信念が頑強な人達がとる立場
本当にヨハネによる福音書8章にもとからあったのかは疑問の余地はあるのだそうだが、・・・
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「イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(ヨハネ8:4-8)
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
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律法学者やファリサイ派(古代イスラエルのユダヤ教内グループ。現代のユダヤ教の諸派もほとんどがファリサイ派に由来しているという。)たちの思惑は、そもそも「現行犯」であるべき浮気男の捕捉は重要ではなかった。もっとも、この時代の女性は今の言葉でいえば男の所有物というような形であった事から見ればその過程がなくても不思議ではない。ただ、姦通した女に対して律法学者たちやファリサイ派の人々が慈悲を掛けたわけでない。彼らの目的はあくまでもイエスを罠に陥れることであると解する。
イエスが、「姦通を犯したのだからやむをえまい。石打ちしかないだろう。」と言えば、イエスを信じた群衆たちも、イエスのその言葉に落胆する。「ゆるすべき。」と言えば、イエスを律法違反で拘束できるというのである。
ファリサイ派の群衆は、罵詈雑言と、好奇の視線で一杯であった。そこでイエスは沈黙し、自分に注目を与え、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」また黙った。第3の答えを出して、どっちを転んでも陥る言葉をある意味詭弁(求められる言葉で答えていない)で排したのだろう。
この言葉はここに集まった人が、姦通、姦淫の罪に一切無縁だと、言い切れるだろうかという。そもそも、罪など私たちとは一切無関係だと、誰が言えるかと聖書は言う。
ところが、この事を聞いて気がついた人がいる。これは、たまたまイエスの詭弁であったのだが、本当に罪など犯したことがないという、立場とは関係ない信念の人、主観が強い人、倫理感覚に一意性を求める、ある意味原理主義的といえる人間が居たらどうなるのだろうか。
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朝早く、再び神殿の境内に入ると、そこへ、律法学者たちや烏合の衆が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、いったん石を投げることはなくなった。一人の人物を除いては。
この人物は、倫理的に外れたことをまったく行わず、理念として罪を犯したことがないと考えており、また他の人も倫理的に外れたことをやっているのを見たことがない(これは、そもそもそのような悩みを持つような場面にいたことがない人物である場合も含む)。このため、外から見ていた烏合の衆もまた徐々に戻り石を投げ始めてしまった。更に、回答するべき発言をごまかしている事が、倫理的に外れていたことを気にした群衆は、イエスにまで石を投げ出して、2人が息絶え絶えになるまでそれは続いた。
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私刑である。
まあこの話は、ある人が反語的に作った話らしいが、姦通、姦淫の罪に一切無縁だと逐語的に正確に把握し、それに忠実な人は、きわめて禁欲的で主観性のある思考にこだわれば、ありうることである。私刑の事例は多くはこの類型だともいえる。(なお、烏合の衆の判断能力自体は大いに問題があるのだが、この事例では、多分一人でも石を投げ続け、抑止もできない状況になろう)
私刑は、熱狂・ヒステリー状態下にあるものもあるが、観衆・集団の支持のもとなされる場合が多くある。中世以前のヨーロッパでは、私刑は合理的であった。私刑は公権力がそれなりの規模をもつ結果、違法になったが、これとも倫理にもとるということでなく、あくまで法的規範というなかで、国民といいう「立場」上従っているともいえる。民族紛争の際に民兵集団による非戦闘員への残虐行為も私刑といえるが、これは、公権力がそれなりの規模や力を持っていないからおきるともいえる。
ここで私刑というものがおこるその一因が、思考の硬直化ということはまずいえるのだろうが、状況把握をすることをしないから「立場」という配慮がないために、私刑の推進材料になってしまう。一方烏合の衆は立場を見て動いた可能性がある。「立場」意識があまりにも頑強なものの存在と、「立場」意識があまりにもぜい弱な存在が混在するということがこういう問題を起こす。立場による人の動き方がそこまでひずんでいないとしても、人差自体があることを容認する以上、私刑にいたる行動は否定できないだろうし、暴動とて同じであろう。
落語に、「粗忽長屋」という噺がある。間抜け(というかあわて者)の話としてだれでもありうるという視点で多くの人が演じるが、なぜか7代目立川談志はこの中に主観性が強すぎたが為に正しい判断判断能力がないとして話を組み立てている。主観性が強すぎることは、立場を理解する姿勢・能力を持たないともいえる。
つまり各個人の立場が属性によってころころ変わることを全面否定するなら、集団生活を行えないか、教条主義(=原理主義)の世界しか行き場がないだろうし、全面肯定するなら、不安定な社会の中で私刑が横行するこれまた不安定な社会しか出来上がらない。混在したなかでバランスをとるということしか落ち着き先がないというなら、立場を無理矢理にでも作り出すことが、残念ながら一つの収め先ではある。状況の変化に柔軟に対応できる「しなやかさ」を作るのが一つの考え方というのは個人的にはあるにせよ、しなやかさは一つのくさびで全て抑止されるゴムの中の砂のようなものである。それをあまねく社会に求めるには、逆に従順・盲信的な人間を国民の何十%しか作り出するということでしか逆説的にはできないと考える。
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140724/269156/?P=1
“立場主義”が日本を破滅させる 「魂の脱植民地化」の必要性を訴える安冨歩・東京大学教授に聞く 石黒 千賀子 2014年7月25日(金)
東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、東京大学関係者を中心とする日本の専門家や権威には共通する欺瞞に満ちた話法=「東大話法」があると指摘して注目を集めてきた東京大学教授の安冨歩氏。背景には、何にも増して「立場」を重視するという世界的にも特異な日本社会の在り方が大きく影響してきたという。
近著『ジャパン・イズ・バック 安倍政権に見る近代日本「立場主義」の矛盾』では、安倍晋三政権はもはや機能しなくなりつつある「立場主義」を何としても維持したい「立場ある人たち」のものでしかない、必要なのは安倍首相が繰り返し強調する「強い日本」ではなく、状況の変化に柔軟に対応できるしなやかさを持った社会の形成だと強調する。
その安冨氏に安倍政権の本質と、今、日本社会が進むべき方向性とその考え方について聞いた。(聞き手は石黒 千賀子)
安倍晋三政権は昨年末、特定秘密保護法案を衆参両院で可決、この7月1日には、憲法の解釈変更による集団的自衛権行使容認も閣議決定しました。強引な手法から支持率はさすがに低下してきていますが、久方ぶりの長期政権となりそうです。
安冨:経済政策のアベノミクスも国家主義的動きも基本的には政策としては間違っています。しかし、高い支持率はこの間違った政策を国民が望んでいる、ということを意味します。国民はだまされているわけではありません。なぜそういうことになるのか。
私の考えでは、多くの日本人は「立場主義者」であり、「立場」をなくせば生きていけない、と思い込んでいます。日本経済が行き詰まったのに伴って多くの人の立場が失われつつある中で、安倍政権は人々の立場を無理矢理にでも作り出すという機能を果たしています。だから多くの人が自分の立場が守られるような気がして、支持している。 (後略)
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私の考えるところ、高度に社会が構成された国(それは欧州・北米・日本を含む)では、「立場」を重視しない人間は社会的排斥となるようになっており、状況の変化に柔軟に対応すること自体も立場による理由付けがされていると思う。国家主義的動きに対して、懸念を高く持つ当方としても、「立場」を重視するというのが高度な社会秩序のトレードオフということの方が説明がつきやすいと思う。高度な社会秩序自体が社会の革新を阻害するということなら、それは無政府主義という別個な議論になる。倫理性を突き詰め、片寄せた極北の答えの一つは個人主義的無政府主義と思っている。
全員が安冨氏の期待するしなやかさのある資質を持つことが、国民を管理することが倫理的に好ましくないという、主権在民の反対的な側面から、今やあまねく徹底が困難な資質確保要件で、また意識を強制できないのが私の一つの答えである。せめて、安冨氏に期待するのは、このようなアラームを出し続けるという、ある意味日和見主義者が嘲る「硬直性」を維持することである。「魂の脱植民地化」ということが「状況の変化に柔軟に対応できるしなやかさを持った社会」というのは、思考内容の均質化を社会に求めなければ発散する、個人主義的無政府主義という残念ながら今まですべて破たんした社会体制に帰結すると思っている。
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