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合理性が見出せる段階なのか(1/2)

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http://bylines.news.yahoo.co.jp/maeyatsuyoshi/20130802-00026943/
愛のムチも許されない教育でいいのか 前屋 毅 | フリージャーナリスト  2013年8月2日 8時47分
行き過ぎや明らかに自分の力を誇示する教員の「暴力」はある。しかし、この場合は「どうなのか」と考える。
大阪市教育委員会(市教委)は7月31日、児童7人の頭を手でたたいたとして、同市立小学校の校長(62)を25日付で戒告の懲戒処分にしたと発表した。これを受けて、同校長は依願退職したという。
なぜ、この校長は手をあげたのか。『読売新聞』(8月1日付 電子版)は「市教委によると、校長は5月、6年男子児童が校内にナイフを持ち込んで他の児童を脅し、一緒にいた同級生6人も先生らに知らせなかったことを知り、7人を別室に呼び出して頭を1発ずつたたいた」と伝えている。
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依願退職した校長も、「指導のつもりだった」と話しているという。小学生が校内にナイフを持ち込んで他の児童を脅した、などとはたいへんな事態である。これを徹底して指導するのは、教育者としては当然のことである。
そこに「暴力」があったとして、指導した側を処分するというのは、どうしたものだろう。もちろん暴力は許されないことだが、それにも「程度」があるのではないだろうか。

ケガをさせるぐらい過剰で、感情的な暴力をふるう教員がいることも事実だ。そうした暴力は処分されてしかるべきだ。
しかし今回、処分された校長の「暴力」は、そうしたものと一緒にすべきものなのだろうか。報道でしかわからないが、「愛のムチ」という言葉など根本から認めない処分でしかないようにもおもえる。
処分した市教委は「市立桜宮高の体罰自殺問題を受けて、暴力に頼らない指導を目指す中、管理職が手を上げた責任は重い」と理由を説明しているという。「暴力に頼らない指導」は支持したいが、今回の処分は、あまりに杓子定規すぎやしないだろうか。
ただ、「批判されない教育」を目指しているようにしかおもえない。それで、ほんとうに教育といえるのだろうか。市教委の姿勢は疑問だ。
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【風を読む】「体罰」 人の道外れた生徒に言葉通じないとき 論説副委員長・別府育郎   2013.6.25 10:00 産経新聞
 文部科学省の有識者会議が、学校の運動部活動の指導指針をまとめ、「体罰」の具体例も盛り込んだ。
 大阪市立桜宮高校バスケットボール部の男子生徒が自殺した問題を受けて体罰防止の徹底を図ることが目的だが、例示が指導現場の一助になるとは思えない。
 指針は、信頼関係があれば体罰も許されるとの意識は認められないと断じたが、許されない指導例に掲げたのはこうだ。
 熱中症の危険があるのに水を飲ませず長時間走らせる。受け身をできないように投げる。「参った」の後も攻撃を続ける。殴る、蹴るや、パワハラ、セクハラも含まれている。これらはただの暴力であり、いじめであり、犯罪行為である。信頼関係の有無を問うまでもない。
 バレーボールで技能向上のためにレシーブ練習を繰り返すことや、柔道の初心者に受け身を反復させることは認めた。遅刻を繰り返す生徒を試合に出さないことも「許される指導」とした。当たり前だ。
 指針は勝利至上主義を否定するとともに、勝利を目指すことや記録への挑戦は「自然なこと」として容認した。勝利を求める中でこそ育つ技量や精神もある。
 運動部活動に、過度の勝利至上主義と体罰とが結びつく悪習がはびこってきたのは事実だ。悪習は断ち切らなくてはならない。そのためには参考にならない例示の羅列よりも、体罰がいかに無用で不必要なものであるか科学的根拠を示し、強制によらない指導法を確立すべきだ。体罰は生徒に肉体的、精神的な痛みを残すばかりか、現代のスポーツでは、勝利にも結びつかないはずだ。
 一方で、人の道を外れた生徒がいて、言葉が通じないとき、涙を流しながら手をあげねばならない場面はある。「愛のムチ」を肯定する限り体罰はなくならないと、識者がいう。新聞がいう。テレビがいう。
 誰に全否定されようが、処分を覚悟で殴るべきときはある。
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たしかに、校内にナイフを持ち込んだという行為は往々にして問題対応はきわめて迅速でなければならない。一方体罰はしてはいけないのに、一線を越えた行動以外に選択肢があるかというとこれは当事者にしかわからないものである。
このナイフの一件も友達付き合いが困難で、そのために「いじめ」も受けた経緯がある。この段階でいじめが先か子供の性格がさきかという議論はその対応としてもかなり短絡的な行動をしている経緯があって着目していたのだそうだ。しかし、これらを着任時からこころがけても、何しろ問題が生じるのは「確率論」的な事象であるし、抜本的な問題は多元的解決であって、人間一人では背負えないという側面もある。
体罰は許されないという前提があったとして、そこに至る過程や内容を見ていくと未然に防げない以前にもともと無理筋の話というのもあるかもしれない。(続く)

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