« 仕様書も用語も言語も独自 | トップページ | 恩讐はいつまでも去っていかない(2/2) »

恩讐はいつまでも去っていかない(1/2)

歴史を考えると、日本人的であるが歴史が社会環境の中で埋没することを是としている事象(事実とはすでに言えなくなっている)がある。いつのまにか恩讐が消えていることもある。それは歴史の踏襲と言うより前向けの関係構築と言うことも有るし、反対に敵同士が双方衰退して手をつなぐと言うのもあるかも知れない。
ブログランキング・にほんブログ村へ
会津と長州には確執があると言う話はある。会津戦争の経緯からである。ただ陣営は対峙していたが、戦争で直接武力対峙したとはいえないらしい。むしろ明治維新以降も長州閥の高官が会津出身者の登用を妨害するなどの経緯のほうが重いという。そして観光対策のため、歴史の一場面を拡大伝承したと言う側面もあるともいう。だから、普通なら代替わりすると減衰する恩讐が、いまもまだ残っていると言う問題がある。
---------------------------------------引用
長州VS会津 今だに残る恨み 安倍首相が「おわび」  J-CASTニュース  2007年04月16日19時44分
「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」。

安倍晋三首相(当時)が2007年4月14日、こう発言した。場所は福島県会津若松市。参院福島補選の応援演説の中で述べた。今から約140年前の幕末期、長州藩(山口県)などの新政府軍と旧幕府軍側の会津藩との戊辰戦争を意識したものだ。安倍首相は山口県出身。官軍に対する強烈な恨みが今も生き続ける土地柄ならではのあいさつだった。
元会津若松市長は「よく言ってくれた」
14日夕のニュースで安倍首相の発言を知った元会津若松市長、Hさん(71)は「よく言ってくれたと思った」という。現在は地元で「白虎隊記念館」の理事長を勤め、白虎隊に関する著書もある。「当然の発言。もっと早く言ってほしかったくらいだ」との思いも頭をよぎった。Hさんによると、「長州への恨みは戊辰戦争だけではない」と指摘する。「明治維新以降も長州閥の高官が会津出身者の登用を妨害するなど長い経緯が積もり積もった問題だ」という。
市長時代の1988年ごろ、山口県萩市(旧長州藩城下町)から姉妹都市を結ぼうという提案があり、一部の会津若松市議らが準備を進めたが、当時50歳以上の人を中心に「とんでもない」という批判が出て中止したという。現在では「若い人の中にはもう(許して)いいのでは、という人もいますよ」
では若い人はどうか。会津若松市の市役所の30代、40代の数人に話を聞いてみた。「こだわりはないですね。(首相発言も)特に感想はない」という人がいる一方、「大人の態度としていつまでも言い募るのはよくない、と表向きは言っていますが、実は親や祖父母から聞かされた恨み話がしみついているという部分もある」となかなか複雑な感情があることを明かす人もいた。
また、市役所の別の職員によると、市長が県外の会合に出かける際に山口県内の首長と同席予定がある場合、主催者側の自治体関係者から「同席になって大丈夫でしょうか」などの問い合わせがあることも珍しくないという。「時間差で(2人の市長が)入れ違いになるよう調整してくれる自治体もある」と周囲から気を使われているそうだ。1996年、萩市長が市民劇団の招きに応じ、初めて会津若松市を「非公式」に訪れ、翌年会津若松市長が「答礼」として萩市を訪問した。出迎えの場面では握手した2人だが、記者会見の場で握手を求められると、会津若松市長は「(和解として)ニュースで流れるには時間が必要だ」と応じなかった、というのは今でも語り草となっている。(注:昭和61年(1986年)には長州藩の城下町である萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。)
「山口県民には違和感を持つ人もいるかも」
一方の山口県側の反応はどうか。2006年9月に発足した「長州と会津の友好を考える会」のY代表(68)。20年以上地元の萩市で友好活動に取り組み、今回全県組織にした。「ほう、そんな発言をしましたか」。山本さんは安倍首相発言を知らなかった。山本さんは長年会津若松市へ通い、「友人も何人もできた」と話すが「今でも基本的に厳しい態度の人は多い」と肌で感じている。一方で「これまで私は謝罪とか和解とかは口に出していない」ともいう。「互いに悪いところを言い募るのではなく、良かったところをもっと見てほしい」と活動を進め、少しずつではあるが理解の広がりを感じるという。
山本さんは安倍首相発言について、「戊辰戦争だけでなく、その後の歴史を含めどこまでご存知でそういう発言をされたのかな、とは思う」という。自身は批判的な気持ちはないというが、「(山口)県民の中には違和感を持つ人もいるかもしれませんね」と話した。なかなか歴史を語り考えるのは難しい問題のようだ。
-------------------------------------終了
長州閥の高官が会津出身者の登用を妨害するというのはどうもあったらしい。他方市長の対応は観光面の問題だとは思うが。ただし、ほんの一部の人物の行為だったとしても、一般性があって全体の総意と解釈される。だいたい薩摩・長州閥にとっては会津以外の旧藩に対しても登用を妨害するというのは良くあったことらしく、特に会津と言うことではないという。あえていうと、見せしめのために埋葬を許さなかったし、死体を「纏めて廃却した(埋葬ではない
)」というのが伝わっておりこのあたりに問題を見いだすべきだと思う。
さて、すこし前の話なのだが会津坂下を出身とする知人が結婚しようとしたときに、「山口の女性・・・」と反対される話があったのだ。一瞬冗談だろうと。しかし、その理由が理由だけにこれはどうしたものかとおもってしまった。
というのはこの知人の親御さんは学校や役所勤めで、当の本人は東京に住んで仕事をしている上に、すこしの田畑はあるものの家業があるわけでない(しかも長男が実家に戻って、企業に勤めてながら同居している)から、当人が納得ずくだったら問題はないとも思っている。ただ、親御さんは「これでは、もし帰省したところで親族や近隣の人との話が出来ないということになる」し、何より結婚式をする段階で(近隣の人もよばないわけに行かない)文句を言う人が複数いるだろうと想定がつくらしい。当然相手方の人にもいる可能性があるからこれは結婚式をあきらめるしかない。つまりそれ前提でお付き合いしていただくしかないよなあということである。そのため賛成するとしても覚悟が必要だと言うことである。

つまりほとんどの人が別に会津と長州が今もって仲が悪いということを思っていなくても、そういう伝承がありそのために問題がある人がいたり、大人の態度としていつまでも言い募るのはよくないとは頭で理解していても、選べるものなら揉め事の種になるのだから、避けるべきであるということにしておかなければならないという防衛本能があるのだろうし、合理的なことをいってもその合理的発想が地域や先祖の行動を否定することになるなら、其の段階で聞かれない行為である。合理的な行動を行うということは学校や役所勤めの自分たちの生活を奪うことももしかしたら長年の経験から意識していたのかもしれない。詰まるところ、そのような人が1人でもいればまず、土地のコミニティーを維持することが困難になるが、それを排除することが出来ないということだと思うのである。
ただ、この事例の場合は、お互いに郷里に帰らないことを前提に結婚はした。(奥さんの実家でも似たような問題があったと聞いているが、真偽は確認できない。ただ、結婚式は行わなかった。)

日本の場合、このような藩ごとのどうこうという意識差は世界各国に比べると、少ないほうなんだそうなのだが、それでもほかの例を聞いさすがに動揺したこともある。
--------------------------------------
これは一緒に仕事をしていた技術者の話である。この人は技術マネージメントの能力が極めて高く、(けど、技術については結構やりあったなあ)50過ぎになって静岡県掛川市に出来る新しい工場に副工場長かつ役員待遇で赴任する辞令を受けた。栄転・出世の本道を走っているのだが、ここで赴任に問題が起きてしまった。
年齢から考えて子供の教育のことかと思いがちだが、子供は既に就職か大学にいっていて、奥さんは専業主婦ということだし、夫婦で引っ越していったらどうであろうと言う話になっていたのだが・・・・問題は彼の出自にあったようである。この人が結婚する前に自宅にいった人がいて「いやあ郷士なのかとてつもない格式の家だった」ということを聞いていたのだが、掛川という地域に対しいろいろ問題があるというので、親類一同でもめたのだそうな。結果、後10年間、工場長に昇進しても都内のマンションはそのままで単身赴任していた。
------------------参考
<掛川城の歴史>
戦国時代 の室町時代中期、大名今川義忠が、重臣・朝比奈氏に命じ築城。朝比奈氏が城代となった。
永禄11年、今川氏が武田信玄・徳川家康から挟み撃ちに遭い、駿府館を捨て今川氏が掛川城に逃げてきたが、結果和議後開城して今川氏自身は小田原城へ退去。
掛川城には代わりに家康の重臣・石川氏が城代に。近隣の攻防に耐え、天正10年の甲斐武田氏滅亡後も徳川氏の領有。天正18年に家康が東海から関東に移封され、豊臣秀吉の元直臣 山内一豊が入り城郭を整備。
関ヶ原の戦い後、山内一豊は土佐に移転し、複数の譜代大名が入ったのち、太田氏(太田道灌の系列)が入り幕末まで続く。
------------------
さて、この人(今川さんという・・・・)の話だが、大名の今川氏直系は明治になって途絶えているが、どうもなんらか関係があったのかもしれない。しかし客観的には関係がないように思えるよね。
そこで後年(東京に戻ってきたころ)ある席であったとき、ちょっと冗談目かして聞いてみたら意外にも「いやあ、本家筋からものいいがついてしまった。」とかいったが、間髪いれず「まあ、主君(社長のことか)は城代になれといってるから従うべきだといって黙らせた」という本当とも冗談ともつかぬことをいっていたが。
----------------------------------
この事例では、逃げ帰ったことを文句としているのか、徳川の統治したところに・・・・というのかまったく見えないのだが、500年前の話を出して文句が出るというのも、えらい話である。しかし伝統が固着かすることでうらみになることは多々あるんだなあ。そして、かくも歴史が長いことがここまでこだわりの元になることもあるらしいのである。(続く)

|

« 仕様書も用語も言語も独自 | トップページ | 恩讐はいつまでも去っていかない(2/2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100146/55777456

この記事へのトラックバック一覧です: 恩讐はいつまでも去っていかない(1/2):

« 仕様書も用語も言語も独自 | トップページ | 恩讐はいつまでも去っていかない(2/2) »