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合理性が見出せる段階なのか(2/2)

(承前)
この校長の行動の背景には、ナイフを持っていることの衝撃と、教師である自分が厳しく戒めねばという意識があったのだろうが、指導する推奨された方法があったのか。たぶんに一つの「解明」方法は教員組織全体の力であろうが、この段階でこの意図をまとめることは、事前の取りまとめがあっても成り立たないだろう。
解決方法はそれこそ雛形でしかない。教員組織全体の力をまとめる力が校長にあるような権限はすでにない。さらに地域住民にとっても、そのような生徒を私刑的に排除するということは、PTAが口では言えても実働できるわけではなかろう。
さらに公立学校であることも「大きな課題」であろう。くることもたちを拒否することは基本的に学校の裁量でないし、また行為自体を実施することは公教育・義務教育、そして日本(そしてドイツもそうであるが)における通学を義務として、児童の社会性を育成することをその目的の一つとする場合は、ナイフを持っていることだけをもとに生徒を「義務教育から」排除することはできない。(逆にアメリカでは教育を受ける権利はあるが、否定することもまた親の教育手法として代替手法がある限り認められる)
この文章を書いた論説副委員長は、相当逡巡(しゅんじゅん)してるのだろうと思案する。書くことは仕事だが結論がまとめきれない。しかし、一定のベクトルを示すことを求められているのは一応新聞という立場上示さなければならないとなると・・・こういう文章になってしまうのだろう。
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体罰防止の徹底を図ることが目的という段階で、管理側の例示が指導現場の一助になるというのは短絡的なのである。一般的なインシデント対策と同じく、随意性を認めないとインシデントには対応できず、ときに(本例では最悪の事象だが)対策できないリスクが存在するとしても、それを皆無にできないことを認めるということは存在することである。
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ここでエディ・タウンゼントという日本のボクシングの「名トレーナー」「名伯楽」を思い出す。

1962年、力道山に招請されて来日しトレーナーを務めるが、翌年に力道山が急死し、その後は種々のジムから招聘を受け、選手の育成指導を行ない、6人の世界チャンピオン・その他名ボクサーを育てる。また、その実績のみならず人間性や指導方法も高く評価されていた。
当時の日本流の指導を改めた。来日の折に当時日本のボクシングジムでは当たり前だった指導用の竹刀を排除するなど、指導では根性論を否定し、厳格ながらもわかりやすく合理的なアメリカ流の指導を徹底した。
もちろんこのアメリカ式の手法はプロのボクシングにとっては、至極合理性のあるものである。少なくとも、志願者を募るため入場には自由がある、退場(才能がないとかでやめる)に対しても個人の意志の問題でありそこに対し踏み込まないのは合理的である。
ところが、志願者をつのるものがたとえば前借金であったり、社会情勢であったりし、また退場することがその人の意思だとしても、志願者を募る段階で最終的な育成目的を担保しての契約であったりすると、このような合理性以上の社会における利潤損失という解釈(つまり不合理とみなす)になりうるのだと思う。かつての相撲部屋のリンチ事件などは、担保としている育成規約を達成するということが前提であり、少なくともその少年の資質・モチベーションの低下を認める段階で、ことアメリカ流の合理性とはことなる「合理性」を失っているということになる。その上経験則としてであるが、実力の向上には過負荷の法則が条件であるというのもまたある。つまり「厳格ながらもわかりやすく合理的」であることは実力向上に対する過負荷の法則を認めないことも合理的判断とされても仕方がないわけである。エディ・タウンゼントの指導法はプロでかつ一人の力を十分に発揮する職分においては、非常に慧眼である。ただし、これが意欲を「自主的に持つ」ことが極めてむずかしい資質で、かつ優れた人を最高水準に引き上げるということより、普通の人を一定水準に引き上げということを前提にしている学校では「名トレーナー」は必要であるが「名伯楽」は否定される傾向にある。そこに、個人の合理性を尊重するために資質の熟成がままならない人間を選別してから教育の場所に連れるわけに行かない。また、地域によってはそのような生徒ばかりであり、排除すれば生徒がいなくなるという地域もどうもあるようだし、其の人たちを最低社会の要求に対応できるように平均的に引き上げることが其の地域の社会的要求で、チャンピオンなんぞ不要ということになっている場合もままあるようだ。
もちろん、優秀なスポーツマンが教えるとすべての人間が努力すれば何とかなるという誤解をもってしまうばあいもある。自分の技術を鍛えるため練習を厳しいものとした選手が指導者になると、一方的な厳しさと信念持っているだけにほかの人への教育の困難をもたらし、精神論のみのよりどころになる傾向があるともいう。職人肌のテクニック習得をベースとする指導者と、テクニック以前に技術を発露する前提たる心理的駆け引きを得意とする指導者ではそもそものアプローチの前提が異なってしまうともいわれる。後者の場合(エディ・タウンゼントもそうだが)選手としては(時代背景もあるのだが)成績が必ずしもよいとはいえないからこそその前段の心理的手法と指導手法(さらに人格もこの場合はあろうが)が熟成されたのだが、概して後者は最初に指導者に抜擢されにくい側面がある。

このように考えると、体罰がいかに無用で不必要なものであるか科学的根拠を示し、強制によらない指導法を確立すべきだというのはそもそも、トップの技術を引き上げる指導として国際的に優秀なレベルを育成するには必要である。たしかに体罰は生徒に肉体的、精神的な痛みを残し、勝利にも結びつかないのだが、少なくとも其のトップに行くことが最終目的だけでない中間層においては、就職に有利だとか上級学校への進学に対する、「生活を切り開く」アドバンテージになってしまっている。さらには目標などをすべて失った社会にいる層で、また目標があってもそれを実現することが社会構造上難しい場合に、其の人たちを捨て去ってしまうことも「アメリカ式の合理性」は肯定するということになるのである。
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もとより 文部科学省の有識者会議が、学校の運動部活動の指導指針をまとめたと入っているが、「体罰」の具体例も盛り込むまではともかく、判断基準を設定できないのは一意的な体罰のよい効果・悪い効果を判断できるものが従来も未来永劫も出来上がらないからであろう。「批判されない教育」を目指すことは理想だが、何をやってもどの時点でも批判することが類型性を伴わず起こるのだとしたら、教育という行為の目的設定でを「基本的作業」の羅列だけにするしかないという。市教委の姿勢は疑問だとは思うが、ではこれをでは論破するに値する論述が誰かできるかというとはなはだ疑問である。誰も問題提起するだけで、適切な恒久手法もなければ、其の当事者なる人材を育成することもまた難しいのである。

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