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大量消費化される譜面

そういえば、こういう歌がでている。
ボカロがライバル☆ 吉木りさ(2012/8/22発売)
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というのは、先日TBS「情熱大陸」に作曲家の前山田健一が出ており、この時に吉木りさプロデュースの模様をかなり時間をさいて放送していたからである。

レコード会社がYOUTUBEに投稿しているものも有る。

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まあ、吉木りさは所謂大学生アイドル(で世に出た)だし、アニメ声だしあんまり頭よさそうでないしという意見も仄聞するが、TVなどを見ているとあんまりネガティブに考えないというプラス面を、そのように見る人がいるのかもしれない。まま控えめであるが話を振ると結構当を得た、仕切りを心得た対応をしているが其のレスポンスは年相応の姿を見るので、振る舞いを心がけたバラエティー向きの方のようで、まあがんばってるほうである。
実は民謡から演歌の訓練をしているらしく、案外音程と音量が取れている。唄自体は腕はある(口でうたわず腹から声を出している)のだが、どちらかと言うと口頭でチューニングするアニメ声では、発声法のマッチングはもともとうまくいかないという感じがする。むしろ本来の歌唱はカップリングの「永久星座」で感じることが出来る。
かなり前、浜松町駅の前(要するに文化放送ラジオのお膝元である)を通ったら、人だかりをしていた中彼女がいたというのを見た記憶がある。美人かどうかはあまりにも遠目で判断できなかったが、声が良く出てるなあと思った。(Destin Histoireと言うアニメの曲だとおもうが、ここは記憶がない)
※ふと気にしたのだが、吉木りさと菊川怜って骨格と嗜好が似ているのでは。

他方、前山田健一(と言っても若い人に通じない)すなわちヒャダインの楽曲(作詞・作曲)である。各々のさびが同じ音が続くので思わずモールス符号かよと突っ込む感じのものである。実は音域がせまいが、転調がとても多く、音域がせまいアイドル系の人でも必死で練習すれば歌い手はなんとかなるというところが前山田健一の作には多い。実際には演奏とかを主としない作曲姿勢(彼は「打ち込み」というPCのプログラミングとデジタルシーケンサーを駆使した作編曲を行っている)の癖が出ているのだが、この音域のせまさと転調の多さ(ある意味今までの楽器での演奏を想定していない)テンポの刻み方は、音域がせまい歌手でも、転調に抵抗感がないなく、しっかり練習すればそれなりのレベルに達しやすいと言う感じはする。他方これをオーケストラで演奏するのは、かなり難しいと思う。
歌詞はどっちかというと森高千里のような歌詞(有る意味散文的で、なじみやすいが重みがないからこそ存在があるという)なのだが、曲調から考えてこのぐらいの軽さのほうがバランスがいい気もする。
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こうならべると、『吉木りさはいいのう、前山田健一はくだらんのう』という、滅多切りかいと、これまでの表現を見て思う人が多かろうが、どうも頭から前山田健一は楽曲を消耗品として客先に調整し使いつぶすことを是として、活動をしていると言う感じがする。楽曲に娯楽性を強く与え、メッセージ性などをまったく求めないことに徹している。また「こういう形の発注」というせりふを多用していることを考えると、作り手がイニシアティブをとる芸術作品ではなく、聞き手・ユーザーが如何様にも解釈するものを提供する工業製品を作りこんでいるという中間加工業者・加工卸に徹しているといえるのでは。そうである、リミックスから入った人だと生業かもね。
だから彼の評価は個々の楽曲と言うより「楽曲群」という形、むしろ家内制手工業で準量産をしている電子音楽群とみなすほうがいいと思う。もちろん芸術としての作曲より、量産による娯楽・プレゼンを強くという形はかつての映画などでは市場もあったので、まったくないビジネスモデルではない。たとえば類似領域のつんく♂においては、いくら自分の音楽性やスタイルがあったとしても、売る側の都合によって変えさせられてしまうので、音楽においてポリシーや信念などは持たないようにしているという趣旨をうたっていると聞く。

ただし、本人も気にしているのかもしれないが前山田氏は、あくまで消耗品を一式請け負いで作っているという確信を持っていることから、将来ついていけなくなることを自分でも覚悟しているのに、そのリスクを逃れる方向にまだ持っていっていないこと、本当に作曲者の方向に行くよりも演奏家・アイドルのプロデュースの方向にご来光ををみるのかもしれない。どっちにせよ職人肌である彼には時流に乗るという器用な動きで腐心するよりも、良くも悪くも小室哲也の位置が似合っているのかもしれない。
では世の中のクリエーターのなかで・・・と言ってもどうしても製造業と言う見方を私ははからずしもしてしまうが・・・量産先行のような市場訴求型の製品(アドバンスモデルと呼んでおこうか)を提案する技術者が存在価値が高いのか、其の後の普及モデルに落とし込むのが存在価値が高いのかというのは、本当は守備範囲が違うだけであるし、同時にこの2つを達成できるということは実際のクリエーターではまずむずかしい。しかし、市場はこれを両方得るものをほしがって、たまに萌芽を見つけるとあがめ、最後につぶすと言うルーチンをたどる。本当は前山田氏は、一式請け負いで作っていることを売れなくても一生、こまごまとやって中庸を得た収入を望む形ではと思うのだが、この中庸を得た収入というのが又むずかしくて。
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そういう意味ではこの人はティッシュペーパーのように厚みがない音楽を図って、内部完結して作るが、ティッシュペーパーでなければ入れない隙間に挟まっていたり、ティッシュペーパーだから社会のちょっとした煤塵をキャッチして見せる存在である。(ティッシュペーパーは第一次世界大戦中、不足気味の脱脂綿代用品・ガスマスクフィルターとして開発したもの)こういう分野は成果としての人物評価が実態以上に低くなりがちであるが、(世界ではニッチとはいえ)ちゃんと成立する分野があるつこと自体が、大衆音楽に色合いと厚みを与えていくと考える。

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