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あぶなっかしい

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http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/25984
家入一真氏は、次世代の「托鉢僧」である   2013/07/31
いやー、家入さんは本当に面白い。
銀行口座を晒しまくり
昨晩、家入さんがフォロワーの銀行口座を晒しまくってました。(中略)そんなこんなでかれこれ10人以上、口座が晒されています。やり取りを見ると、実際に振り込んでくれた人もいるようです。
これに対しては「乞食」「売春と変わらない」「けしからん」的な批判も集まっているようですが、いやー、ぼくには何がいけないのかわかりませんね。むしろ民間発の顔の見える支え合いという意味で、未来社会の原型だとすら感じます。新しい公共ってこういうことじゃないですか?
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次世代の托鉢僧・家入一真
大げさではなく、家入さんのこれ、托鉢僧のような取り組みだと思います。以下「行動する仏教」より。

タイやビルマなどの仏教国で、毎朝、僧侶たちが在家の人々に「布施」を求めて行列をつくる。人々も、僧侶たちに「布施」をするための準備を怠らない。
テレビなどを見るかぎり、もっぱら僧侶たちが生活の糧を求める光景に映るが、本来からいえば、僧侶たちは人々に「布施」の機会を与えているのであり、人々は「布施」によって自分のすがたを内省する機会を得ているはずなのである。 (中略)僧侶にいくらの金銭を「布施」できるか。意外にケチな自分に驚くであろう。私は考えているほどには度量があるわけではないし、他人を考慮しているわけでもないことがはっきりする。

そうなんです、新宿駅とかでも見かけるあの托鉢僧、あれは恵んでもらうのではなく、人々に内省する機会を提供しているのです。

家入さんのRTしたツイートを見て、ぼくらは価値観が問われます。「気軽に人を頼るなんて許せない」と思う人もいれば、「面白いから寄付してみよう」とワクワクする人もいるでしょう。家入さんはRTというアクションを通じて、ぼくらに「お前はどう行為するのか?」と問いかけているのです。いやー、マジで面白い。
そういう視点からこうしたツイートを見ると、仏教的に見えてくるから不思議。
今回の記事では宗教と紐付けてみましたが、家入さんの本質は、アーティストなんだとも思います。
たとえば、今回家入さんがやったことは、お金を再解釈するアートな行為と見ることができます。
コラボレーティブな行為を通して、世の中に新しい価値観を提示していく。そしてその背後には、新しいテクノロジーの存在があります。起業家という文脈で捉えられることが多い方ですが、むしろ新時代のアーティストとしてぼくの目には映ります。(後略)
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私の周りにもベンチャーを立ち上げるにあたって、クラウドファンディングを考えている人がいる。先日、その人(すでに技術をもって起業して、一つの会社を盛業中なのだが)が、ビジネスモデルを計画しているのを聞いてきたばかりである。そして、この家入さんのパターンもクラウドファンディングの一種になる。
クラウドファンディング(crowd funding)またはソーシャルファンディングは、不特定多数の人がインターネットなどでで他の人々や組織に財源の提供や協力などを行う仕組みである。(実ははじめは、非常に遠隔の方から存在を劃して出てくるという意味で雲(Cloud)の意味だと思っていた)

まあそれはそれとしてであるのだが、個人的には「口座」という代理業務者に業務上の影響があるんではという憂いはあるのだが、「けしからん」という感覚的な否定は論外だし、「売春と変わらない」とは対価の交換という意味では売春・風俗営業の業務の本質(感情労働にたいする見方)との比較をすると、売春にあやまれといいたくなる。それこそ未来社会の原型というのは買いかぶりすぎでむしろ社会資本主義への志向という見方を私はしている。(また原始共産制でもないしヤマギシズムでもなかろう)
ただし、「大げさではなく、家入さんのこれ、托鉢僧のような取り組みだと思います。」というのが極めて皮肉に満ちた表現に見えることに気がついた。

タイやビルマなどの仏教国で、毎朝、僧侶たちが在家の人々に「布施」を求めて行列をつくる。人々も、僧侶たちに「布施」をするための準備を怠らない。(中略)、本来からいえば、僧侶たちは人々に「布施」の機会を与えているのであり、人々は「布施」によって自分のすがたを内省する機会を得ているはずなのである。

この場合のタイやビルマなどの僧侶の場合は庶民が修行という形で僧侶になり、また多くは庶民に戻るという生活になっているわけで、托鉢を施す人と、托鉢僧は共通の認識を持つ人たちである。つまり理想的にはこれらは共通の認識が共有され、まあ社会資本主義のなかでの相互の扶助が行われているような形だからこそ、リアルに顔の見える支え合いが成り立つのであろう。
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さて、親族に僧侶がいるので聞いた話なのだが、托鉢をする僧侶にも、信仰のためにおこなっているものと、生活のために仕事として托鉢を行っているものがいるらしい。どうやら知っているものには判断がつくというのだが、無論私はわからない。
ただし、「修行の一環としての托鉢は、常時町に出ているわけでないが、仕事としての托鉢は常時近隣にいるなどの差異があり」というのだそうだ。仏法を極めるものとしては当然修行や奉仕の合間に托鉢をするというのがある意味正当であるともいえると、資質の差とかを考えれば先行きが高い、修行している人に対し托鉢・寄進をして育成をしたいというのがまあ、顔の見える支え合いと思う人が多いと思う。また、この意味は言い換えると「修行の過程としての托鉢と、修行結果としての托鉢は意味合いが異なる」とも言い換えることができるかも。
まあ僧侶の中には、このような結果として生活のために仕事として托鉢を行っているのを指し「本質は乞食と変わらん」という人までいるらしいが、そこまでの強引な自己満足的発言は眉をひそめるとしても、相互の扶助というの濃密な関係性をもったものでないと寄進行為は危ないという側面はあるような気もする。托鉢僧が人々に内省する機会を提供しているという善意的な指針で活動しているかは、寄進者はまったく保障外なのである。
つまりここでは托鉢僧と仮託して評価している「口座をさらしてのクラウドファンデング」という行為、出資者へのかかわりと其の企画の信憑性、寄付という行為が投資・回収につながるものなど、企画としての革新性の中に隠れて、ITや銀行口座を介した隔離をされていることが、本当に寄付して将来の(利潤回収をもとめない)ものなかを考えると、、家入さんの托鉢僧のような取り組みは其の個人としては発露をしているのは事実ではあろう。ただ、ITの中での人間関係・社会構成に固定・固執した視点にどうしてもなると思う段階で、フォロワーたちが本当に提唱者の意図・リスク・将来性を読めているかはむずかしい。無理もない。フォロワーたち読める提唱者の意図・リスク・将来性はITでの紙一枚挟まった関係で構築されているものが多いからである。

この障壁を前提にして、本当にコラボレーティブな行為を通して、世の中に新しい価値観を提示していくのは実は虚構ではないかと懸念することさえある。つまり前提が新しいテクノロジーの存在というのがあるのだが、この前提条件が崩れたとき(つまり急速にITの代替技術が普及する。ITの技術的欠点・・・たとえば秘密保持機能が機能していない)にどういうように構築されるかは、実は誰にもわからない・・・ここは家入さんの責任範囲ではないんだろうが。

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