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畳の上の水練(3/4)

(承前)
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http://diamond.jp/articles/-/31261
体罰事件の背景にある体育会型マネジメントへの依存 橘玲 『週刊プレイボーイ』2013年1月21日
 大阪の市立高校で、バスケット部の男子生徒が顧問教諭から体罰を受けて自殺したことが大きな社会問題になっています。
 昨年は滋賀県の市立中学でいじめ自殺が起きましたが、日本では学校での自殺のほとんどが公立中学を舞台としています。ひとは誰もが生きたいという強烈な欲望を持っていますから、自ら死を選ぶのはどこにも逃げ場がない絶望の深さを示しています。
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 公立中学の生徒がいじめで自殺するのは、義務教育によって退学の自由がなく、また相手の生徒を退学させることもできず、いじめが未来永劫つづくように感じられるからでしょう。高校になるといじめ自殺が起きない理由は、いじめられた生徒が転校や退学するハードルが下がることと、問題のある生徒を停学・退学処分にしやすいことで説明できます。現状をすこしでも改善できる希望があるのなら、誰も死のうとは思いません。

 そう考えると、高校の部活動で自殺が起きるのは不可解です。死を考えるほど思いつめる前に、さっさと退部してしまえばいいからです。それでも今回のような事件が起きるのは、退部できないような強力なちからが部活動に働いているからにほかなりません。
 マスメディアは顧問教諭の体罰を問題にしますが、かんたんに退部できる環境であれば、体罰を振るわれた部員はみんな辞めてしまうでしょうから、自殺のような重大な問題にはつながりません。逆にいえば、生徒を精神的な監禁状態に置くからこそ、体罰による指導が可能になるのです。
 今回の事件では、強豪校の運動部が聖域になっていて、校長すら安易に口を挟めない実態も浮き彫りになりました。OBや父母のなかには、顧問教諭を「指導に熱心な先生」と擁護する声も多いといいます。「体罰=悪」は社会常識ですが、運動部は一種の治外法権だという意識がそこからは感じられます。
 ライバルを倒して勝ち上がっていくためには、自己の限界を超える過酷なトレーニングを課さなければなりません。そのためにもっとも効果的なのは、恐怖や暴力によって生徒を洗脳し、指導者への絶対的な服従とチームへの献身を叩き込むことでしょう。こうした洗脳が完成すると、退部は自己を全否定することになり、指導者や仲間の信頼を裏切るくらいなら死んだほうがマシだと思うようになります。
 この問題の本質は、日本の組織の多くがこうした「体育会型マネジメント」で成り立っていることにあります。日本の会社が、自己責任で行動する近代的個人よりも上司の指示どおりに動く「体育会系」を好むのは周知の事実です。上司より先に部下が帰ることは許されず、サービス残業は当たり前で、パワハラによって上司が部下を精神的に支配することが「管理」と呼ばれます。
 だからこそひとびとは、この問題を顧問教諭の体罰に矮小化し、その「指導」を擁護する声に耳をふさぎます。事件の背景を追究すれば、日本型組織に依存する自分自身が批判されることに気づいているからでしょう。
 このようにして、個人への責任転嫁とバッシングで事件は風化していくのです。
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私が同意するのは、「個人への責任転嫁とバッシングで事件は風化していくのです。」だけである。他はかなり問題ある意見であると考える。雛形としてきれいに論理構成ができているところに、この執筆者の説得能力のいい腕を見るものである。けど私は賛同しない。

まあ、いじめが未来永劫つづくように感じられるのは、受けた当事者もいじめに対してどう対処すればいいのか頭が回っていかないということである。国際政治でもそうだが、相手の理性を破損させたり金づるにする方法を「理性的に」考えたら、弱いところを突いて回る。別に高校になるといじめ自殺が起きないことはなく、いじめは少なくとも社会的にはどう考えても存在するし、これがすくなくともないと思われる「原始共産制」とて個人の資質の差がある以上のかれられない。社会生活で統制を取る以前に、一緒に生活するという前提自体いじめは表裏一体のものであると考える。(サル山でも同じ事は起こるわけだ)
体罰でも精神的にハラスメントが起きたとしてさっさと退部してしまうことは、私はあるべきと考えるのだが、特に其のスポーツをやりたいという意思や、過去の経緯からそのスポーツを辞めたら何も残らないということも当人にはあるだろう。(別に述べるがAKB48メンバーの丸刈りの一件は、これに近い着眼点をしうる。)この見方をすると退部できないような強力な今までの蓄積内容を考えることが、退部できないような強力なプレッシャーになっていたのかもしれない。少なくとも、成績至上主義というものが運動活動にあって、また、社会へのこの生徒の成り立ちが精神的な監禁状態になっていたと私は見ている。つまりたまたま体罰による指導がトリガーだったのだが精神的な脅迫観念というもの自体が要因と考えるべきである。
上記文章にも、OBや父母には、顧問教諭を「指導に熱心な先生」と擁護する声も多いようである。そこで『「体罰=悪」は社会常識です』と上記の記載にはあるが、体罰という禁じ手をつかって、事故なりあって(事故で損傷したりしても)、其の中で生き残ったものは、資質が高い人材として「這い上がらせたい」ということになっている。順法意識というものが、実態に合わないと考え、『「体罰=悪」は社会常識』ということを否定することであっても結果を出すことを求めている。
ライバルを倒して勝ち上がっていくためには、自己の限界を超える過酷なトレーニングを課すだけでは、高度な競技者レベルでは不十分で、問題点分析などの思考実験も必要である。しかし、自己の限界を超えるには指示とか指導とか、はたまた強制とかという立場におかなければならない。指導者への絶対的な服従とチームへの献身は特に団体競技ではこのよりどころになる。そして、自己の限界を高めることに苦痛になってしまうとき、逃げ手がなくなることがある。
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ただし、こういうことを言い出すと、中堅高校の大学への進学者が多いところで行われる教育に関しては自己の限界を超えるには指示とか指導とか、はたまた強制とかという立場におかなければならないのに類似する側面もある。そしてこのあたりのいわゆる優秀な大学への進学に関しては、最初から「意欲の高い生徒」(苦笑)を選んで自主性を保つ放任主義の雰囲気で成果を出している場合と、むしろ「意欲のそこまで高くない学生」だが今後のための考慮から進学したいといった場合にかなり強制的なカリキュラムを組む場合が拮抗していることも知るべきである。この進学校の場合、後者は(失敗した場合のリスクも高いこと、また主に他の人との差別化からか)私学が多く、またドロップアウトした場合の転校・転科という手段が割りとあるだけ顕在化しないが、実際は同じような自虐自暴に陥る例は潜在的に非常に多くある。つまり、体罰という人権問題にかかわるものであるという視点が先に来ているが、実はこの問題はハラスメント問題のほうが大きい。
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ところで、日本の組織の多くがこうした「体育会型マネジメント」で成り立っていると彼は言っている。ただ、実は体育会型マネジメントでなければ、階層性社会が固定するという場面が実はあるから、これを援用すると私は考える。
欧米では、体罰やハラスメントがないかというと昨今は体罰は否定されてきた。しかがハラスメントというのは、人種からみで山ほどあり、大概は上流層は表向きはしないが机の下で足をけりあっているごとく潜在化している状況にある。そして下流層はやっぱり時々露骨にこの問題が顕在化することがあるわけである。これらの差別感覚があって、アメリカに人々が移住し始めあのような混交して、アメリカンドリームというものを掲げる素地を得たのであるが、ではアメリカにそのような階層化がないかというと流動性はあるが、ないとはいえないわけで「セレブ」という言葉が揶揄の対象になるということになることを考えるとこのことはないとは得られない。
元々日本でもこのような階層的視点は強かった。江戸時代のことを考えればそうなるべきだし、その後企業のみならず社会においてもこのような階層性は戦前は温存された。しかし軍隊でも学問でもある段取りを踏めば、この階層性はクリアできるという視点が出た。
「拝啓天皇陛下様」という渥美清主演の映画(原作は小説である)があるが、これを読むと「不況下でも三度の飯が食え風呂にまで入れる軍隊はまるで天国だ」と認識している主人公が出てくる。同じことは飛行機工場に徴用されている職工が、学徒動員の学生に「金持ちでも貧困層でも兵役においては同じ食事を食べることができる」と繰り返し言っているという話がある。つまり、社会の平坦性を担保するために「体育会型マネジメント」が戦後も生き残ったというのはあろうと考える。日本の会社は自己責任で行動する近代的個人よりも上司の指示どおりに動く「体育会系」を好むというのだが、これは創造的業務を行う必要に駆られた企業は其の部門は「体育会系」でないものをのを望むし、維持管理的な細かい改善クラスを望む部署は「体育会系」を好むということと私は理解している。そして、サービス業のうちたとえばリテールサービスなどむしろデイリーの業務維持が業務内容を支配する業態が増加すると、管理部署はクリエイティブ系が多くても、結果的に現場に近い部門は「体育会系」を求めるかそのような人だけが残ってしまうわけで、ますます体育会系(≒筋肉系)のニーズが高まっている。
また、むしろ業務に「過去からの踏襲」「変化を起こすと黙って逃げる客層(これは海外の日本人相手の業種で、クレームなどがないのに口コミだけで客層が消えてしまう、他国とは異なった現象を言っている)」このことは上司が部下を精神的に支配する「管理」があるが其の反面、部下が其のうち上司の社会的位置に座るということから正当化される。
その意味では顧問教諭の体罰に矮小化し、その指導を擁護する声は日本型組織運営の由来であるが、得失を本当に確認したうえで判断すると、マネージメント体系が全然異なり、だからこそ拾い上げてもらったという人がいて、そのことを感謝することをどう扱うということになる。欧米でのスポーツ人材育成においては其の個人の資質により作られるということはあり、今回そうであるべきという側面が言われているが、素養があってもまったく誰も注目していないという人材に関して掬い上げるという機能をもともと、軍隊経営を基にした日本型組織運営がもった(というか徴兵では資質のない人も混ざるため、自律的に出来上がった)ということになるのかもしれない。
こういうことを考えると、社会の層化が問題になっている中で、体罰を理由にしての学校閉鎖はともかく、社会のニーズに合わせた形でこのようなトップダウンでの指示での改廃を行うことは、考えることを突き詰めると生活基盤を失う所得層に関しては、単にモラールの低下と、貧困層の固定化という側面も無視できない問題になるということは、強く憂慮する必要があると考える。
本当は多様な人事を容認するように転部・転科を認め、かつ才能があるものを取り上げる選民教育として体育科を位置つけることで、期待する効果が得られ、反対に才能を伸ばしたいがあわないという人は無視されるという階層間断絶を促すことで、問題解決が図られるのではとおもう。けどそれはスポーツというものの社会の要求、羨望、期待をなくすということと表裏一体である。(続く)

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