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リーダーシップというもの自体方言があるもの

年末に買ってあった、「採用基準」(伊賀泰代著)を読んでいる。
http://www.amazon.co.jp/%E6%8E%A1%E7%94%A8%E5%9F%BA%E6%BA%96-%E4%BC%8A%E8%B3%80-%E6%B3%B0%E4%BB%A3/dp/4478023417
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マッキンゼーの採用マネジャーを12年務めた著者が語る
マッキンゼーと言えば、ずば抜けて優秀な学生の就職先として思い浮かぶだろう。
そこでは学歴のみならず、地頭のよさが問われると思われがちで、応募する学生は論理的思考やフェルミ推定など学んで試験に挑もうとする。
しかしマッキンゼーの人事採用マネジャーを10年以上務めた著者は、このような見方に対して勘違いだという。
実はマッキンゼーが求める人材は、いまの日本が必要としている人材とまったく同じなのだ。
だからこそ、マッキンゼーは「最強」と言われる人材の宝庫の源泉であり、多くのOBが社会で活躍しているのだ。
本書では、延べ数千人の学生と面接してきた著者が、本当に優秀な人材の条件を説くとともに、日本社会にいまこそ必要な人材像を明らかにする。(後略)
---------------------終了
まあ、筆者もそう思っていないだろうが、そのまま判断能力もなしに読む人を、筆者は期待していないだろう。
題名とは偽りあり、むしろ「いい意味での」釣りである(筆者の責任とはいえないが)。実際には副題の「地頭より論理的思考力より大切なもの」が言いたいことである。まあいいたいことを広めるに適度な振りは必要かもなあと私は思っており、許容範囲だろうが。
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リーダーシップに対する日本と欧米の捉え方の違い自体を述べ、どういう行動がリーダーシップとなるかを細かく解説している。あくまでマッキンゼーが欲しいと思う人材像というポジションで話を進めているものの、自分が日本企業勤務からの履歴・一部の挫折を通じて(実感を伴った)内容で話が進む。だから其の議論の具現化は各自の環境による「自分で考える」ことであると投げられており、文中の示唆についてはされるものの必ずしも答えを示していない。答えをこれで求める人は読者として認識していないということで、執筆者の意図が見事に示されている。もちろん筆者は学校卒業のあと試行錯誤の果ての、自分なりの結論ですべてを構築している。

このように、知的生産を行っている人間にとってはこういうシステムや考え方が参考にしなければならないと思われる項目も多い。特に、私のように独立コンサルとして仕事をしたことがあるものにとっては(其の方針が自分のビジネスモデルには入れられないというものを含めても)この視点は大いに取り入れなくてはならないというものである。反面、企業再生(いわゆる第二創業)にかかわるコンサルを一時やっていた人間としては、賛同することと賛同してはならないことが合い混じるところも混ざっている。
また極めてわかりやすい表現方法(この説明の巧みさは、彼女のコンサルタント技術の高さを示しているともいえる。)をとっていることから、一読する価値のある書籍には違いない。
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賛否あることを前提として言うが、「意識の高い学生」が読むと、彼女が理解を促すために取った「ポジショントーク」の内容を大いに読み違う可能性がある。
この本については多くの人が読後評を出しており、最初はおおむね私の考えているところと近いなあと思っていた。しかし其の意見の発信者をよーく見てみると「会社員をやっていたりしたが、結果的に自営業で活躍しており、現状の社会に不満を持っている」という姿勢を強く持っている人ばかりの発言が多いと見える。実際はリーダーシップは企業の構成員がおおむね持っていなければならないと筆者が提言してながら、翼賛的意見を持つ人がほとんど独立や「お山の大将」的な動きを愛する人が支援している声ばかりで、本当に問いかけたに其の運用の是非について、言う発言がまたこれほど少ないことに対し、まずいなあと思っている。
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日本的な意味合いをはずしても、知的生産性を持つ企業において全員がリーダーシップをとる意識を持つというのは、少なくともシンクタンク・など定性的事務項目が価値創造に関わる事が少ないという事業体では理想的であるし、国内でも(筆者が言う日本の大企業で劣化するような環境にある人)においても本当は保持されなければならないのである。
よく、「船頭多くして船山に登る」という言葉をいう。(指図する人が多過ぎるとかえって統率がとれず意に反した方向に物事が進んで行くことの意。船頭は乗組員が複数いる場合の船長を意味とする。) しかし、採用したいのは将来のリーダーだとしても、リーダーシップは常に構成員全部が何がしらもっていなければならないことを彼女は訴える。本意は、おのおのが其の認識を共有化しているからこそ、この部分はこの人がというパートパートのリーダーシップを求めるような設定があってはじめて、共同作業による業務の資質の向上が企業内で高められるということである。
実は、知的認識がある程度融通無碍に得られる社員の集合体では、このチーム作成は効果的であると思う。たとえば学会とか、専門家のサロン等で組み合って仕事を成し遂げるなかでは、本当に企業体の上下関係は無駄であるし、このシステムは、資金の融通がとれるなら有効である。(また、意思があわない人材に関しては仲間からはずすことも可能である)
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ところが、大抵問題になるのは、問題解決を行うということができることが定まって、このようなフレキシブルなリーダーシップを組んだ場合とて、ほとんどの場合は運用するべき現場への説得というほうが問題である。そして、これが軍隊でもそうだが階層的組織でなければ実際成り立たない場合が多いようである。創造性を評価する組織は、現実に業務の要請にこたえようとすると、階層的組織に対し納得できる答えを訴求できないということがままあるようである。
こういう組織特性を考えると開発的志向を持つ部門と、現物を扱う製造部門を完璧に分けている企業がある。(本田技研工業と本田技術研究所の関係がこれに近いようである)こういう場合だと、開発部門から製造部門へのつなぎを担う人材もいる場合もあるが、往々にしてデスバレーになってしまうほうがおおい。同じような意識改革のデスバレーがある。
そしてさらに最近あるのは、マネージメント上トップの意識付けでリーダーシップをとる行為は企業経営として重要であるはずだが、それに対して、企業人として帰属意識を持つより業務への変化とアイデンディティーの保持が伴わなくなる事から、リーダーシップに対して速やかに退場して、結果的に既存の業務を続けることができないという形で、静かに逃散してしまい、業務自体が破綻するということもあるようである。
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また、コンサルやシンクタンクにおいて考える行為に対してリーダーシップを図ることと統制的な行為が伴わないことが、結果的にはデータを取得するスタッフ的な業務の評価を陥れてしまうことになったり(つまり専門職としてのサポートスタッフがリーダーシップ意識を持っていることでスタッフとして踏襲する業務の意味合いを否定する)、この結果組織員全体のモチベーションを失うことで、結果的に仕事の品質を低下することもある。
つまり、階層構造じたいが社会にある場合、考える人とそれを実践化するする人は頭から職分の違いがあるから、モチベーションの落ちようはないのだが、元々ここがシームレスだからこそ成り立つ企業体の場合は、企業体の成果を落とすだけとなる場合がある。
そういえば、資本家・出資者が当初から存在せず、協同組合的事業から始まった結果、合議方の経営トップが支配する純民間企業というものが、投資資本形成が平坦化した日本には他国に比べ多くあるが、こういう企業ではトップダウンによる改革が行われることで、企業体の意欲・資質を厳しく損傷することがおこる。ただし、社会的要因で改革をすることができないといっても、残存者利益を獲得する以外は、形をかえて存続することより、企業整理という形をむしろ社会も社員も求めていることさえある。(この本では経営者の側では企業の経営の永続性を求めるというのがタスクであるといっているが、ピケットラインを張る示威行為もなく、逃散行為や消極的忌避活動を用いて実質企業整理になるということが、社会の中から認めさせられることがある)
社会の永続性と企業の永続性の比較で社会の永続性を求めるというのは、時に貧困であっても「みんなが一律に貧困になる」ことを求め、それなら社会が安定化する倫理観とムラ的な現実に由来する、感情的な問題になる。企業所属者は企業の存立価値を向上するのは責務であるが、それが個人の社会的価値や意図するもの(倫理観という場合もあろうし、賃金などの対価という場合もあろう)との優先順位は制御しようがないからである。
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基本的に知的生産性を求める組織にとっては伊賀氏の提唱するシステムは理想的である。しかし、これはビジネスモデルにおいて知的生産性を求める組織に対しての対応であれば対応可能であるが、物理的生産性をある程度硬直化した社会通念を前提とした社会・機構で行なう場合は、其の社会機構を壊して再生不可能な形になることがある。そして、社会階層が断絶することができるだけ否定される日本(韓国も似ている)では、隠密にこのシステムを提供しないと、トップ意思や方針を黙殺するか無視するという最悪の状況になると考える。(韓国の場合は、トップが意思をひきつけるために「にんじん」をたくさんつるしているから、今の段階ではできているだけで、これはなんらかのたがが外れるとすぐ崩壊し、長幼という階層社会絶対化に戻ると私はみなしている。)
マッキンゼーは「最強」と言われる人材の宝庫となったが、それをつぶすことで利益配分の増大など利得を図る存在があるということで、結果的に最強とならなくすることを、企業自体でなく社会の同質性から求める場合もある。いやすべての企業活動は社会性のなかなら峻別される状況では、「最強」と言われる人材をつぶしていくということが正義になることがある。
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筆者の渾身の作品である。だからこそいい示唆を得た。
しかし「一人勝ちはゆるしまへん」という階層的に平坦なな日本社会では、誰しもリーダーシップがあるというのは詭弁になってしまうだろう。リーダシップという能力がすべての構成員が高くても相対評価であくまでみるしかできないのである。そのなかでどう使い分けるかという見方を持って、場面を使い分けるならこの本の内容は本当に使える中身だが実はそこに多くの人が日々悩んでいると思う。本当なら読む人を一定以上のエグゼクティブに見にするべきだったのでは(それでは出版しても利益が出ないが)とさえ思う、高い判断能力を持つ人に限って読むべき、隠れた難しさがある本である。

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