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畳の上の水練(2/4)

(承前)
元巨人の桑田氏はこれらに関して自分の経験・そして大学院での研究結果を通じて述べている。
問題は教育論として桑田氏は議論を展開しているのだが、教育論としては実に実直だと思う反面、社会の要求する資質(これは倫理的に全うかという話でなく、やむを得ず生きぬくためやるという生活権の問題)と見ると、受け入れられない人はかなり出てくるのではと思うのである。
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http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.html
「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ  2013年1月11日20時51分朝日新聞
 体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。

 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。
 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。
 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。
 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。
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数値的指摘は好感をもてますねえ。ただし、「体罰は必要」「ときとして必要」との回答をした人の母集団は何らかの形でスポーツで一定の成果を収めているから、アンケートに答えているという歪んだ母集団であり、また回答できる資質のある人が調査技術上この集団になってしまうということを前提にしたい。
わたしなら体罰はやるのも受けるのもいやであるが、ただ私の場合は(運動は才能なかったが)それ以外のものでカバーできたからたまたまかかわらなかっただけである。たとえばいわゆる勉強による学力でもその昔は学習塾ではできなかった生徒に心理的に罰を与えて、心理的にやってしまうという事例は決してなかったわけではない。それを比較すると、リスクをどうするという議論になってしまう。こう考えると、言葉による暴力もあったことが当該少年に対してむしろ問題であって、ソーシャルハラスメントとみなすことを体罰とまとめてしまっている側面がある。(これを上述した「ちきりん」氏は憂いているのだと思うし、私もこれは同意する。)
指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うのは2%いたとしても、のこりの98%にかけるというのが、生き抜く力・生存競争である。そもそも全うにスポーツをやっていても、故障でスポーツをやめることはある。その意味で失明したり大けがをしたりして選手生命を失うことは織り込み済みであるというのも多かろう。むしろこのような他律的理由なら、それまでの自分の経験は生き抜くことにとっては不利にならないといえる。
どっちかというと、耐え切れなくなって(身体的にも・心理的にも・それよりも能力的に)中途でやめることのほうが、人が社会で淘汰される中で生き残るのには「不利」に働きそうである。
つまりスポーツ界で成果を出す人材という意味、すなわち「スポーツによる人材育成」を目的として桑田氏は論じているのだが、スポーツは社会の中で手に職を持たせ淘汰に対して有利に働く資質を与えるという要求、すなわち「スポーツは人間の生き残りの道具」としてという認識が高い場合は、こういうモチベーションが存在し得ない場合もあろう。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれないとしても、その結果他の業界で、其のときの経験を胸に秘めて、自信を持つことで其のときの業務ができ「生きることができる」。それができるなら、少なくとも高校の時なら転進できるのではと。それだったら、野球の場合投手が体を壊した場合、会社勤務だったりしてたとえば指導層としてのかかわりということでとどまるなり(たとえば日本テレビアナウンサーの上重聡氏は高校野球や東京六大学で活躍したが、ひじの故障に悩まされ、大学4年時には主将を務めるもこの頃は思った球を投げられなくなっていた。プロ野球からも声がかかっていたが、自らその進路を断念しアナウンサーにすすんで、いまやそれなりのキャリアを積んでいる。)あるので、ひとつの目的は達成されるのではと思う。
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 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。
 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。
 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。(中略)
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私は、上下関係の構図は基礎的な立場ではなんら才能育成にならないという認識がある。そもそも、論理的な構築がされない段階で、ただおそわったことだけでやってけば、選手として推奨されるというものではない。暴力で子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易であろう。
コミュニケーションを大事にした「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」という、幾通りの指導法がある。私も(運動ではなくて別の技能指導であるが)活用しなければならない場面が多い。「この人にはどういう声かけをしたら、伸びるか」というのは時間はかかるがかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせる。
ただし実際のところ、この指導は限界を持つことがある。つまり「この人にはどういうアドバイスをしても、基礎知識がなくて、伸びるには最初からやりなおさければならない」が、ではやめるという知的な判断を下し懇切丁寧に伝えても、本人の意思がそれを許さない場合がある。資質はどうしようもないけど、ムードメーカーとしては大切でという場合は指導せずにともいかないし・・・万策尽きたという場合は正直ある。まあ私の担当分は個人指導であるからまだ当人の資質に帰せられるが、特にチームプレーが濃密な活動では厄介である。(あれ・・・技能指導でそんなのがあるのかというが、たとえばTPM活動(この場合は総合的設備管理・総合的設備保全。企業などにおいて、製造設備の保守管理を総合的に行い、設備停止時間の減少を目指し、生産性の向上を計る活動。過程で全員が参加し、動機づけ管理を推進。結果は不良率低減や設備稼働の向上で収益性向上と各自の利潤の拡大)などでは当人の認識は、繰り返す指導行為に解決策があり、また担当者の資質はパターン化で対処できるものの、そもそもなにやってるかわからないクラスの人が一定数いて社会的責任上メンバーからはずせないということが、やむを得ずできてしまうのである。
もうひとつは、繰り返し述べているようにスポーツ活動を鍛錬修練の場として考え、結果的に資質育成よりも他人の指示に対していかに従って動くことを旨にすることが、社会で生き延びる(成功するということは元から期待していない)ための便法という人が多くなっている集団の場合、これを強くすることで本当に成長することが期待できる人を育て、其の副次的目的として社会で生き延びるための便法という人の意識改革を、教育の現場という「短時間で」促すのは、一時的にカンフル剤を打つ(体罰に近い指導)にしか思い当たらない指導者もいると思う。こう考えると、野球やバスケットボールのような集団で行うスポーツでおきやすいものかもしれない。
もっとも、「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図が体罰を誘引しているかという側面はかなり可能性が大きいといえるが、これのみで語るのはきわめて無理であろう。監督が采配ミスをして選手に殴られるかは非常に疑問であるが(というのは、生徒が采配ミスを指摘し、監督が監督の役を果たさなくなるというモラール崩壊は逆に低位の運動部・・・ヤンキーという感じではなく、無気力でそもそも時間つぶしのために運動をしているようなもの・・・にこのような形で采配ミスによるお礼参りが時々あるとか)監督が采配ミスをして回りまわって(親御さんなどの突き上げ・学校経営側の問題で)職を失うという場合はそう珍しくない。そう考えると、殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めたというのはスポーツ界にとって大きな損失なのだろうが、こういうことは社会全体によくあることで(殴られなくても言葉の暴力、心理的圧迫であれば、枚挙にいとわないし規制もされない)、むしろスポーツ界以外の社会に対しては、そのような異業種経験を持つ人材が、若いうちにきてくれたということさえあるのである。
--------------------------------------再開
 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
 「極限状態に追い詰めて成長させるために」と体罰を正当化する人がいるかもしれませんが、殴ってうまくなるなら誰もがプロ選手になれます。私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」と言う人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。伝わるかどうか分からない暴力より、指導者が教養を積んで伝えた方が確実です。
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まあ、繰り返して言うが伝わるかどうか分からない暴力より、指導者が教養を積んで伝えた方が確実であり、私もそうしてきたつもりである。しかし指導者が教養を積んで伝えたとしても、相手が其の伝わるところを理解することができないという場合がある。(これはプロでもよくあることで、指導者が教養を積んでいないために指導者が選手をつぶすことはよくあることである。)このことは、「体罰を受けなかった高校時代に一番成長」したということは指導者の資質は当然あるが、それまでの(実は中学校のときなどの)知識で、基礎的挙動が身についていたことが前提であるのでは。(もっともそれが体罰ということではないが、なかには誘引となった低いモチベーションの人がいたのかもわからない)。其の上で高校で「自ら考える」環境を与えてもらったこと、また(彼の学校は野球では名門であるため相当の学生がいたことから)自分で、考えるということで差別化を他のメンバーに対し働いたことがあろうと思う。本質はスポーツを目指す動機と最終的モチベーションに関して、共感と相互信頼というものがそもそも作りたくても作れないというのが、極端に尖峰化したわけでなく、カリキュラムに「公益化」というものが付いて回る公立学校の限界ともおもっている。

桑田氏の意見は現場の指導法としての意識改革を持つという意味では、非常に当を得た指摘であり、少なくともトアスリートトップの指導能力を確立するという意識は高いと思う。また逆に自主性が育たない学生が周辺知識を学習できず、挫折した結果スポーツ以前に生活する資質さえないという元スポーツ選手の墜落は、高校生から始まっていると感じた事例も知っている。
かれらは必ずしもアスリートになろうとしていないということである。スポーツマン・ウーマンとして今後の生計を立てたり指導者(学校の先生も含む)としての活動をするということは、結果的にあったとしても(つまり体育大学の進学という場合もあるわけで)基本的に推薦入学やどの材料、または企業就職のために差別化という前提でスポーツを意識する事例では、そもそも目的意識がことなる。
其のときに指示されたことのみをやる。よい選手には頭からならず、判断力や精神力よりも体力と耐久力を求めることを社会が求めているという場合も、実は多いからスポーツの経験がある人を好んで採用するというのはやっぱりある。其のときに自立意識がある人が、社会において重用され有益な社会貢献をなすかというと、其の所属するコミニティーでまったく正反対な動きがなされるという印象を持っている。
特に軍隊においては、やっぱり其のような資質が世界各国において、標準化作業の名において下士官クラスでは重用されるようである。方針を決めてすすむという職場の方向性と、決まった方向性に対しどこまで磨きをかけていくかというのは、元から異なる人材をもとめるものである。特に団体競技においては理想論と認識している現実はあるだろう。よいスポーツマンになるのは社会のためという意識は、競技者に押し付けられないという現実に直面しているのである。
また、繰り返し考えれば、自殺した彼は「体罰そのもの」ではなく「体罰による精神的な圧迫と責任感」につぶされていったのであるとおもう。これを考えると、上意下達の体罰をいとわず、考える内容を社会への従事のために尽くすということに、スポーツ教育が使われていることに留意すると視点も変わる。
「スポーツは理不尽なものであり、そこが好きだ」という人もいる。どんなに努力しても天才的なプレーヤーには勝てない、一瞬の運で勝敗が決まる理不尽がある。「努力すれば必ず報われる」という聞こえのいい言葉は確かに効力があるかもしれないが、スポーツ指導の中では、ときとして問題を生じるともいえる。しかし其の理不尽により人生が変わってしまい引き返せないと思い込んだりすることもあるし、そもそも、「努力すれば必ず報われる」と思うからこそ、スポーツにすすむ人・支援する人が多いともいえる側面がある。これもまた、本来は理論に基づいた指導法が取られるべきスポーツにおいても、確定した結果をえることができていないから理論が確定したとはいえない恨みがある。(数値のごとく定量化することを望んでいる)そうなると根性論が理論に対して凌駕するという説明は、感覚的に理解できるのではなかろうか。(続く)

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