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それでは誰も生計が回らない(1/2)

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2013-03-12 自分の強みを活かすというアホらしい発想
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130312
まさかと思いますけど、「自分の強みを活かして勝負する」ってのが「いい作戦だ!」と思ってる人はもういませんよね?
この「自分の持っている価値あるものを活かして○○する」という発想法のリスクというか、限界については、しっかり意識しておいたほうがいいです。
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これって、あきらかに「供給者視点」であって「消費者視点」じゃないでしょ。そこが致命的なんです。

↓こう書けばわかるかな。
供給者視点:自社の持つ圧倒的に優れた技術を活かして、商品開発!
消費者視点:消費者が熱狂するほど欲しがるものを、世界中から他者の技術を集めてでも開発!

前者と後者の典型的な会社名も思い浮かぶでしょ?

前者は「差別化が大事」とか思ってるのかもしれないけど、後者は差別化なんて気にもしてない。「差別化」ってのは対競合の視点であって、対顧客の視点の言葉じゃないんだよね。競合と顧客、まずはどっちを見るべきなのか、よくよく考えたほうがいい。
(中略)
就活する時とかも気を付けたほうがいいよね。「わが社の強みは・・」とか威張ってる会社はロクなもんじゃない。そんなもん、消費者(=お金を払う人)には何の関係もない。
そうじゃなくて、「うちの商品はこれだけ売れてるんです!」って言ってる会社のほうが圧倒的にまともです。
強みから出来てようが、弱みから出来てようが、買ってきて集めた技術から作ったものだろうが、「これが欲しかった!!」みたいなもの作ってくれれば、それでいいんです。
反対に言えばこれからは「これが市場から求められてる!」と思うものなら、外部から人を雇ってきてでもわが社が提供する! という覚悟のある会社じゃないと生き残れない。
「自分の強みを活かしてできる範囲」しかカバーしない企業なんかお呼びじゃない時代になってる。

このブログが人気化したのだって、「ちきりんが、自分の強みである文章力を活かして何かできないかと思い、書き始めたから」なの? そんなわけないじゃん。読者の読みたい文章があるから読まれてるだけでしょ。
あたしだって、文章が人より得意だからブログを書いてるわけじゃない。アホみたいなことをだらだら書くのが好きだから書いてるだけ。もしも前者の理由で書き始めてたら、ブログが人気化する前の3年半、一人で黙々と書き続けられるわけがない。
しかも、「何を書いたらおもしろいかな!?」の前に、「どうやったら他のブログと差別化できるか」なんて考えてたら、お話しにならない。重要なのは自分の強みなんかじゃない。何が求められてるの?ってことなんです。
大事なことを間違えちゃいけない。
くれぐれも「自分の強みを生かす」的アホな発想に陥らないよう気を付けましょう。
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この文章を見て、なんか変だなというのが漠然としてあったのだが、それがわかるのは最後の文章であった。

このブログが人気化したのだって、「ちきりんが、自分の強みである文章力を活かして何かできないかと思い、書き始めたから」なの?・・・・・しかも、「何を書いたらおもしろいかな!?」の前に、「どうやったら他のブログと差別化できるか」なんて考えてたら、お話しにならない。重要なのは自分の強みなんかじゃない。何が求められてるの?ってことなんです。大事なことを間違えちゃいけない。

要するにここにおいては、投資と最小限の対価という前提がなければ経済活動は基本的に成り立たないのに、それをすっ飛ばしているから、なんかおかしなことになっているんではとおもうのである。何が求められているといっても、もしこのBLOGが登録制であったり、閉鎖コミニュティーの中にあったりという中では、そもそも求めている人がこのBLOGに出会わない可能性のほうが高い。(ある意味「そんじゃーね」の人が有料メルマガとかに移行しないということを考えると、このあたりの方向性はしっかりわかってやってると思うのだが)

実は「自分の持っている価値あるものを活かして」というのは、そもそも価値というものの絶対視から来る問題点がある。そこはよく感じるのである。
古典落語の演目に千両蜜柑というものがある。。

特殊事情で莫大な値が付いたミカンをどこでも通じる恒久的資産と錯覚してしまう。その結果、自分の未来を捨てて失踪してしまう番頭に笑いがつくのが、なんとなく自分に変えてみると「やりかねない」と慄然としてしまう。このため、発想自体はとっつきやすいのだが、当然相手の視点ではない。このため限界がやっぱりある。
私も、自社の研究者が持つ優れた技術を活かして、商品開発をしたという中身に対して「商品として製品化する」には(B toB向けの製品でもあり)、製造対価を○○ぐらいまで設定しなければならないとなると、製造技術を開発することをしなければならないというところで悩んだ。ほしいのはその技術自体ではなく技術の付帯内容(音が小さいとか、小型とか、省エネとか)が得られる、優位性のある技術から見る間接的利得であるし、その利得と技術に充当するべき対価(既存同等品との価格の差分)が見合わないと、商品性がない製品を開発したことになる。
しかし、これをこの新しい技術を開発した研究者に「メリットがない」と直接いうことをしても、研究者のモチベーションが落ちることになり、そのほかの技術の萌芽をつぶすことになる。というのは、確かに研究過程ではこれらの付帯的技術優位性を想定しながら研究者は研究をするのだが、この技術の付帯内容に対する対価設定は、ほとんど水物のように常に「著名人の発言」「流行」「社会の情勢」などでいともも簡単に変動するという、研究とは相容れない、ある意味定性的・定量的評価がなりたたない、千両蜜柑の1房の価格のように、意味のない「価値付け」がおき、現象的に誤解されやすいたちの悪いものだからである。
それでも設計者としては、価値がないということはいわなければならないこともある。研究者にとっても、ここで得られた収益が次の製品研究への投資になるわけで、新規製品の提案など今後の事業の可能性をふたすることさえ実際にはありうる。事実、このように市場ニーズの乖離を強く訴えたら、研究者がそろって離脱し(大学の基礎研究に移ってしまった)、技術支援が得られなくなったという問題もあった。
たしかにその意味では、消費者が熱狂するほど欲しがるものを、世界中から他者の技術を集めてでも開発することは企業の存在価値を高く出来るということは納得いく。しかし、既存概念がなく消費者にとっては提案を求めるものには、熱狂するほど欲しがるようにする情報提供という仕組をコストをかけて仕込んだり、また偶発的口コミを待つことになろうとしたら、無償にはならない。
こう考えると「自分の持っている価値あるものを活かして○○する」という思考は、商品開発に非常に莫大なリスクとなりうるが、しかし、少なくとも霞を食って生きる人間でない人間を商品化のために使うことを前提とすると、その投資内容を最小限にするための前提であると思う。

よく、高くても買うなんてい人がいて、そのようなニーズに対応した製品開発をする場合がある。(それは技術先行・ニーズ先行のいずれもある)そしてそのようなものが売れた時期はあったのだが、このようなほしいものに糸目を付けずに入手する顧客が「消費者視点」という事例の中に入れることが本当にいいのかなあと思う。
さらに問題なのは技術を企業が囲い込んでいた時代の発想は成り立たないという提言はある意味当たっているのかもしれないが、技術は世界中の企業(や大学や研究機関や個人)が持ち寄って組み合わせて使うとしても、これらに適正な対価が払われるという仕組みがなくて、成り立つのだろうかという悩みがある。
大学・研究機関が無償で技術を出すとしたら、たとえばネームバリューとしての評価を期待するなどになろう。そのような別次元の(そしてきわめて少ない可能性の)回収手法はあるが、基本は研究に投資したコストを回収することをしない限り、研究者の技術の再生産・人材の再生産が実は出来ないのである。(もちろんその結果を持って創業したのは実際あるのだが、このような場合、思い込みが激しくて、よっぽど見方の違うが意見が交わせるパートナーがいない限り、あんまり研究者が創業に成功した事例は少ないように思える)
さらに、供給者視点であるという場合、技術は世界中の企業らが持ち寄ってといっても、その使用対価を極端に上げるというのはある。要するにその企画をつぶして残存者利益を得るというのもある。
ある国営会社が国内の会社を集めて利益配分を公平にした製品を立案し(国策という視点ではなかったようだ)、持ち寄って製品を作ったことがあった。しかし、この際どの会社も最先端の技術を出すことをせず相互の機械のマッチング(プログラムを含む)がまったくうまくいかないという問題になった。で、この場合、各社が独自に開発した製品がそのあと出てきたら、これがまた遥かに高機能だったのである。
つまり、技術を出し合って製品を開発すると言う場合、消費者に取り入れられる製品は出来やすいと思うのだが今度は、消費者が一定機能を求めると対価の最小限化(究極は陳腐化を促した結果の無償化)に走る。そうなるとスポンサーが最終的な利益誘導(たとえばあるブラウザの開発を支援することで基本ソフトの導入を促し、結果的に自社の市場占有を事実上認めさせる)などの手法になる。また、一般市場における情報の非対称性の事例から見て消費者が得られる情報はどうしても、供給者視点とは一致を見ない。

要するに最低限労働対価に対し見合うだけの対価を、得るスキームを持たず(理想的には再生産できる資本が得られれることなのだが)という形で、消費者がほしがるものを・・・という議論は基本的に現象を中途半端にしか見ていないと思うのである。
本当は重要なのは自分の強みなんかじゃない。何が求められてるのということに答えることが社会活動では必要である。しかし、食事を食べるなどの必要最小限の維持コストを捻出する責任が、消費者の前提概念から抜け落ちている。極端な話、倒産金融品になるとよく売れるという品もある。製本の生産にかかる最低限コストを割らない限り、商品が売れないという場合が多くなっている。
一般的な場合、自分の強み(それは篤志家を捕まえるというのも入る)をリソースとして使うぐらいしか、現実的な手法がないという。次の手をとる苦し紛れの手法をとるしかないということである。最小限の対価という概念さえもが抜けているからこの文章は机上の空論でしかなくなってしまうのであろう。
「自分の強みを生かす」的発想は基本的には本質的製品開発には邪魔だ。ここは私も同意するが、やりたいことを実現するにはリソースが必要で、その場合一番容易に得られるもの、ないしは少なくとも今確実にあるものがこの「自分の強みを生かす」である。現実には人脈も含めた「自分の強み」しか、リソースがないから、そこに回帰しざるを得なくなる事例が圧倒的に多いといえよう。繰り返すがそれは人間が究極的には、ものを食べ・生活し・服を着ることからのかれられないからである。やむを得ず「自分の強みを生かす」という手法をとらなくてはならないということである。
また、顧客がニーズに合ったものを供給されて熱狂するというのは、産業としてものを考えると独占性やその汎用性が社会不安(独占禁止)という視点から見たトリガーになり、きわめて早期に自然収束するというのもある。他社が技術を出さないとか、知的所有権にからませ裁判で応戦するとか、ほとんど回収不可能な技術対価を求めるというのもその一つであろう。つまり、お金の流れが想定されていないもの(BLOGの例)から持ってこられたことで定義が破綻しているのである。供給者視点では需要が得られないが消費者視点では今度はリソースが得られる可能性が急に低下しているのである。(続く)

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