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時代を変えることは他者の思考過程や尊厳を潰す

前回の話の後日談である。
そんじゃーねのひとは前回の記事で相当あちこちからたたかれたようである。けどめげないですな。まあ彼女は芯がある人だし、すべからくそんじゃーねのひとはこういう信念でなきゃならんとも思う。
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2013-03-18 時代は変わるんだぜ
前回、「今どき事業戦略を立てる時、自社の強みは何かみたいなところから考え始めるなんて、もうそれだけで終わってるよね」と書きました。
でも、戦略考えるときに、自分の強みから考えるって王道じゃないの? そういうフレームワークも習ったことあるよ、という人もたくさんいるでしょう。
じゃあなんでこういう話になっているかといえば、それは「時代が変わったら、答えも変わるのよ」って話です。
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これはそういう視点はあろうと思う。回答は必ずひとつでない。事業戦略の最初にこれがくるのは固定概念によるものと思う。ソーシャルビジネスというものは従来なら収益を前提としない篤志という視点で語られていたり、授産とか公益向上という社会配分の中での議論にとどまっているのが普通だったからだ。
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ただし、問題は心の問題だったり、習慣・慣習・民族性・歴史経緯・物理的資産というものに関して事業戦略が関わってくる内容は極めて多く、そこに戦略的な問題、さらには「好き・嫌い」「個人の信条」「権謀」などがからんでくることなのである。
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確かに昔なら、自社の強みから何を作るかねって考えるのもアリだったと思います。なぜなら「自社の強み」って、(自社にとっても他社にとっても)そうそう簡単には変えられないものだったから。いわば、固定的な条件だったんです。

たとえば、長年かけて培ってきたノウハウだったり、特許で守られた技術だったり、何年もかけて細かく調整&改善してきたラインの行程だったり。
うちは持ってるけど、他社にはおいそれと真似できない、一朝一夕には作れない、手に入れられない。そういうのが「自社の強み」でした。で、それを活かして勝負しようぜ、みたいな話が成り立ったわけです。
でも今はもう時代が違います。
強みは買ってこれたり、自分が不得意でも得意な会社に委託できたり、技術だって売ってもらえたり一緒に利用したり(勝手に使って訴えられたり)、共有&調達できるものになったんです。
しかも、世界中から会社が集まって「じゃあ、こうやったどうよ?」みたいな話し合いを通じて、作り方さえ決めていく時代になりました。そこではみんな自分の手の内(強み)を見せ合って、まずは仲間に入れてもらえるかどうかで最初の勝負が決まるんです。
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ものづくりの話のようなので、まあ私にも話せるなあという話である。
この中で長年かけたノウハウやラインの行程、製造技術だったりするものは確かにキー技術においては秘匿の問題はあるのだ。しかし、それ以前に、自社で出来ないものを条件だけを明確にして外部の専門工場に依存することは、従前から行われていることである。さらによくあるのはこのような末端部の部品工場がほとんど寡占状態になっているとか、実はいろんな会社に供給している会社が合併や買収を経て2社に集約されたということは、今回の震災のときに知られたことである。自社の強みはそうそう簡単には変えられないものだったが、少しずつは変化している流氷のつくる渓谷と思っている。
強みを買えるようになったというのは、実は戦略的に価格を吊り上げたり、競合相手が買うという知的所有権を有償でも使用させないことで、競合製品の上市を遅らせたり(その間に違う技術を開発してしまう)ということを反対に生じさせることになる。つまり、垂直分業のシステムということではあったのだが、末端部の供給元が集約化されていたり、(時に談合されていたり)、果ては輸入元の国に牛耳られていて、差のつけようがないなどあるのである。
少なくともこうなると、世界中から会社が集まって「じゃあ、こうやったどうよ?」みたいな話し合いを通じて、作り方さえ決めていく時代では、特段に他社を出し抜いた製品を作ることが難しくなってしまう。自分の強みを見せ合って、まずは仲間に入れてもらえるかはあるのだが、本当の強みはこの段階では各社出さず、結果的に下位互換性のあるもので市場が固まると、そこからの革新的イノベーションがおきるのは、集まった会社からは出てこないようになる。(これがある意味大きな会社になると、内部的に研究資産の分散が図られるので実は影でこそこそやっているというのがある。ところが、ここで会社の綱紀や内部統制の問題、果ては昨今の収益を丸裸にすることによる削減などがあり、うかつに研究が出来なくなったりという問題がおき始めているのであるが。)また、仲間に入れてもらう段階で机の下でお互いの足をけっとばしあっているのだが、こと日本人は倫理的にこれが許されない社会風土がある。机の下の足のけりあいを許さない強固な社会規範はまずは仲間に入れてもらえるかというところで、うまくいかなくなる恨みもある。
つまり、私が考えるには少なくとも

◎「水平分業」でなく垂直分業がメインであるシステムを作っているのは江戸時代以降の構築された倫理性というところもあり、そこが投資姿勢や新技術や新体制の社会・一般公衆への許容にかかってくる。ある程度の資本を集める企業を経営するのに当たっては、投資をしたり生産物を購入したりする公衆の持つ従前の概念にひっぱられる。したがって、自社の強みとかという視点は投資元や顧客に対する価値の維持に関しては「必要悪の概念」である。
◎「水平分業」でなく垂直分業という形であっても、局部的には水平分業的要素が取り入られている。ただ水平分業をやっている業態では、みんなが集まっていいものを造るということは、投資回収が図れないことになる(商流の構成が出来ない・・・価格の主導権を得られない・・・人件費の割合が収益に対し高い日本では、投資回収以前に人件費さえまかなえない事態が続出する・・・特許などを握りつぶして使えないようにし、防衛的活動をすることで既存スキームの温存を図る方向で投資回収を消極的に得る)。

という、積極的技術策でない、ディフェンス的方策で、水平分業による利潤の平滑分配を潰している負の競争があることが知られていないのである。
それが相手が海外企業まで関わってきて制御しきれないいえよう。また、ノウハウ、ラインの行程などは償却年度が短くなることが平気であるのだが、逆に特許で守られた技術の場合は、このように時代が変わる状況でも厳然として基幹の短縮がない。つまりこのように特許権を握りつぶし(持ったままにし、使用権を有償にしても他者に与えず、逆説的に権利を行使する)というのは、国際特許でもよくある。しかし、このようなネガティブな足の引っ張り合いが成功して、レベルの低い技術がむしろ標準的技術と世界に普及していくことは、枚挙にいとわないのである。
もっとも・・・
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オープンイノベーションといってもいいし、水平分業といってもいいし、コラボレーションと言ってもいいんだけど、もはや「ひとりでスゴイもん作る」っていう姿勢に拘りすぎること自体がヤバくなってる。
これって個人でも企業でも国家でも同じでしょ。ひとりの人、ひとつの企業、ひとつの国家に強みがあるのは(ないよりはよほどマシだけだど)、それだけじゃ、勝てなくなってる。あのアメリカでさえ、自分ひとりで中国と対峙しようとしないでしょ。仲間を増やして勝負しようとするじゃん。
覚えておいたほうがいいのは、「友達のいない勉強のできる奴」とか、「一人で何でもやろうとする奴」の時代が終わろうとしてるってことだすよ。
利害を共にする人たちと組んで、それぞれの強みを持ち寄って、全体として超スゴイものを目指そう、そうじゃないと市場で選んでもらえない、という競争になってる時に、ひとりで頑張る!なんて無理すぎなんです。
なんでもかんでも自社(&系列・仲良し会社)だけでやろうとするから、「なんかショボイよね」みたいなものが出来上がる。
-------------------------後略
正直言うと、「友達のいない勉強のできる奴」とか、「一人で何でもやろうとする奴」の時代は、すでにかなり前に終わっている。少なくとも「チーム研究」「チーム医療」ということしか成果が出ないというのは(例外的にアップルというのがあるかもしれないが)かなり前からおきているところである。日本人は自分の設計した機械に「○○式」というような個人名を入れるのをあまり好まない(例外としては、工藤式蒸気動車とかある。KJ法というのは提案者の名前由来だが、本人が言い出したのでなく弟子や指導を受けた人たちが言い出したことである)が、最近は海外の研究実績も個人名を入れるようにはならなくなったのは日本側によっているという冗談ではなく、個人プレーでは成果が出なくなったことであると考える。
しかし、この結果その研究成果を使うために指導を受けることで篤志行動を行うにしても、研究者各個人への研究費用・正当な範囲内での報酬は逆に薄まってしまったという。なんでもかんでも自社系列だけでやろうとするのは、すでに投資回収のスキームが共同での開発では薄まって、再投資まで回らなくなるという問題の回避である。

自営業の私は、どっちかというと一人で行う開発スキームでは投資側のリスク回避が出来ないことなどが多いことから中途で投資不可能になることもあったことから、最近は部分的に同業者(隣接領域の人だけでない)コンソーシアムを組んで仕事をすることが多い。調整工程もあればその手数も増えるし、結果確定されたリターンはしっかり少なくなるが、これはまさに「利害を共にする人たちと組んで、それぞれの強みを持ち寄って、全体として超スゴイものを目指そう、そうじゃないと市場で選んでもらえない、という競争になってる時に、ひとりで頑張る!なんて無理すぎなんです。」ということに合致する。本当は「友達のいない勉強のできる奴」とか、「一人で何でもやろうとする奴」が活躍するべき場所なのに、共同受注のコンソーシアム型では莫大な瞬間風速的な依頼案件(特に私の得意なもの)がキャパの関係で無理なため、彼らは事業スタイルとしては難しい舵取りになるという本質的問題以外の問題のほうが意外と重いことにもつながる。
つまり、「ひとりでスゴイもん作る」っていう姿勢に拘りすぎることは一方の企業活動の社会環境である「永続的企業活動」という面から離れた場所にあるわけだから、現代になじまないのだが、逆に既存のスキームを壊さない範囲でしか仕事が出来ないという「真綿で首を絞める」状況を社会が勧めているとも言える。
だから、ほんじゃーねの人は「時代が変わったら、答えも変わるのよ」という言葉で革新性を言うのであるが、その前提がなりたたない反例としては「時代が変わっても、人の経験や思考過程は少なくとも代替わりしない限り大きく変わりえない」という人間の寿命という次元(しかも伸びているのだからますます変化は緩やかにしかすすまない)までかかわることである。そうすると、過去の世代と現代の世代との間に少なくとも合意を得たり資本を投下するという相互関係があってこれが逃れられないなら、「自社の強みは何か」というような「共通言語・共通認識の取れる表現や指標」を残すということに帰結するしかないと思えるのである。「時代が変わったら、最適解も変わっていく。しかし替えた解を理解してもらう一番の課題」と私なら言う。しかもそこに刺客もいるのだから・・・・

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