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畳の上の水練(1/4)

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桜宮高、スポーツ指導論を新設   2013年1月29日(火)17時58分配信 共同通信
 大阪市立桜宮高の体育系学科の募集中止を受け、市教育委員会は29日、体育系学科から振り替える普通科の新入生向けカリキュラムをまとめた。所属する部活動と同じ種目を学ぶ「専攻実技」と呼ばれる競技別の実技科目を廃止、体罰や暴力に頼らないスポーツ指導論を学ぶ「コーチングマインド(仮称)」など4科目の座学を新設した。体育に関する科目は旧体育系学科に比べ3年間で7~9単位減少。この減少分に新設の4科目を充てる。
体育科目、倍以上に=桜宮高の新普通科―大阪市教委  2013年1月29日(火)19時40分配信 時事通信
 大阪市立桜宮高校の体罰問題で、同校の体育系2科の入試を中止し新たな普通科として募集することを受け、市教育委員会は29日、振り替え分の普通科の新入生向けカリキュラムの骨格を決めた。体育は、体育系2科にあった専攻実技を廃止するにとどめ、既存の普通科の倍以上の授業数を確保した。 
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いままでの経緯を報道で聞いていて、なんだか参加するメンバーが意識の乖離を伴って会話にならない議論が延々と繰り返されるのに、いささか其の誘引となった生徒の自殺(・・・ご冥福を申し上げます・・・)に関しては法廷闘争になっているというのは、どうしたものかとおもっている。
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また、実技を一部割いて、スポーツ指導論を語っても高校生にとっては、理解評価ができず学生にはただ「覚えるのみ」になってしまうのではと思うのである。別に体育自体の授業数を皆無にしているわけでもないが、指導する立場の前に大概は教えられる立場というものがあるわけで、其の裏の立場を教授することが、この時点でどれだけ意味があるのかと必要なのかと思うことがある。

とはいえ、この短期の間にカリキュラムを作るとなればこれしかないだろうと思うのも事実である。スポーツ指導論自体はコーチング技術(これはたとえばのちのちの生活で学校の先生とか、また企業に当たっては管理業務の資質ということになろう)となることで汎用性を持たせるものになるとは思うし、無意味とはいわない。しかし体育科を目指し、そして体育科の生徒の資質をほしがっている企業や、生徒が進学する上位の学校にとっては、まったくアドバンテージもなく評価できない内容である。と思っている。
下記を見て、どうやら私がもやもやしていてたのに文章にできなかったことを代言してくれたのは、これなんかいい線かなと納得した。
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http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130127

2013-01-27 興味が持てない2つのニュース
(中略)もうひとつ。大きく取りざたされてるのに見る気のしないニュースがあります。
大阪、桜宮高校のバスケ部キャプテンが顧問から体罰を受け(というか、暴力をふるわれ)翌日に自殺した事件です。その後、橋下大阪市長や教育委員会の意向で体育科の入試が中止されるのどうのということになり、騒ぎが続いています。このニュースもいまいち関心が持てず、「なんであたしはコレに興味がないの?」と考えてみました。
ひとつはコレも「死者がでなかっただけで、教師による生徒への暴力は、もっとあっちこっちの学校で起こってるはず」と思われるのに、報道はこの一件のみに注目し「なんでこんなひどいことが!」みたいな話になってるからだと思います。一言で言えば、白々しいんです。(中略)
教育現場(特に体育教育現場)での教師による暴力の実態や、大阪の一部無法地帯化している学校の実態には切り込まず、今の時点で叩かれて弱っている特定の学校の過去のアラだけを、これでもかこれでもかとほじくり出したり、大阪における“めちゃな場所”が、どんだけめちゃか、想像もできないくせに、適当な対策を議論する、もしくは、その「めちゃな実態」の構造自体(→なぜどこの学校でも、暴力教師を起用してまでも全国大会で自校のチームを優勝させたいと思うのか、とか、大阪の公立学校って、上位ガバナンスがちゃんと働いてない学校が山ほどあるんじゃないの? それってなぜ? とか)を報道しようとしない。そういう報道にまったく興味がもてないんです。
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これについては、問題を矮小化してしまったという側面もある。短期的に学校に対して改革指導の道を探って、それが自力では不可能ということはわかった。問題は短期と長期の問題をごっちゃにしなければならないようになったことである。
私は、もちろん体罰をすることによってなんら指導効果があるとは思わない。最も体罰をするほどの覚悟を持って指導しているという認識を見せるということに体罰の価値を見出すという意見も散見されるが、これはあくまで発露が一般性のある視点を持って行われているということが、担保されないということから、否定されると認識している。ただし自我が未発達な段階で、社会との協調性のなかで個人がなじんでいく(これは自我か形成されるということでなく、自我を殺すことで社会的な存在価値がその人に与えられる)という視点を持っているなら、体罰というのも環境対応として甘んじなければならないという社会があるというのもまた事実と思う。それは知力も得られなかったし、社会のなかで上昇志向というものは、自分の得意なもので生かせるしかないというその公衆群の価値観ではなかったか。

1月29日 橋下大阪市長はTV番組での番組ホストとの対談に臨んだが、入試について『体育系学科が新入生を受け入れる状況にあるのか』という1点を見て、この処置を行ったといっている。そこでは
①体罰指導が発覚した部以外でも体罰事案があり、常態化
②体罰指導については現在も体育科在校生や保護者の多くが『是』としている
③運動部指導に関する校長や教頭のガバナンス(統治)は全く効かない
④体罰指導に対し教員の間に『これは間違っている』という認識がなかった
というのがこの判断事由であるという。この判断は筋が通っていると思う。
ただし、この問題に関しては学校が公立学校としても広域募集をしていることから、指導の方向性をある程度志向している人が固まっている側面がある。
この学校に通うことでで学生が「今後生きるために」得られるものが、体罰でも何でもいいからあらゆる「指導技法」を使って試合などによる上位入賞をえることを基点として、各個人に自信を与えることであって、その結果個人の自我を社会の中で形成させたり、また社会で有用な人材として扱われるようにいたいと、親御さんが信念を持っていることではないか。それに応じた指導をするようにするからこそ体罰をしてでも(それは教師としてリスクを犯しながらも)行う教師は、この母集団においてはひとつの信じるに値する価値があるとみなされる。成果を出すなら(生徒がいい成績を上げるなら)体罰指導に対し教員に『これは間違っている』という認識があっても、すでに来ている子供や親が考える、社会への子供たちのルーチンにこたえて、さらにこのような形で自信を与えて得たモチベーションのある人材が重用される社会がある。これを考えると、校長や教頭がトップダウンのガバナンスを利かせることは、ある種の社会的要望にこたえる上では反社会的であり、この学校の存在意義がなくなってしまうということである。そう考えると、上記のように中途半端なカリキュラムを作るなら(そしてこのようなカリキュラムなら他校を選ぶという形になるだろうが)他の体育科への在校生を含め移籍させ、学校の廃校を半ば強制的に行うというようなことをするべきであるが、それは個人の生徒に対する資質の与え方を政府が指示してる可能性も出てくる。
話せばわかるという議論は社会の姿勢では実に公平で、あるが、其の前提は「お互いに同じ知識・見識をもち、目的意識を最初から各個人が共通化している」という前提がある。しかし、このコンセンサスがない人間に対しては無力である。「話せばわかる」「問答無用」というのは生活信条として避けたくても避けられないし、またそれを強制的にトップダウンでおこなったら、今度は政治や治安活動にかんする忌避しか残らない。
つまり体罰を肯定し、またそれにより自我を形成させえる志向の人は、そのような私立学校をつくりそこに通わせればいいのだが、今度は体罰をするような学校では運動活動の場合全国大会を辞退する羽目になどという、はなはだ不本意な結果になる。
体罰はともかく、自我を育てるというより、自我が育たない人間を強制的な校則・校内活動などを通じて与えて自信をつけることで、自我がそれほど育たなくても社会で生きていけ、其の中で最終的に自我を構築させるように仕向けることを旨、うたい文句にした私立学校は、実のところ結構ある。(続く)

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