政府が方針を変更するのはおかしい」という議論になる。まあ、今回は金額がとんでもなく高く(むしろ払えないのを前提で、殺すことを正当化したとさえいえる)、それに右往左往する政策もとれないともいえるし、交渉における解決の事例も、人脈がつながらずかなり困難で、更に交渉にいけば拘束されるという前提では、これまたイラクの件以上にむずかしいといえよう。

とはいえ、「被害者に落ち度がある」があるという言い方は「被害者に落ち度がある」とは大差がある。だれが問題で犯罪性があるというのは「イスラム国」の行動にある(イスラム国は国家とはみなされていないのでテロリストといえるが、実質的に既存の国家を倒すような革命政権でもあり、このままでは実質的に国として認めるしかないという問題もある)わけで、テロリストとして責任はあくまで相手にあるといえる。(ここが相手の国家的活動ということになってしまうならば、これまた責任が宙に浮いてしまう。)
そうなると、自己責任論には、
 (1)結果を受け入れるならば何でも自分の好きなことをやって良いという考え方
 (2)結果を全て引き受けることなどはできず迷惑をかけないよう慎重に行動すべきだという考え方
が混在する。これで、前者を「選択的自己責任論」、後者を「分別的自己責任論」と分ける見方もあると聞く。

多分、今回の自己責任論による世論の多くは、国家がカバーしきれないしカバーする「能力がない」環境のもとでは、(2)結果を全て引き受けることなどはできず迷惑をかけないよう慎重に行動すべきだという考え方に従うことを優先するという、自己規制側によった社会にシフトとしているのが、日本文化にある現在の価値観だと思っている。これは一方で改革・刷新にいったことに対し否定的で組織ならば自己防衛的になる。基礎的な同意を得た後の変化は極めてスムーズであるということになろう。また、そこに制御を外部(国家等が教育として、または他国から強制されて)から「責任能力がない」と言うことは、自律的な意思決定、ひいては尊厳・人格権をを否定することになる。ただし、同胞意識の退行という考え方をしていいのかというと、どうも異なるのではと思う。むしろ自己責任論では国家の枠における同胞や、国家観自体を基本的に切り離すことで、殻を各人が作ることを前提にする行動をしなければならないという認識をうかがわせる。
上述した記載にもあったが、『ネット上で保守的な見解を表明するクラスタは、大都市部に住む中産階級が多い、というのは、私が実施した独自の調査によって明らかになりつつある。彼らは経済的にも社会的にも「強者」であるがゆえに、「自己責任論」を振りかざして憚りないが、自分がいつでも、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回る可能性がある、という想像力を欠いている』という記載がある。彼らは経済的にも社会的にも「強者」であるという推論がいいのかなあと思う。そもそも、大都市部に住む中産階級の過半は、過去に地方から来た人間も多く、この段階その土地で同胞という感覚を持つ人以上に、過去の同胞をやんわりとでも切ることが自分の生活を成り立たせる、端的にいえば「生きる」ことの前提になっていると考える。このため、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回ることを前提としては生活しないし、もし「庇護される側」にたてばそれはお金で処理できないものならば捨て去る前提である。基本的には同胞という感覚は、まとわりつくような感覚で拭いたいと思っている。そのうえ、企業人の場合にあることだが、海外に赴任したり、仕事を選んで海外に定住するいった層には、国家意識を持っていることが「生きる」ことの障害になる場面もある。つまりこれらの人には同胞という前提はむしろ切り離したい対象でしかないと思うわけだ。
『同胞であるかぎり死力を尽くして助けるのが国民国家の原則であるのは、明治冒頭の台湾出兵の事実で明らかだっただろう。』というのは同胞というものの否定でこれらは無視されうる。また明治時代の列強各国の行動を類推すると、明治国家が台湾への野心を、偶然起こった遭難事件にかこつけて利用した事は当時の社会では政治的には特異なことでない。(上記の筆者もそれに対して問題があるという意見は持っている)となると、国家の行動がすでに同胞という前提で動くならそこから切り離して、所属している国家に金のみの契約範囲の関係にしておこうという認識が出てもおかしくはなかろう。
『「国民国家」という意識の薄い、前近代の中世の国家にあっては、同胞意識は限りなく薄弱だった。「同じ日本人」という概念は限りなく薄いのが「国民国家」が形成される以前の、中世に於ける同胞意識だ。』というのも同じである。同胞意識があったらあったで個人主義的な生き方はどこかで破たんする。同胞意識がないならそこでも異なった生活リスクはある。どっちを取るかという生活意識があり、そして現実に同胞意識を外して「生産的な 生活」で「生きる」ことができるという選択をしているなら、これを否定できる前提条件を多くの人は失う。
国家に貢献しないものは、庇護する必要はないというのは、企業等での生産活動の視点に、そのまま読み替えることができる。すなわち「企業に貢献しないものは、雇用する必要はない」である。たしかにこの考え方を突き詰めれば、生活保護の受給者の蔑視・社会的弱者の嘲笑に行きつく。ただ、ただそれは自分たちが何かの理由でそのような社会的弱者になるならば、そこでおとなしく社会的弱者をになるという覚悟をしているから、生活保護の受給者の蔑視・社会的弱者の嘲笑をありのままに受け入れる(そして受け入れない一部の馬鹿ものは「無敵の人」となって破滅することもまたあると認識している)というと考える。経済的にも社会的にも「強者」ではあっても、いつも経済的にも社会的にも「強者」であるとは認識していないと思っているのである。もちろん「高みの見物」という人がいないかというと、それまた「悪魔の証明」然としているのだが。

国家観が中世の世界観に退化したという認識を筆者はしているが、私はそうとは思わない。国家観があると生きられない人々が国家観のしがらみを切り離せる限り切り離したものであろう。国家が自由主義でも資本主義でも、アイデンティティーが維持できる場所であるj限り生きるには、国家観は無駄であると考えるのは、中世のように国家観といういものの未成熟ではないのではないか。「一周回って」国家観という存在に見切りをつけた結果、ネット上で保守的な見解を表明するクラスタにも、国家観にこだわらない「現実的な」層が一定数混ざっているのではと思うし、それはある一定の合理性と認識できる場面も多くなっているのではないか。
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別の視点から見ると、日本人が同胞の脅しにそうパニックにもならなかったことは、海外の人にとっては左上の視点だったようだ。そのうえ「イスラム国」が使ってきたツイッターなどSNSは、今まで共感する者を誘導するツールだったのにし、日本人のネット利用者は逆にツイッターなどでクソコラと称する不真面目なコラージュ画像を「イスラム国」に送りつけた。他国とは異なる、「イスラム国」が想定しない、左上のレスポンスを出したのである。各国で「なんじゃこら」と驚かれたようである。これに対しては被害者が同胞という感情が薄い(国家意識をもたない)人が多いのか、むしろ安全なところ(ネットの先の遥か遠隔地)にいるからということで判断するべきかというと、今の状態では判別は付けられない。
一方、このようなコラージュは、「贅沢は素敵だ」「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」とかの、体制を洒落のめすふざけた批判文化がこの場面で顕在化した一種ともいえるが、ちょっと注意するべきなのは、宗教色が極めて薄いということがあるため、これはどう反応していいのか戸惑ってしまうことがある。(まあ、以前にもクリミア共和国高等検察庁検事長ナタリア・ポクロンスカヤの萌えアートが大量にでて、顰蹙をおこしたこともあるし)この辺り、フランスの「シャルリー・エブド」誌襲撃とも重なるが、この手の政治漫画は日本での政治漫画の始祖という側面もあるため、なんだか複雑な話だと困惑してしまったのである。

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