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仕事は奪うもの

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20140619-00036672-r25&vos=nfk20131201001
W杯海外サポがゴミ拾いしない理由   2014.06.19
日本時間6月15日に行われたFIFAワールドカップ・ブラジル大会の日本対コートジボワール戦の試合後、応援する日本代表が負けた後にもかかわらず、日本人サポーターたちがスタジアムのゴミ拾いをして帰っていったことが、日本国内、そして海外のネットユーザーから称賛されている。
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そんななか、日本のネット上では、この出来事を違う角度から見たコラム記事も話題だ。

それは、ビジネス系ニュースサイト「WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)」で6月17日に掲載された記事「日本でデスマーチが発生する理由とW杯コートジボアール戦のゴミ拾いの関係」。この記事は、イタリアやイギリスでの職務経験があり、ツイッターでは「めいろま@May_roma」というアカウント名でも知られる筆者の谷本真由美氏が、自身の海外経験に基づいてサポーターの行動を分析した記事だ。
谷本氏は、ゴミ拾いをしていったサポーターの行動を「日本人として大変誇らしく思えるエピソード」としたうえで、自身がイタリアにいた時にボリビア人同僚とイタリア人同僚に「よかれと思ってやったが注意されたこと」を紹介している。
谷本氏はイタリアに住み始めた頃、日本にいた時のように、ゴミは持ち帰り、セルフサービスの店では自分で食器を下げていたそうだが、同僚から、「他人の仕事を奪ってはいけない。ゴミ拾いや食器を下げることは担当者がやること。客がやることではない。仕事は作らなくちゃいけないんだよ」(原文ママ)と言われたそうだ。また、同じくイタリアにいた時に、同僚の仕事を親切心から手伝ったところ、「仕事を奪うな」とこっぴどく叱られたこともあったとのこと。
このような事例を紹介したうえで谷本氏は最後、「負けた試合でもスタジアムで暴れず、ゴミを拾ってかえる様な日本のファンのマナーの良さは世界から絶賛されるべきことです。しかし、他の国の人々がなぜゴミを拾わないのかというのにも理由があるわけです」(原文ママ)とまとめている。
この記事の反響は非常に大きく、公開から1日となる6月18日17時時点で約3400ツイートされ、Facebookでは約2900の「いいね!」を集めている。
記事を読んだユーザーの反応は様々で、ツイッターでは、
「これ私もオーストラリアにいた時注意された」
「一時的な日本人のゴミ拾いでは仕事は無くならない。余計なお世話」
「ゴミの量で清掃員の人数等が変化しないんだからゴミを拾う事で仕事を奪うことにはならないんですが」
など、記事の内容に対して賛否両論ともいえそうな反応があがっている。感じるところは人それぞれだが、日本人にはなかなかできない発想で今回の出来事を見た同記事は、ユーザーの思案を促すきっかけになったようだ。
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<本当に言いたいことを読者の多くが避けてる>
引用先を先に見ていたからであるが、本当に彼女が言いたかったことは「他の国の人々がなぜゴミを拾わないのかというのにも理由があるわけです」ではなくて、あくまで自分の仕事をの範囲を守りというように、仕事のINPUTと仕事のOUTPUTををきっちり分けないと、管理側も担当側も職務の制限がつかず、かつて「デスマーチ」が繰り返されるよということなのだが、どうも前半ばかりがどれでも取り上げられている。しかし本当に彼女が言いたいのはそこではない。(そしてこの取り上げ方でもわかるように、彼女の出した結論が納得されるには世論ではやや難があり、多くの日本人は納得していない。)ただし、この彼女の言いたいことは最初は述べないようにする。
<本人は行動自体を否定しているのではない>
他の辛辣かつ偏屈・独断的な、「めいろま@May_roma」さんの文章とこの文章がことなるのは、日本人サポーターたちがスタジアムのゴミ拾いの報道に対して丁寧に起こった事実を取り上げ、まずそれが基本、国際的にも善意という形で取り上げられることを前提としてきちっと書いているところである。(彼女の他の記事は全般に雑であり、私はその記憶から「一定の仕事に関してかなり能力は高いだろうが、この人とコンビネーションで仕事はしたくないのう」と思ったこともある)この記事を見ると彼女の「イギリス至上・・・」という揶揄は、ことこの文章に限っては当たらないということは言えると思う。
<似たことを聞いた>
小学校のころに他界した祖父は、日露戦争従軍後、警察署で刑事をしたり、刑事といっても行政警察の業務をしていたり、果てはいまでいう皇宮警察の支援業務もやっていた(かなり特殊な事例・このため終戦の情報は1週間前から知っていたようである)という経緯がある。
あるときこの祖父に私が、町の中心部にある祖父の家の周りで、ゴミ収集車が結果的に散らかしていった(苦笑)残ったごみを箒で片寄せしていたときに言われた言葉がある。
「ゴミがあるとカラスもくるし、いいことをしているね。しかし、この後に清掃する人がやってくることになっている。その人に対していいことをしたという考えでいいのかな。・・・たしかに、最終的にその人たちがきれいにする仕事を担っているからきれいな街になる。その人たちの仕事をしてしまうという考えもあるわけだ。掃除をしている人に対して感謝の念を示す事のも大切かもしれないよ。」
どうも祖父は昔の警察がよくやる「説諭」をやっていたこともあるのか、お寺での説教に近い文言を、こういうときに使う。
またゴミの話だが、ゴミの分別回収が全国で行われ始め、環境に対する認識が高まったおり、ある新聞社が調べると特定の都道府県で分別回収が行われていない。調べるとこのような問題が答弁としてでていた。

「混在したごみ収集を長年実施しているが、当方では長年、収集後に専門業者によって分別し、そのあとに処理している。分別は素人がおこなっても混在がすこしでもあったら資源回収効果がなくなる(…たとえばプラスティックゴミを分けても、ペットボトルのキャップは素材が異なり、分離しないと再生活用ができないため、そのような材料は安価な取引に留まる)ためである。更に分別収集による(市役所職員ではなく)専門業者の業務を確保することも、都市運営業務では必要である。」
この後、この地域では収集したある程度分別されたごみに対し、さらに細かい分別を行うという形で専門業者を活用しているという方針に変更したようであるが、既得権益の保持と税金の意味ない分配という意見、そして他県の事例に対しては、都市運営と回収資源の活用という意味では必要という意見を堅持するしかないようである。
こう考えると、確かにめいろまさんの言っている言葉は概念としては欧州である意識の一つであろうが、必ずしも日本ではない概念という見方が通るのかといえば疑問である。
<階級闘争>
これは日本の士農工商・・・という身分制度を前提とし、またある程度社会的にも宗教的にも士農工商の言葉を江戸時代の身分制度を表すものと解釈するという定義からは・・・という階層構成が前提となっていると私は考えるが、それでも海外の階層(特にインドの例)に比べてかなりラフで、ある程度の流動性を前提にした柔軟性の高いシステムであるから継続できたともいえる。(縁戚関係で取り立てられるとか、医師などこれに限られない職分もある)その意味では、身分の固定化より職分の固定化という昨今の研究の方が当たっているという気もする。
ただその下にある賤民という領域に対しては、この間に生業の限定(但しかならずしも生活はある意味最低限レベルであるが保障されたようである)があるから、職分の固定化の側面もあるが多少身分の固定化の意味合いを持つといえるかもしれない。流動性が高いことが、「比較的」階級制度・身分制度の緩和が生じやすかったという認識は、特に海外との一部地域の比較の時に注意する必要がある。また、身分の固定化と職業の固定化がかなり強い事例は李氏朝鮮でもあるのだが、こちらは流動性をほとんど認めない柔軟性の低いシステムだったという。つまり職分が社会的必要性とは別に、階級差などと結合することは比較的生じやすいことである。但しその階級差・身分差の強固さは制度設計に依存してしまうため、地域差があるということになる。
<職分の固定は可能性のはく奪>

谷本氏はイタリアに住み始めた頃、日本にいた時のように、ゴミは持ち帰り、セルフサービスの店では自分で食器を下げていたそうだが、同僚から、「他人の仕事を奪ってはいけない。ゴミ拾いや食器を下げることは担当者がやること。客がやることではない。仕事は作らなくちゃいけないんだよ」と言われたそうだ。

ほとんどの人は忘れている事だろうが、私たちが生きていく折に、いつ仕事が消えるかもしれない宿命があるという認識は、持たないわけにいかないと私は思っている。たとえば農家が土地を水害でなくしたため失職ということは可能性としては低くてもゼロではない。その時他の仕事に動くとしても、職業指導などを受けたり師匠のしたで修行するという違う道を選択する必要性が必要であろう。つまり仕事を作るという概念を日常の動作で行うほど職分に関して硬直的な体制は元来想定しないのが日本人であるし、たとえば職域転換(教育指導はある程度付帯するという前提で)自体は当然生じることを前提として、企業内のみならず企業の外(求職・就職などの社会環境)も構築が一応完了されている。むしろ仕事のなかでいらないものはさっさと省き、その結果奪われた仕事を理カバーするために、他の仕事を侵食する。
階級性が強固な場合はこれは大量な失職者の山を作り、そして他の業種の転移はもともと否定されているから欧米的な階級闘争が起きる。では日本ではどうかというとまだ職分と階級が密接に関連している時代はこれに近いもの(一揆も含む)は多々起こったのだが、職分と階級の関係がややあいまいになっている現代の日本では積極的でない仕事を奪う行為は、社会における必要悪・必然であるわけである。
つまり「職分とくっついた社会」の階級性が薄くなった地域では、他人の業務に対して境界性を持たないからこそ、他人の業務に対し多少の領域の侵犯は問題とされなくなるという認識ができる。
<職分の境界性こそが仕事の存立起源であるなら>
そう考えると職業に貴賎という認識がそこまでなくても、職分に対した境界性が厳然とあるため配置転換がままならないという場面は、私も欧米の海外事業所の事例(あと案外、ここ数年の韓国でもこの傾向があるようだ)で、たびたび目にしていた。たとえば「プレスの技能者」が「プレス金型の技能者」の仕事をすることは契約変更を要する。(教育が必要ならそれなりにする前提があっても、退職することの方が多い。)そして教育を受けて配置転換されると今度は「プレスの技能者」の仕事はしない。多能工というようなものは成り立たないのであるが、これが普通であり、逆に日本の多能工が業務指導をするとき、いろんなものができるということを伝えると、「能力あるな」という判断ではなく「各々の仕事レベルが低いのだろう」と詮索されるようだ。
職分の固定は可能性のはく奪であるが、そもそも業務に可能性を持つこと、改善とかで自律的に仕事が変わっていくことが想定できない社会では、職分を変える必然性が(生計の手法を失う以外では)各個人にない。また職分を変えることは同じ業務に従事しているなかではない。そして職分を変えるには再度専門の学校に行き直すことが一般的である。これはもちろん労働の理由を「契約」によってすべて説明するのと、「職分」にて説明するのとの2面性を示すところが、地域差を持っていることにつながると思う。
だとしたら、彼女が「仕事を奪うな」と叱られたというのは、叱る人は職分に対する階級性を維持して仕事をさせる理由とするのが、社会通念と認識していた事である。日本人がこれらの文化を理解するのは必要であるかもしれないけれども、「仕事を作る」という認識自体に職分の階層性の前提が残っている社会が、このような一種の連携性を浅くしか使えない社会を組み立てているということになる。逆に、日本の労働の考え方に基本的に存在する、仕事の「カイゼン」活動・システムを肯定すると、逆に「他人の仕事を奪ってはいけない」の否定につながる素地もあるといえる。
そうなると、コンピュータ業界の業務分担にまでこの議論を持っていくのは無理があることなのか。これは、現在の本邦のコンピュータ業界のマネージメントが、木に竹をつないでいるからということが混乱のもとになっており、そこを欧米型のマネージメントで推進することが大本の問題であるのに、文化的な軋轢を生じているという認識をしているという認識の方がいい気もする。

もう少し深い議論は改めてやって見たい。

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