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「ボラティリティの概念」は「安全安心の社会」を否定する

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%96から
ナシム・ニコラス・タレブは、随筆家、認識論者、研究者であり、かつては数理ファイナンスの実践者だった。金融デリバティブの専門家であり、金融業界の有名人である。ニューヨークのウォール街でデリバティブトレーダーとして長年働き、その後認識論の研究者となった。主に、理解していない世界でどのように暮らし行動すべきか、偶然性と未知のことにどのように真剣に取り組むか、などを研究しており、予期しない稀な現象に関する黒鳥理論などを提唱している。また、2008年に始まった金融危機の後で、"Black Swan robust society" を立ち上げ、活動している。
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どうも読むとエキセントリックな理論提案をしている人のようだ。
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彼の懐疑主義は、科学的知識が通常は役に立つものの経験的観測からは稀な事象が必ず発生する確率を計算できないという点(黒鳥理論)で語っている。過去のデータを合理的に説明することの価値を過大評価し、データ中の説明できない無作為さの影響を軽く見る傾向があることを指摘している。これは猜疑心の段階であるのかもしれないが、現代世界では過去のデータを合理的に説明することによりすべてのシステムを構築するから、それがあまりにも複雑系の低い予測可能性と関連した相互依存の影響が強いと、壊滅的な破壊が生じると考える。

 この人にNHKが聞いたものがある。(今は削除)これをここで引用しているのでちょっと使ってみよう。
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質問:福島の原発事故は、ブラック・スワン的な事象ですか?
ブラック・スワンか否かは立場によって違う。七面鳥にとってのブラック・スワンは肉屋にとってはそうではない。福島事故は、人間にとってはブラック・スワンだが、自然の中では周期的な出来事だ。しかしこのように非常にまれな出来事を想定するとき、人はその確率を過小評価しがちだ。資本主義は、リターンを受け取るものがリスクも負うときはうまく機能するが、高い防波堤を建てることによる利益がはっきりしないと、津波の確率を低く見積もるインセンティブが生じる。事故が起きたら、会社が確実につぶれるというペナルティが重要だ。
質問:リスクは測ることはできますか?
非常にまれな出来事については期待値も分散も計算できないので、従来の統計学的モデルによるリスク推定は使えない。こういう問題については、発見的リスクと私が呼んでいる方法を使うしかない。これは試行錯誤で経験に学ぶ方法だ。
ファイナンスでいえば、AAAのはずの債券がジャンクだったら大変なことになる。こういうことが一度でもあったら、確率とは無関係に最悪の場合を基準にして行動すべきだ。リスクを管理するモデルが誤っているというリスクも考える必要がある。最悪の場合を考えたら、原発の建物はもっと頑丈につくるべきだった。それが経済性に見合わなければ、原発そのものを放棄することも一案だろう。東日本大震災のような怪物的なリスクを事前に予測することは不可能であり、前例は参考にならない。
質問:著書で「日本人はランダムネスの扱いがへたなので、人々はボラティリティを避けようとして破滅(blow up)をまねく」と書いておられるのは、どういう意味でしょうか?
それが福島で起こったことだ。日本人は小さな失敗をきびしく罰するので、人々は小さくてよく起こる失敗を減らし、大きくてまれな失敗を無視する。アメリカは小さな失敗にも大きな失敗にも寛容だ。
私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。カリフォルニアには“fail fast”という言葉がある。いかに失敗するかを知っていることが、ハイテク企業が生まれる理由だ。日本人は既存のフレームの中では問題を受け入れるが、そのフレームを変えようとすると、失敗を恐れる。
私の本の中で二つのペイオフを論じた:一つは、日常的に小さな利益を得て、大事故ですべてを失う――これが福島事故だ。もう一つは、普段からボラティリティ(ボラティリティ:広義には資産価格の変動の激しさを表すパラメータ)が大きいが、破滅的な事故は起こらない。 『ブラック・スワン』の新版では、ボラティリティを恐れることが世界を脆弱にしていると論じた。自然はボラティリティをもっているので、それを抑圧すると爆発するのだ。(中略)
質問:日本は想定外の出来事にどう対応するべきなのでしょうか?
ボラティリティを恐れないで、破滅を恐れるべきだ。ローマ人は「揺れる船は沈まない」と言った。小さな変動は望ましい。危ないのは、それを人工的に抑圧することだ。バブルの崩壊は、こうした問題の先送りによって起こる。
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まあ、引用を又引きしたBLOGの意見はそれまた分からなくはないが、一意賛同できるものでない。私はちょっと異なった視点を設けた。
日本人は小さな失敗をきびしく罰するので、人々は小さくてよく起こる失敗を減らし、大きくてまれな失敗を無視するといっているのだが、小さな失敗を多重に重ねた行為が大きくてまれな失敗のトリガーであると考えているのではと思う。大きくてまれな失敗を無視するということではなく、そもそも想定が出来ないため議論対象にならないという積み上げ算になっている。一般的には計画・設計の段階で失敗を排除するが、其の計画で大きくてまれな失敗を想定することでの対策はしているが、そもそも想定できない以上、単に恐れるだけになるわけで、単に信頼性を意図的に落としただけにしかならないと思う。
いかに失敗するかを知っていることは、製品設計の中では非常にスキルが高い行動であり、ハイテク企業が生まれる理由だというのもそうだが、産業全体に必要なことである。その意味では正鵠を得ているのだろうが、失敗自身は評価されても、失敗を受ける人間は想定していても想定外でも、新しいことを発見したことに対しなんら利得を得ない。小さな失敗が設計意図だとしたら既存のフレームの中での問題でないので強硬に非難することになるのだが、ここが「無言の悪魔」なる日本人の特性が生じる。非難するよりもよそのニーズに逃げたり、ネガティブに市場収縮がおきるのである。小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのは担当者の利得であり、利得を得るものと利得が得られないものがあることを極めて不振に感じると考える。
自然による産業構成や思想は基本的にフラつきを持っている。失敗というのはさらにフラつきを増大させるものである。制御し平滑化ができないから、自然を相手する産業を出来るだけ排除するように人々は逃げてきた。自然はボラティリティをもっているからこそ、できれば忌避したい対象である。(農業がいまいちぱっとしないが、計画が出来る農業(高原野菜などの単作農業は販路などに確実性がある)や植物工場(コスト高でも確実性の高いものが出来る)はそこまで人気がないわけでない。)自然はボラティリティをもっているのは分かるが、それを抑圧すると爆発するなら、自然に係わらないように生きることでボラティリティを最小限にする嗜好を日本ではもってしまったのであろう。
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ちょっと異なった例だが、特殊ナイフをもって繁華街で大量殺人を起こした事例があるが、包丁が元で殺人事件が起きるほうが実際にはずっと多い。しかし、特殊ナイフは制御しやすい要素で事実そういう形に禁止令がでたが、包丁はどこの家にもある制御しにくいものであると考えるため、本質的になくすと言う策はとられないと思う・・・のだが、「意識の高い」地域によっては危険忌避の面から管理の必要性を減らすために、魚はカットしているものしか買わない(さらに其のカットも自動機によるものに移行し始めている)とか、野菜は高価でもカット野菜に限ることで、包丁を厨房から排除する傾向があるようだ。(それだけでもないが)以前なら考えないようなところまで細かい要素をつぶしこむことで大きくてまれな失敗まで押さえ込ませようと言う発想をだれの指示もなく、きわめて自然に移行するということを、できる範囲で静かにやってしまう。けど想定できない要因が又湧き出てきてゼロにはならないのだが。
小さな変動は継続的問題提起には望ましい側面があるが、想定できる小さな変動は既に余裕代として組み込まれたらすでに小さな変動は変動とみなされないし、もともと生き方の理想がボラティリティを最小限とすること(これが安全・安心の社会と言うことでも有る)と言うことに強く貪欲な社会においては、資産投資についても慎重となるわけで、そのフレームを変えようとすると、失敗を恐れるというより、失敗を吸収する行為自体から回避・迂回・廃却に向かうということではと思う。
高い品質だが品質がふれる製品よりも、品質が低くても一定水準から離れない製品を求め、これをさらに社会に有効なものにするには其の品質をじわりじわり上げていくし、其の差分をもって生活の価値を見出す社会を創っているわけだ。欲望を持たない生活目標を構築することが、事故を防ぐと言う論理的感覚がつかみにくいものが提言されることになるのである。つまり、自己矛盾がやぱり起きていることになっているわけだ。
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ローマ人は「揺れる船は沈まない」と言ったのなら、アメリカ人は「揺れる船は逃げ場のある大きな船にする」だろうし、日本人は「揺れる船には乗らないでいける場所を探す」のだろう。

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