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ロバスト性が意欲減退を招き、結果大波にさらわれる

品質工学では、ロバスト性ということをいう。
「品質を安定させるには、 設計段階で 外乱に強い設計をすべきである。」 という考え方を、ロバスト設計と言う。頑強な設計という意味である。もともとは、応力や環境の変化といった外乱の影響によって変化することを阻止する内的な仕組みや性質のことをいう。
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ロバスト設計は性能や品質が安定するための手段であるが、重要因子を把握し、制御するという方向を重視した設計検討や調整手段(ないしは雑な調整でも性能がぶれない事象の見出し)の手法である。もちろんこれにも種々の視点があって、
●工程で外乱が生じていても、同じ製品が製造されること(工程の頑強性・製品初期状態の頑強性を確保)
●顧客での使用条件の差異・製品劣化があっても、一定の性能が得られる(製品機能の頑強性を確保)
もちろん生産工程では前者を期待する。開発者(設計者)は主に後者に配慮するということでアプローチ手法は概ね一緒だが実務内容はことなる。
生産現場に近い技術担当者が目指すのは、主に前者のロバスト性で、 開発担当者が目指すのは、主に後者のロバスト性だろう。

もっともたとえば株価操作などロバスト性を必要とすることがある。経済学では市場における変動と、それに対する安定性の評価などに用いるらしい。究極のロバスト性のある二国間交易の理想はある意味相場の安定化でもあるが、この安定化は逆に意欲の固定化につながるともいえる。これがプラスに働けばいいが安定を志向するために、投資や新規のものをことさら排除するという側面がたまにあったりする。
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つまり、安全・安心の社会というなかで製品を作っていって販売しているという商取引のなかでは、そのバックに安定というものがあるともいえる。これは見方によって種々の考え方ができるが、安全・安心が数値として示されるものなら、そのふれ幅として安定というものがあるという見方もできる。損失量を小さくするようにすれば、安定の値は小さくなる(狭くなる)ものであろうというように論旨を進めていくと、3すくみになる可能性が推察できる。安全・安心を求めている中で安定というものまで求めていると、実は表向きの安全・安心の確保ができているのかもしれないが、実は安全安心を求めている際に安定まで求めたため、実体の伴わない安全・安心の指標が示されてしまったと思うこともあるのだ。
ロバスト性を求める設計は、品質的には一定のレベルで安定するものであるのだが、時として安全安心の確保を伴うため、リスクを背負ったりすることができない設計システムになっている場合がある。また、安全安心を求めて安定までを購買層が強く求めていると、時として新規性があるとか、新たなニーズを確保するような設計行動を「安定」を求めるために排除するということになるのかもしれない。ひとつの目的として社会に対しよい技術者として貢献巣と思って安定した製品を作るという、邪心のない誠意の人は、去勢されていくのだろうと思う。
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http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130605
2013-06-05 なにで(機械に)負けたら悔しい?
将棋電王戦が盛り上がったのは、“プロ棋士が、コンピュータソフトに負けることへの関心”にその源があったと思うのですが、実は人間は既に、多くの分野で機械に勝てなくなっています。
たとえば私たちは、体力で機械に負けても、もはや悔しくもなんともありません。
力の大きさで機械に負け、「くそー、パワーショベルの野郎は何トンも持てるのに、俺は100キロしか持てないぜ。悔しー!」などとは思わないし、走る速さに関して、「どんなに頑張ってもプリウスより早く走れない。あんなハイブリッドな奴にさえ勝てないなんて、オレはもう絶望だ」とも考えません。
人間は飛ぶことができませんが、だからって、機械(飛行機)に対して悔しいなんて思わないですよね。
「飛行機を作ったのは人間だから悔しくないんだ」って? 
そんなこと言ったら、将棋ソフトを作ったのだって人間です。(今のところ、「人間を作った機械」は現れてないので、そこまで突き詰めるなら人間はナンも負けてません。)
「身体能力で負けるのは悔しくないけど、脳力で負けると悔しい」のでしょうか? 将棋は“知能を競うゲーム”だと思われているから、それで負けると悔しいのかな?でも実は、アタマを使うことに関しても、人間はすでにあれこれ機械に負けてるよね。
「くそー、俺の電子辞書は広辞苑含め 36冊も丸暗記してるんだぜ。俺がまだ一冊も暗記できてないのに!」とか思わないっしょ。「暗記」でボロ負けしてることを、私たちは屁とも思ってない。
計算は?
100均で買えるちゃちい電卓でさえ、589657÷358748を一瞬で計算するけど、あたしは全く悔しくありません。
この前、プロ棋士の方に「詰将棋でソフトに負けてるのって悔しいですか?」って聞いたら、「全然悔しくない」とおっしゃってました。
詰将棋とは、王手を続けながら王将を詰ませる手順を探し出すゲームで、答えはひとつしかありません。(複数の回答がありえると、完全な詰将棋とは認められません)
こういう“正しい答えがひとつ”的なパズルはプログラムが得意とするところで、プロ棋士でも何十分(時には1時間以上)かかる何十手、何百手みたいな詰将棋を、ソフトは一分以内で解いてしまったりするわけですが、そんなのはプロ棋士の方からみても「別に悔しくない」わけです。
yahoo路線とかも同じですよね。渋谷から京都経由で福井まで行く最短経路をウェブサービスが即座に出してくれても、別に悔しくないでしょ。
---------------------------------中断
彼女の赤裸々な表現は、評価出来るのだが、さて、個々には相当反例があるんではと思っている。
というのは、将棋電王戦が"プロ棋士が、コンピュータソフトに負けることへの関心”というのではなく、プロ棋士が、コンピュータソフトを造る将棋の専門家とは限らない人間に負けることへの関心という形にしか、多くの将棋の専門家は考えない。多くの場合過去の勝負の実績などをリストアップしたデータベースが蓄積されていれば居るほど、ロジックを組みやすくなる。こうなるとプロ棋士がきわめて高い能力を持っていても、気の緩みとか過去の経験に拘泥してということが負けに繋がりならすでに人間が負けたのは、そして悪手を打ったとは認められないのに負けるということは、緊張が保てなかったという体力的な問題になってしまう。だから悔しいという人は大方の場合「体力・気力を長時間保てなかった」ことを憂いているのではないだろうか。
力の大きさで、パワーショベルに比べ俺は100キロしか持てないぜと嘆く人は居ないとは思うが、では100キロを持ち上げるだけでも何とかしようという部分部分での勝負をする人は、重量挙げにしかり古来からあった。そこには対象物の差異はあっても基本悔しいと思う概念を持つ人が居たということになる。(古来、重量物運搬などを動物を用いて行ったことはむしろ普通であるわけで、ゾウとかの動物が単に建設機械に置き換わったという認識もあるだろう)
人間が飛べないから飛行機が出来たというのは概ね間違いないところだが、それでもハングライダーなどに興じたりするのは飛行機の感覚に出来るだけ近くなりたいという認識の人も居るのだと思う。そして、瞬時の計算を頭の中でやってしまうという人ならソロバンの先生などにはそれなりに居て、更に研鑽を積んでいたりする。
ただソロバンの先生にとっては、計算が出来ないで「100均の電卓」に負けるというのは心底面白くないが、空を飛べないのは悔しくないなど偏差がある。人間の能力はそこまで高くなりえないという想いがあるからだろうが、実際には相手も専用性は変わるブルドーザーとカイトが全く工学的にも異なるものである以上、特定の分野のみの勝負でしかないからである。
ちなみに、鉄道の最短経路をウェブサービス出すのは良く私も利用するのだが、即座に結果を出してくれて悔しくはないものの、「こんなの無意味じゃん」というルートが選ばれていたりするところもあるわけだ。そうなると悔しいというより、最適化に近づけるようなことをしたいなあという評価基準になるのが自分である。
そうなると・・・・
--------------------------再開
つまり、身体能力はもちろん、頭を使うことにおいても、
・暗記
・計算
・正しい答えが一つだけ存在するパズル的な問いの答えを探す問題解決
に関しては、私たちはもう機械に負けてても、あんまり悔しくないんです。
将棋の場合は、大局観と呼ばれる形成評価の能力などが(現時点では)チャレンジを受けてるわけですが、これだってそのうち機械に負けることに慣れてしまう可能性は、大いにあります。(この“慣れる”とかいうのが、人間のすばらしい能力だったりはするんだけどね)
(中略)
結局のところ、「自分と直接的に競合しない限り(=自分の仕事や価値を奪わない限り)、コンピュータがどんどん進化するのは非常によいことだ」と思われてるわけで、そうであれば、人間がやってることの多くは、これからもどんどん機械に置き換えられていくのでしょう。そして、(今までもそうしてきたように)私たち人間は、「現時点では機械にはできない分野」に逃げ込んでいくしかありません。(中略)
-------------------中断
という。大局的にはまあ言いたい事がわからなくもないけれども、機械に負ける事が悔しいという方向性にならずに、機械の行う事を極北として、そのロジックやり作業なりを、多様性がある人間がトレースすることを目指すベンチマークとするということが、新たな価値として生じるという方向性はないだろうか。
大概の自動化工場は、仕事や価値を奪わずむしろ仕事を定型化し人間の作業のクローンを機械にさせ付加価値を多く得るとか、仕事や価値を奪わず仕事を定型化し人間の作業のクローンを機械にさせ付加価値を生産量の多さで希釈していくなど、コンピュータが進化するのはあくまで社会の中では非常によいことだと思い込むことで、推進していた経緯があると私は思う。機械に負けた勝ったということは考慮しないパターンも多かったのではと思う。(もちろん危険な作業環境の回避など人間の存在意義を高めるための自動化工場も多いのだが)

むしろ、彼女の「機械に負けてもあんまり悔しくない」という意見は、江戸の敵を長崎で討つとか、かつて阿Qがやっていた、現時点の惨めさを口先でごまかし、如何なる負けも結果を都合の良いように思考で逆転させ、心の中では自分の勝利とした「精神勝利法」とそう代わらないのではと私は思っている。ただそこであせっても仕方がないという功利的バイアスが得られる知識を持っていて諦観している。だから無知蒙昧な愚民の典型たる阿Qのロジックは、高度な判断能力ある人材でも現象面だけでは阿Qのロジックとそう代わらないのかなと思ってしまった。
---------------------再開
というわけで人間は、体力から始まって脳力のアレコレ、感情分野から創造力の必要な分野も含め、どんどん広い分野で機械に勝てなくなるんだと思います。
そして、そのたびに「人間にしかできないであろう」分野に逃げ込んむことを“撤退戦”と考えるか、それとも・・発想を変えてポジティブに捉えれば、「機械ができることはどんどん機械に任せ、人間は、自分が楽しいことだけをやって生きていけばいい」と考えるか。
生産に関わることや面倒なことはすべて機械に任せ、人間は「何も生み出さないが、自分自身がおもしろことと、楽しいことだけをやって生きる!」のは、決して悪くない。
それってどんな生活?美味しいものを食べて、ソファに寝っ転がって韓流ドラマを見て、たまにはビーチでごろ寝して、みたいな生活ですよ。(後略)
---------------------終了
自分自身がおもしろいことと楽しい事が、他の人にとっては苦痛でしかないということもあるので、このような生き方は実際には社会活動で通用するには殆ど不可能だろうと思う。まあそれはそうとして、機械に勝てないということで撤退するのはまあ部分的にはあろうが、ではその機械が突如なくなる、暴走する、津波にさらわれる・・・・となったときや、自分と直接的に競合しないからいいやと思ったら急に波及してきてしまった(例:ナウルのリン鉱石枯渇)ときに、ゼロスタートになるということを意味する気もする。「何も生み出さないが、自分自身がおもしろことと、楽しいことだけをやって生きる」というのは、変化に対するロバスト性が極めて脆弱で不安定で結果的に内部矛盾を抱えているのだと私は思う。
ロバスト性を持った安全・安心の社会はひとつの社会の目指すところとして設定するのは決して悪くない。しかし、必ずその評価につながる安定という現象が安心・安全の絶対的値をマスキングするということを図らずしも示すことになる。楽しいことだけを行う生活が維持できない結果、楽しくないという壮大な自己矛盾にスパイラルダウンする事がありうるのだと思っている。そのときを想定できないのが大方の人なんだろう。

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