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畳の上の水練(4/4)

(承前)
-----------------------引用
柔道界が世界の谷亮子を挟んでプロレス化   やまもといちろう
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/02/post-847a.html#more
(前略)
 角界もそうでしたが、ひとつのキャリアに絞り込んで技を磨き、その中で上を目指して切磋琢磨していくことは、人間の成長にとって良いことである反面、そのキャリアの終了と共にいままでの常識が通用しない社会へ出て行くことや、時代の変化と共に自分が育った環境のメソッドが否定されたときに受け入れる心の磨き方というのはなかなかむつかしい、ということなのでありましょう。
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 「殴って人は育たない」は当然として、しかし指導者として、あるいは父親として、我が子や生徒が練習や勉学に向き合わないときにどうするのか、というのは永遠の課題のように思うのです。せめて、目の前で一緒にいる20分なり30分ぐらいは集中してこれをやってくれよ、と言っても聞かないとか、相手も人間だからあるわけですし、私だって指導してくれる人にとってはやりづらい子供だったろうから、振り返れば殴られてどう思ったのか、練習なり勉学なりを強要されてやることの苦痛が本当に自分の成長に寄与しただろうか、ということを思い返すことなんだろうと。

 また、子供と同じく指導者もはじめから偉大ではないし、またベテランの指導者であっても教える相手との相性もあるでしょう。コーチってそういうもんだと思うんで。そういったところから考えて、どういう指導法が柔道だけでなく相撲や野球やサッカーなどのスポーツ、あるいは理系の研究室や企業の人事なども含めて方法論を考えないといかんのでしょうね。
 俗に言う、日本人の魂の脱戦後とか、近代化ってやつでしょうか
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近代化という言葉で終わっているが、どっちかというと価値基準の立脚・居場所による差異ともいえる。まあ自分が育った環境のメソッドが否定されたときに破損・破滅する人は、ここまで人生をやっているとやっぱり見聞きすることも多いわけで、その人たちに対し自業自得として言っていいのかとさえ思うこともあった。脱「戦後」というのは言いえて妙かもしれないが、近代化といっていいのかは悩む。

そう考えると、弟子と師匠という関係も悩ましいものがある。職工さんの下で修行する場合ひとつのキャリアに絞り込んで技を磨き、その中で上を目指して切磋琢磨していくという場合はまさに同じで、体罰が時に正当化されているというこまった場合もある。
ほらふき漫才の横山たかし・ひろしの師匠はかの横山やすしで、結成当初は師匠と同じ吉本興業所属だった。しかし、やすしは厳しい弟子修行(これ自体は他にもいる)以上に弟子にくらう「命の危険を感じた事もある」非人道的な暴力を当たりかまわずやっているので、周囲が見兼ね、先輩芸人である正司玲児が入って松竹芸能に円満移籍かつ弟分に引き取る形とした。(もっとも弟子には競艇の選手になったり、通い弟子だったものもいたため全員そのような目にあったわけではないが、言わないだけという話もあって・・・)ある意味漫才学校出身者は死ぬまで認めなかったといわれているが、これは養成学校の設立理由に自分の弟子への暴力が誘因としてあったといわれる事情もあったのかもしれない。このようなことをした理由はもっぱらやすしの性格といわれているが、一方人気者であった彼のところに結構来る弟子希望のなかで、プロでも厳しい打たれても打たれても付いて来る人物を選別していたという意見もあるらしい。それは、普通なら泣く泣くやめる人に対しては「早めの方向転換をすすめる」という、いじめが平気である世界のなかで生きて生かせるための逆説的な指導ともいえるらしい。しかし、彼の元を早く去って他の門下に入っってそれなりに成功した人も、横山たかし・ひろし以外にいたというのも事実である。

元々答えを性急に求めるということは、文化の否定と意図せぬ社会の階層化を促す、橋下市長の見方を感じてしまう。どう処理するのであろうか。一部の報道機関では、橋下氏は元々体罰は一定の範囲で肯定していたが、このような事情では否定するほうに動いたといわれる。ただしこれについては、元々口での説得による指導はどちらかといえば社会上層部の知性のある人材しか通用しないということを認識した上で、今までほとんど抜本的な矯正が口頭指導では不可能といわれる社会層に対してしつけるという、社会改革という事は覚悟しているようである。
なるほど、其の意図が知られるなら、知識層のなかに彼の改革を手放しで喜ぶ人がいるのは、わからんでもない。けど本当はこの問題に限っては途中から話が変わってきて、体罰の問題よりも「言葉の暴力」のほうに注力するべき話ではなかったのかと思う。体罰ができないといって言葉のほうで貶めて発情を促すというのは、ハラスメントとみなされ、体の損傷はないが心理的損傷はむしろ多くなる。勢い指導行為は全般に強くなり、自主性の発露がある生徒には公的な環境が出来上がる。

しかし、これは底辺層というか意欲もなにも育っていず、また先に意欲を育てる生活環境にない絶望の世界にいる生徒(これらがやはり公立学校に集まっているのが、昨今の都市部の現象である。(まあ、決して橋下氏も恵まれた生活でないなかで、意欲を持って学業・スポーツにがんばった事を思うと、そんなことはないぞといいたいだろうが。個体差はつきものである。)また、このような意欲はあってもスポーツなり特技なりで成功体験を引き上げることは、今の大阪の学校職員の仕事分担では、厳しいようである。実際学校のクラブ活動は公立学校の先生は人件費を手弁当で、休出してやってるぐらいである。
社会変革の意図として「口頭指導による社会にしたい」というのはには、荒海を漕ぎ出すような覚悟ならそれなりに評価できる。しかし、ロールモデルにするには貧困層に関する社会分断(このような都市部の貧困層については確かに共産党が強く意識して、支援活動をしているいる分野でもある)と、かろうじてスポーツで生きる可能性を殴られても得たいという引き上げなけれならない人材、さらには『自主性を出さない使われるプロ』を求める雇用状況への指導をどう求めるのか、というところまで見ると、更なるスラムを局所的に作るだけという悲観的な前途しか想定できない。
都市だけでない。郡部の経済的沈下が激しい地域はいま全国にあって、やはり生徒の選別が難しく(優秀な人を特待生などで招くことのできない)、こと人材や資金に限界のあるスポーツの強い「公立」学校にやはり、同じような問題が散見されるのは、公務員が甘えているとかいう問題以前の体制構築の問題は隠れていると思う。悲しいことだが、これが思想の自由・新自由主義経済の下での限界で、欧州のような身分固定化をさらに促すことになると私は嘆息する。

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