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自己分析は結論にはあらず

就活本は「自己分析」が定番であるが、所謂自己啓発本に関しては同じような趣旨はおおい。
「自分がやりたい仕事」や「自分に向いている仕事」を知っていると近視眼的には、志望業界や志望企業・志望動機を練る。まあ面接で聞かれて評価材料になるのが最近の採用の傾向である。エントリーシートでは「あなたはどのような人か」を書かされるし、面接でも「あなたの強みは」と聞かれることが多い。必然的にそれに答えるためにも自己分析は必須というわけ。
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では、なんのために「自己分析」をするのかと言うことを、やってる人が分かってやってるのかというところを考える必要がある。その実自己分析に求めるのは内容ではないようだ。

(1)過去に何を考えどう対処してきたかを考える
(2)其の中に普遍性・繰り返し(再現性ともいえるのか)を見出す
(3)それを次の場面に反映できる計画なり構想を描く
(4)当該する場面が起きたとき実行する

其の行為とそれを繰り返し行うことができると言う能力というがこの内容はPDCAサイクルが地道に生活になじんでいる行為のことではないか。つまりこういう行動が出来れば「会社に入ってからの伸びしろが分かる」と採用側は思っているらしい。
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しかし、このような深慮遠謀が分かるほど若い人が場数を得ているわけでない。そこで、「面接官に評価される自分」をどう構築するかという仮想をしたりしてしまうようである。就活開始と同時に自己分析を始める若者が、人格と異なった自己分析に縛られて、その差異との現実差に悩んだりということになっている場面はあちこちで見る。優等生的回答を求めているという解釈、また一部の企業での額面的な採用姿勢が伝聞で伝わることで対策の対策、其の対策と言う形で趣旨が捻じ曲がっていくのだろう。
必要に迫られて過去を振り返る自己分析は一度はやるべきとも思う。やるのはかまわないのだが、其の本質はPDCAサイクルの実体験にあるのだろう。詰まるところPDCAサイクル駆動のエンジン・トリガーに自己分析にはなる。しかしあくまでトリガーだ。適職探しのために自己分析に取り組むのであれば、やればやるほど無難・通俗的・安定にこだわり目的とは乖離することになろう。
ただし、PDCAサイクル以前に、置かれた環境や周囲から受ける期待で自分を見直す行動をすること自体机上検討ではむずかしいものである。其のツールとして、仕事の場面・顧客や上司という人との出会いの力を借りて新しい自分を創っていくのが本当の自己分析の求める意味であり、試験の点数として自己分析をして、その額面の結果から「適職なので」という判断をするものではない。自己分析やコミュニケーションスキルがあくまでツールだと言うことは分かっていても、本質をしっかりと理解することが、また難しい行為でもあるのだが。

そうなると実体験の具現化に本当は力をそぎ、其の経験をつむ方が賢明ではないかと思う。そして其の場面は学生時代の論文作成の姿勢、学外の友人を作る、OB・OG訪問で社会人と話をする、クラブ活動を漫然と行うのでなくたとえば火中の栗を拾うなどの行動(部長などの職名はほとんど意味を持たない)で折々の考察を加えることだけでも身につくと思うし、心がけるだけでもまた違ったのではないかともいえる。
だから自己分析が不必要だとは言わないのだが、あくまでツール・過程・経緯として自己分析は存在する、しかし往々に自己分析が到達点となっている人がおり、これはキャリアプランとしては残念である。就職と言う段階では付け焼刃になるのは、「目的意識が高すぎると」しかたないのかもしれないが、自己分析の経験のほかに社会に出れば相手先の分析や観察がいやおうでも必要になっていることもあろう。(相手先は人間とも限らない)もちろん、そうなると会社や仕事は簡単な分析対象ではないし、広告や説明会や企業研究で理解できるのも一定の限界があろう。勤務しても中々分からないことでもあるし、大体自分の会社がどういう問題ということは採用担当者に意識があるのかが疑問。また、意識があってもそれと採用側とのずれがないかというとまず確定できない。キャリアプランは適時改訂をすることで意味が出てくるが、常時改訂してもあまる効果がない。

また、自分に向いている会社に入ったとて、配属はどうなるか・どんな人が上司になるかは誰も保障できない。上司も逐次変わるわけで合わない上司にあうこともある。縁や偶然に大きく左右されることは免れない以上、あまり自己分析段階でことたれるというのは実態からは短絡的である。要するに洞察力とコミニケーション能力を実地経験しているかなんですな。必要とする目的は自己分析ではない。「かっこいい自分」は求めるべき結果でないわけでむしろ必要なものは其の経験なり繰り返しの積み重ねであるのだろう。
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指導側としては、このような内容の必要性を提案するが、絶対化する思い込みを排除するためのキャリアプラン用ツールを考える必要がある。私の場合はある程度年齢がすすんだ中堅技術者の対象ではあるが、最近のようにキャリアの再構築(いままでのキャリアの廃棄を含む)ということになると、やってることはそう変わらないと考える。

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