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パワーポイントに見る発表に求める内容

パワーポイントをいじっているとすごく時間の経過が早いと感じる。しかし多くはコミニケーションのツールであるわけで、これ自身が想像性のあるものではない。それなのに、目的を忘れてつい作りこんでしまう人が多い。どうしてなのかというと、口頭説明の補助資料という用途にあくまで特化していても、ほとんど聴衆の求めてる情報の質的要求によって、用途がいかようにもあり、またこれらに対し同一な内容を求めるからである。見やすいようなパワーポイントを作ると、資料価値が少ないという攻め方を求められることになる。
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これは、後で読んでもらうとか、配布物を社内共有したり、書いておかないと後で言った言わないの議論になったりする上に、果ては説明会を実施する前提でプレゼンを行っている場合が多いからである。このためプレゼンを聞くための補助資料なのか、それとも読むための資料なのか明確に差がある。パワーポイント等は発表にためのツールということなら、配布資料は不要であるが、実際は配布資料をより分かりやすく説明するために用いるという場合もままあるようだ。

「プレゼン能力に自信がないから、それを誤魔化すために資料に過剰なまでの情報を詰め込もうとする」という意見はよく聞く。しかし、プレゼンというものは感情に訴える物であって論理的に説明するものではないという意識がある場合、むしろ本当にやるべきなのはプレゼンテーションの練習でなく、資料の作り込みという説もある。もっとも、「仕事やった感」で作り込む人はないわけでないが、そうなると動画満載の「はあ・・・すごいな・・・けど言いたいことなんだっけ」というもので、更には配布物をみても全くわからないことになってしまう。
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私もそうだが、日本人は演説や講演などはわかった気にさせるだけで実際には使えない、あくまで導入時のものという認識が高いのであろうと思う。それに比べて、外資企業ではシンプルにPPTを作成しているが、あと後これを資料でもらっても何の役にも立たないと思う場合が多いし、実際配布物はないことが多いようである。戦略的に「後で話を聞いてみよう」という気にさせているならば私もまんまと引っ掛かることになるが、決裁権限にある人に伝えられないという悩みを日本企業の人が持ってしまうと、やっぱり日本語が通じる(日本人のロジックが通じる)人と付き合うのがいいわ・・・と思ってしまう。しかも企業活動の継続性という議論をされると、紙での管理を主とする方が確実でもあり、あとから誰かが参照しても間違いなく伝わるようにという考え方のため、なおさらPPTを配布資料作成のソフトという形にさせてしまう。
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パワーポイントの教本の例はかなり簡素で情報が絞られているものが多いが、日本では実際の企業が作るパワーポイント資料は情報びっしりのものが多い。他方、企画畑の人が作るワーポイントはむしろ簡素で余地が大きく、むしろ話による捕捉が重要である(有名な例)。この差が生まれているのはなぜなのだろうか。
前者は、出来上がった議論を詰めて誤差がないように、また異なった解釈をされて整合が取れない状態を避けることが目的であるのに対し、後者の場合は概念とか意識付加とかの、整合も何もなく感情に訴えるところを求めているためである。外資企業ではシンプルにPPTを作成しているのは、このような感情に訴えるプレゼンテーションが多いということと、ふんだんな資料を公開しているような感覚にして、再現できるほどの詳細なデータを開示しないところもあると思う。何分にも技術のパクリは怖いからである。更にこの点は中国の方が徹底しており、紙類は一切渡さない形でプレゼンをしなければならない。更に日本でもソフト系の発表はよく見えるプレゼンの表示(高橋メソッドなど)にとどめ、あまり配布物を渡さないというのも多いようである。
つまりプレゼンの目的が異なっていれば配布物の有無等は変わるわけで、自分の業務では聞く人のニーズが持ち帰って展開しよう・・・という場合が多いために、高橋メソッドでの説明は向かないようだ。

まるでコーヒーを買うように、13歳の女の子を買う時代–洗練された性産業は、日本人のモラルをいかに変えたか スマホ1台で簡単に風俗店を予約できるようになり、性産業の”洗練化”が進んでいるようです。その裏では、未だ無くならない人身売買の存在も。人権活動家の藤原志帆子氏は、性の商品化にストップをかけるためには、人々の意識の変革が必要であると語りました。

彼女の理念自体は西欧的な理念では崇高であり、データの間違い等もあれども経験的には尊敬するべきことを言っている。もっとも経済的問題から性産業に至ったという女性に対し、その収益過程をみるときわめて資本的な構成で、顧客を獲得するシステムが極めて経済的に構築されているということは、大いなる自己矛盾ではある。つまり、理念としては崇高であるが、理屈の上の現状の数値的把握ができていないということにまず気づくべきであるとは思う。資本主義の推進の中でいろいろな経済性の高い洗練されたものとなっているということは、意識変革ということは連鎖的に「経済性」のある社会を否定してしまう。性産業とて収益業務となったものがモラルという後付けのものを簡単に変化させることこそ、資本主義の資本主義となるゆえんである。従って理念で資本のあり方を、しかも資本から与えられたステージで語るというのが自己矛盾であることになっていないかと憂うのである。

それはそれとして、理念と感情に訴えるこのプレゼンであるが、ロジックに従わないからこそ、ヘッドセットをつけて身振り手振りで語ることは、胡散臭さとか欺瞞を感じるという人が居るだろうと思う。これが一般的なニュース番組の中でも良質なもののように、一定の典拠や思考の幅を与えればどうだったのだろう。語るだけのものでは感動は与えられるが、また与えられるのは高々感動だけしかないという限界はあると思う。そうなるとデータは必要で、更にたくさんの視点(時には批判)をさらすためには、配布資料となるのあろう。
この手のプレゼンにおいて有名なのは、スティーブ・ジョブズであるが、あの感性に訴えるプレゼンには私は詐欺師と同じ胡散臭さを感じることが多かった。むしろ私にとっては嫌悪に近い。
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プレゼンの天才」ジョブズ氏も嫌ったスライド頼み   日経産業新聞2014年6月10日付 林 信行
 久しぶりにシリコンバレーを訪れた。注目される新興のベンチャー企業を3社ほど連続で訪問して、改めて思ったことがある。
 いずれも、これまでにない新しい価値を提案し、注目を集め、既にそれなりの投資も受けてきた会社だ。つまり、何度か投資家たちを口説くことにも成功してきた企業ばかりだ。
■生の会話に近いプレゼンを重視
 会議室に通され、担当者が出てくるのをみて、彼らが切り込む市場の動向や会社のミッション(使命)について、在りし日のスティーブ・ジョブズの新製品発表のような、華麗なプレゼンテーションが繰り広げられることを内心、少しだけ期待していた。
 だが、2社はスライド無しで、口頭での説明だけ。もう1社は一応、概念についてだけ簡単なスライドプレゼンテーションがあったが、すぐに本題の質疑応答に切り替えた。
 実は最先端のハイテク企業こそ、こうしたミーティングでは目と目を合わせ、相手のほとばしる情熱や感動、息づかいを感じさせる生の会話に近いプレゼンテーションを重んじている。
 プレゼンテーションの天才とたたえられ、(本人が書いたわけではないが)たくさんのプレゼンテーション入門本を生み出したスティーブ・ジョブズは、確かに新製品を外に向けて大々的に発表する時には、最大限にドラマチックな講演を演出していた。だが、それとは対照的に、社内の企画会議や提携しそうな他社の説明を受ける際は、演出の利いたスライドプレゼンテーションを嫌っていたと、元部下の友人らからよく聞く。社員がスライドプレゼンテーションを始めたと同時に、怒って部屋を出ていった、という逸話もたくさんあるようだ。
 何千人を相手にする講演ではドラマチックな演出が必要だが、多くても10人くらいの少人数の会議では、それよりも、製品についてどれだけ自分の言葉で説明できるかの方が重要、ということなのだろう。
 机上の空論なのか、実際に色々な人々と話し合って深く討論したアイデアなのかの違いや、話者がその製品に対してどれだけ真剣に向かい合っているかは、スライドではなく、話す時の言葉の節々にこそ表れる。
■可もなく不可もない形式的な情報伝達
 ひるがえって日本では、ちょっとした企画の説明にも、まずは大量な紙の手元資料が配られ、スライドプレゼンテーションが始まることが多い。大抵のスライドには、やや長文の詳細説明が書かれており、説明者はそれを読み上げ、聞く人々は手元の資料に目を落として、目による対話はない。こんなやりとりなら、台本をメールにして送ってくれた方が手っ取り早い。
 スライドプレゼンテーションには、わかりにくい概念をよりわかりやすく見せたり、効果的な演出で強い印象を残したりすることはできるかもしれない。しかし、頑張ってスライドを作り込み過ぎてしまうと、台本にひっぱられてしまう。せっかく同じ場を共有している聞き手の反応を無駄にし、可もなく不可もない形式的な情報伝達にしてしまうおそれがある。
 何らかの理由で会合の場に当事者が来られなくなったのであれば、スライドプレゼンテーションにも価値がある。ただし、これは場合によっては、あらかじめ録画しておいたプレゼン動画の再生や、その動画へのリンクをメールするだけでも済むコミュニケーションだ。
 シリコンバレーのIT(情報技術)企業は、ITで何を合理化できるかをよく知っている。だからこそメリハリをつけて、実際に顔をつきあわせた生身のコミュニケーションで何を大事にすべきかをわきまえ、実践しているのだ。
--------------------------------終了
投資という場面では、確かに自分たちの熱意を訴えるのは必要であるのかもしれない。それは出資先の評価をするのには究極は熱意しかないということなのだろうと思う。しかし、熱意がその企業の成功を約束するというのは私の経験にはなるが、あまり強い相関はないと認識している。「太い」旦那が出してくれる形をとる欧米と異なり、日本のベンチャーは細かい切り刻んだ多くの人からの出資をまとめるということになり、しかも総額は少ないということから、「目と目を合わせ、相手のほとばしる情熱や感動、息づかいを感じさせる生の会話」は冷静な分析に対しては全く余計なものしかならないと思ってしまう。
これは、「目と目を合わせ、相手のほとばしる情熱や感動、息づかいを感じさせる生の会話」自体は、日本では演芸などでは平気であるものであり、使い分けをしているという認識である。その代わり報道番組というものにもその放送の意識によっては冷静なデータを議論する場になっていない場合もあるから、ウエイトの持たせ方が異なるということであろうか。
私の場合、使い分けはするものの、オーバーアクションは避けるようにはしている。また資料はどちらかというと持ち帰って見てもらうということを前提にする形としている。この辺りの配分は気をつけているつもりである。

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