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あとがきまで読むことで書誌の意義がひっくり返る

http://atogaki.hatenablog.com/entry/2014/11/01/114850
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あとがき10 あとがきを信じるな!?: 網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社、1978年)
このブログのあとがき愛読もようやく10回目。それを記念し、今年没後10年の網野善彦を取り上げたいと思う。
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))
「作家の言葉を信じるな」という金言を耳にした。曰く、作品を研究するにあたり、作家自身の言葉に振り回されすぎるな、ということらしい。
(中略)
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さて能書きを長く書いてきたが、今回言いたいのは、かの網野善彦の代表作『無縁・公界・楽』のあとがきについてだ。初版のあとがきにはこのような記述がある。
『 また、すぐれたドイツ中世史家として周知の北村忠男氏から、いつも親切に御教示いただけたことも、幸いであった。私が「公界」の問題を持ち出すと、北村氏は直ちに「フライ」「フリーデ」に言及され、ヘンスラーの著書を貸して下さった。私の語学力不足と怠慢から、これを本書に十分生かしえなかったことは申しわけない次第で、おわびしなくてはならないが、一揆に話が及んだとき、「神の平和だ!」と手を拍った、北村氏のお答えは忘れられない思い出である。―1978年1月26日付『無縁・公界・楽』あとがき』
 北村忠男とは当時、網野と同じ名古屋大学に勤務していたドイツ史研究者であり、「ヘンスラーの著書」とは、これより20年以上前にドイツで出版されたOrtwin Henssler, Formen des Asylrechts und ihre Verbreitung bei den Germanen, (Klostermann, 1954)である。
ヘンスラーの著書が『アジール―その歴史と諸形態』として邦訳され出版されるのは網野没後の2010年であり、当時読むためにはドイツ語版しかなかっただろう。
そしてこのあとがきから判断して、網野はドイツ語ができず、ヘンスラーを読めなかったと私は思い込んでいた。
しかし、さる研究会上でそう発言したところ、懇親会の道すがらある方から「網野はドイツ語できたよ」との指摘を受けた。
ビックリしたものの、結局それからアルコールに流れてしまい、その根拠を聞きそびれてしまったのだが、それに該当するのはここらへんではないだろうか。
『 〔1955年ごろの状況を聞かれて〕 事実上、一年間は失業状態で、ドイツ語の翻訳をしたり、出版社でアルバイトをしたり、都立北園高校の非常勤教師をごくわずかやっておりましたかね。―網野善彦「インタビュー 私の生き方」(『歴史としての戦後史学』、初出1997年、著作集第18巻)』
なんと、網野は翻訳をするぐらいのドイツ語力を持っていたのだ。これは旧制高校に通っていたときに身に着けたもののようだ。
というわけで、あとがき中の「私の語学力不足」という言葉は、嘘とはいわないでも、額面通りに受け取ってはいけないことがわかる。
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私の認識では、誤記を指摘して頂いたのだから、まあ網野氏の「私の語学力不足」という表現は、謙遜以外の何物でもないとは思うのだが、書誌的な見方をする方なら、この判断はわからなくもない。ただし、 「作家の言葉を信じるな」という言は、(研究機関ではなく)企業が発表する論文でも意外と必要な視点な気がする。しかも技術論文であっても。

かれこれ10年以上前、私は(もちろん研究をしてであるが)報告書を作成するとかそれを発表するということを日常業務にしていた。当時の勤務先は機械学会の論文作成基準に準じた形での作成基準であった(これは社内の論文をまとめて社外に投稿することを考慮しているからのようである)。今は、日本機械学会執筆要綱というものを見ようとしても見当たらないので、たとえば、照明学会の記載を参考にしてみよう。これ意外とまとまっていますね。https://www.ieij.or.jp/JIEIJ/howto.html
簡単に記載すると、構成はこうなるのだろう。「論文では著者の主張を論証するために,それに適した記述構成が用いられる」という記載もある。(但し、詳しくは原典を参照のこと)

<論文の構成>
[表題]: 論文の主題を一行で表したのが表題になる.表題を読むだけで論文主題内容が分かる表現でなければならない.
1. 緒言: 緒言では論文の主題(目的)が何であるのか,そしてその主題の意義,およびそれがいまだ明らかにされて来ていないことを述べる.
2.(方法,手段):緒言で記載した論文主題(目的)を達成するために著者が採用した方法,手段を記述する。
3.(結果):著者が採用した方法・手段によって得られた結果を記述する。記述は一般に図表を用いて表す。
4.(検討):得られた結果ならびに必要に応じて公知文献を引用して論文の目的が達成されていることを検証する。検証は得られた結果による直接的な立証がもっとも説得性が高いが,合理的な推論による立証も許される。
5. 結言:目的に対して得られた結論を要約する.論文主題に関係しない副次的な結論は記載してはならない。

企業内で研究をするということは最終的に製品化に寄与する事項をどこかのセクションで行うか、ないしは報告書として事業実施先(これは提携先などへの有償提供も含む)へ供給するのであるから、意識としては論文の主題(目的)は、価値を得ることを前提にすることになる。すなわち製品開発を提案する内容とすれば、製品開発によってスムーズに開発の迅速化が図れる内容であることが、必要十分条件と言っていいだろう。
さて、4.項において、「論文の目的が達成されていることを検証」することが必須なのであるが、もちろんここには開発の過程で必ずしも意図に合致しない内容があぶりだされる事がある。
たとえば
1:たしかにこの製品は具体的な技術としては合理的なコストで妥当な性能を甘受できる。但しそのためには現在持っている工作機械を一部入れ替える必要が生じ、投資額が予測におさまらない。
2:製品を作る際にキーとなるのは●●という技術であるが、この量産製造の達成のためには○○という技術を使うことが必要であり、採用に対しては単価が量産において低下することが難しい。
といった具合である。
この報告を見て開発部署は採用可否を決定するのであるから、「論文の目的が達成されていることを検証」する課程には、むしろいいことのみを提示してしまう。採用を目的とすることとする方向性からは、記載をすること自体が目ざわりとみなされるからである。
但し、逆に言うと製品を開発設計する人間としては、この報告書を典拠として開発する時に、その開発のキーとなる内容を提示することが必要であると考えると、むしろこのように「こうすれば可能」「この点については生産量の見直しなども必要」という示唆をあらかじめ出しておくのは、基本検討をした人間が行うことが行うべき指標であるはず。もちろん、社外発表など「技術の継承をさせないし必要もない」場合は、このような多面的考察は必要ないので、大きな問題でなければ記載しない。
つまり、結言の中にまで見直すと、実は本当に言いたい趣旨が、感覚的に理解できる場合があるということ、そして書いたひともその内容が分かるような読み込みが求められることがあるのだろうと思う。ややもすると書誌的な内容ということをあまり追及すると、叙述的記載になって技術論文という物の定義を危うくするような気もするが。

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