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忖度に対する考え方(2/2)

(承前)
なるほど、これで納得がいった。
毎年、爆笑問題は直前の自分たちの冠番組「検索ちゃんネタ祭り」のネタをかなりアレンジしてきている気がするのだが、そのネタは切れ味が激しいものの政治家のネタ(うちわ)等も混ざっている。これを見せた場合、先日の自民党からの申し入れがここに及んで、忖度するという形で影響を与えてしまったということになる。もし前もって「検索ちゃんネタ祭り」のと似たものを見せたらそら、現在の状況ではNGということを現場判断で出すかもしれないという気はする。類似の自粛要請は自体はちょくちょくあるのらしいが、街頭インタビューの集め方など細部にわたって選挙報道の公平中立を求める要望書を渡すという徹底さが珍しいようである。
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漫才の場合、コント漫才と言われるストーリー性を持たせるもの(ちなみにコントの語源はフランス語の寸劇である。日本語ではこの意味あいを茶番劇と訳する場面もある)の場合は、話題が合わないという場合台本自体を全部入れ替えるという形をとる。そのものコントの場合も入れ替えという形になる。

一方普通のしゃべくり漫才のうち即興性を重視するものは、個人の批判などを入れることにより差別というのではなく話題として批判するものである。更にこの特性が強くなると、アメリカのスタンドアップコメディーに近い形の漫談になる。だいたいしゃべくり漫才とコント漫才はどっちもできる場合は少ない。
ちなみに、アメリカのスタンドアップコメディーは日本人からすると種々の意味で強烈で耐えきれなくなるものもあり、時に問題になることがある。アフラックのCMに出ていたアヒルの声のギルバート・ゴットフリードは漫談がもともとの原点らしく、2011年東北地方太平洋沖地震の被災者を逆なでする「日本はものすごく進歩した国だ。海に行かなくとも海のほうがやってくる」と書き込みをしたことから、降板させることになった。米アフラックの収益の75パーセントはなんと日本市場だということもあろう。彼はこの前にも9・11テロの時にかなり辛辣なジョークをしたようで顰蹙を買っているが、そもそも風刺が出ることも自由な社会ということの発露と思われているようだ。
先般宗教問題により問題になったフランスの風刺漫画の場合も、このクラスの問題もある。
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極右・カトリックも風刺の的 奔放な漫画、仏の伝統  朝日新聞2015年1月9日09時44分
 新聞では1915年創刊のカナール・アンシェネ(週刊)が知られる。政財界のスキャンダルを再々報じて有力者に恐れられ、多数のモノクロ風刺画も名物だ。襲われたシャルリー・エブドは、よりどぎついカラー漫画が売り物で、文字では説明しにくい性的表現も多い。
 その矛先は、一般紙が敬遠しがちな宗教にも向けられる。2006年、デンマーク紙で物議を醸した預言者ムハンマドの風刺画を転載した件が有名だ。独自に描き下ろした漫画も多く載せた特集号は増刷を重ね、空前の40万部を売った。
 むろん内外のイスラム界を敵に回したが、表現の自由を盾にタブーなしの編集方針をその後も貫く。極右政党やカトリック、大統領も風刺の的だ。
 7日に出た最新号には、「フランスではテロが起きていない」との表題に、過激派らしき男が「1月末までまだ時間がある」とうそぶく絵を載せた。前週には、きわどいイラスト満載で「あなたの息子も聖戦士に?」の見開き企画。「巨大なナイフを使い、この不信心者が!と叫びながらコーラの栓を抜き始めたら要注意」などとある。
 一般受けするメディアではないが、奔放な姿勢はフランス社会でおおむね支持されてきた。7日夜、仏全土で計10万人が「私はシャルリー」の紙を掲げたのは一つの証左だろう。8日付各紙は追悼と怒りであふれた。犯行の背景や容疑者の素性はさておき、仏社会は表現の自由を譲らない一点で結束している。
 パリ第1大学のパトリック・エブノ教授(メディア史)は「風刺はフランス大衆に受け入れられてきた。風刺紙はどれも少部数ながら200年の歴史がある重要なメディア。あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑み続けてきたジャーナリズムなのだ」と語る。
 襲撃事件による損失は大きいが、表現の自由を守ろうという機運が改めて高まることは間違いない。他方、同性愛者やマイノリティーへの差別や憎悪をあおる表現は法律が禁じている。一般的な宗教批判と、信者への侮辱を分ける考えが定着しつつある。シャルリー・エブドは休刊せず、来週は前例のない100万部を発行する予定だ。
-------------------終了
しゃべくり漫才のうち時事内容を取り入れていく場合、他人を批評していけないという前提を出されるというのは、暮れの総選挙報道で自民党がテレビ局に圧力を加えるのみならず、情報の出し方や要人のインタビュー拒否など、更には電凸という電話をかけるなどで見解を問いただす行為がでた。放送局のみならずCM先まで業務が停滞する(結果放送局へのCMがでなくなる)などの実害を避けることさえ必要になっており、今まではそこまで気にならなかったものが急に問題になっている。
そして社会の不満や差別観を出して、批評するということが実害認定されたということがある以上、企業体の統率がとれているが命令されていない場合こそ、このような忖度がおき、委縮されていくものである。報道機関においては一定の記者の資質を担保されれば、ガバナンス(内部統率)はむしろ記事の「品質」に対して悪影響である場合もある。低俗な記事が出るという意味では品質の問題は、生産事業の見方からすれば大問題である。しかしそうしたガバナンスの欠如は反面、調査報道に強いことにつながるし、記者が自分のやりたいことをやり続けている結実でもある。ある意味芸術活動に対しても、工芸活動でも芸能活動に対してもこれは共通であると私は見ている。つまり生産活動とのQCDの志向性と違うQCDがどこかにあるわけだ。電凸や抗議を放送局にする公衆とは、バックボーンが異なっているということは意識しなければならないし、折り合いがつかないということが常にある。「要は全部、自粛なんですよ。これは誤解してもらいたくないんですけど、政治的圧力は一切かかってない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど。問題を避けるための」というのはトップに問題ではないとは言えるが、指示をしなくても企業としての存在意義を優先し、表現の自由をすこし落とすことを前提にするということになることは、漫才では容認されると認識しているのだろうか。政治漫談のプレーヤーに関しては政治の世界に進んでいった人も少なくない。(コロンビア・トップ  横山ノック  (先代)立川談志はそうである。西川きよしは少し異なる)
なお、ここでは爆笑問題だけが議論になっているのだが、どうも他の漫才師のうちコント漫才を行った人以外すべてがこの指導を受けていると私は推測する。考え方だけ見れば、面白くないからネタを変えさせたというのは、ちょくちょくあることではあるのだろうがちょっとそのクラスの演者でもない。腕のある漫才師がごそって漫才の要素でしゃべくり漫才やスタンドアップコメディー(ケーシー高峰は漫談と言っても医療知識をもとにしたネタにより、ややアメリカ風で辛辣である)で批評要素を入れないとなると自虐ネタ(自分を批評するので被害がない)と下ネタ(成人以上なら誰しもわかるため、あまり批判ネタがが表現しにくい)しか持っていけない。そこで、しゃべくり漫才としてもネタを作り込んでいき、自分をネタにしたものは何とかなる(中川家はこの方法であったが、大阪のおばちゃんネタ等はやっていないような気がする)が、他に持っていくには下ネタを取り込むしかなかろう。少なくとも笑いのプロとして出演しているわけだから。多分、引くほどきつい(私は動揺しかなかった)ケーシー高峰の渾身の漫談、オール阪神巨人の最後のネタと締めは、「こんなネタの制限を加えられたら来年は出るわけにいかないな」という凄味があるから、ど下ネタを持ち込んだようにさえ感じる。
そして、爆笑問題は自虐ネタを混ぜた。普通は自分のことのだが、それはなんとNHK自体を自虐するネタであった。確かにTVの聴取者にとっては、TVの出演者はTV局の身内という視点にもなる。
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NHK籾井会長、爆笑問題の政治家ネタに「品がない」  2015年1月9日6時0分 スポーツ報知
 NHKの籾井勝人会長(71)が8日に都内で定例会見を行い、お笑いコンビ・爆笑問題が3日に放送されたNHKの「初笑い東西寄席2015」で、放送前に政治家ネタを違うネタに差し替えさせられたとラジオで告白したことについて言及。一般論としながらも「(政治家の)個人名を挙げてネタにするのは品がない。やめた方がいい」と嫌悪感を示した。テレビ局のトップがお笑いネタに口を挟むのは極めて異例だ。
 ことの起こりは7日未明。爆笑問題の田中裕二(49)がTBSラジオ「JUNK爆笑問題カーボーイ」で、NHKの生放送「初笑い東西寄席2015」出演前に番組スタッフにネタを見せた際「政治家さんのネタは全部駄目と言われた」とネタをボツにされたことを明かした。太田光(49)は「政治的圧力は一切かかっていない。テレビ局側の自粛っていうのはありますけど」と応じていた。
 籾井会長はこの日、「新聞で知って、全く関与していない。私が圧力を加えることはない」と明言したが、一般論として「しゃべる人も品性や常識があってしかるべき」とお笑い芸人に品格を要求。「個人名を挙げていろいろ笑いのネタにするのはちょっと品がないんじゃないかと思います」と爆笑問題が得意とする個人名を出しての時事ネタに不快感を示した。
 さらに「NHKに出る際は慎む…というとややこしいが、ネタにするのはやめた方がいいんじゃないかと思います」とお笑いのネタに文句をつけた。テレビでは放送前に局側が内容をチェックし、放送にそぐわないと判断した場合、中身を差し替えることは特別なことではない。ただ、局のトップがここまで口を差し挟むのは異例だ。
 3日の放送では、爆笑問題は漫才の冒頭で太田が「あけおめ、ことよろ、ふたまた」。岡村真美子がW不倫でNHKのお天気お姉さんを降板したことを連想させるギャグを発射。田中がつっこむと「NHKに言うなと言われた」と続けた。その後も佐村河内守氏らの名を挙げて爆笑をさらった。
 籾井会長は昨年1月の就任会見で、旧日本軍の慰安婦問題について「どこの国にもあった」などと述べ、物議を醸したことがあった。約1年間は静かだったが、再びの注目発言。「探検バクモン」など、爆笑問題の番組については「打ち切りなどあるわけがない。影響ない」と言い切ったが、爆笑問題の2人がどう反応するか注目だ。
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じゃあ、下ネタに品性があるのいかというとこれまた判断に苦しむわけである。品があるという感覚は個人レベルでことごとく異なる。更に言うと、品格という言葉で「考えることをやめる」という行為の方が問題である。籾井会長が「私が圧力を加えることはない」というのは、会長という意味では行わないだろうとは推察するし、彼は放送人ではない。ただ「しゃべる人も品性や常識があってしかるべき」と、社会に概念でしかない品格を要求するというのは、放送という中での縊死を促すしかないであろう。
どっちにせよ企業が社会的責任意識やガバナンス意識を高めることが、社会的な影響として放送の自由度、表現の自由をあやめることに至るとは、私も気がつかなかった。

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