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国家観自体融通無碍(2/2)

(承前)
(4)http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/15216
領土問題に全く関心が持てない件     2012/09/18
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昨今世の中を騒がしている領土問題ですが、僕はほとんど関心がありません。
当事者意識が持てない  
その最大の理由は、領土問題という課題に対して、当事者意識が持てないため。僕は外交を仕事にしていませんし、漁師でもありません。

「領土問題は国民全員が当事者だ!」とdisられそうですが、すべての社会問題は、本質的に全員が当事者です。僕にとっては、蔓延するうつ病や、生活保護の問題のほうがよっぽど当事者意識を持つことができます。社会問題のすべてに当事者意識を持っていては、人間精神が崩壊してしまうでしょう。
もちろん、当事者意識を持っている人を非難するわけではありません。それは個々人の価値観の問題です。ただ、その意識を「お前も当事者だ!非国民だ!」と他人にまで強要するのは、個人の自由を制約する、前時代的なやり方だと思います。
僕は僕が問題意識を持てる問題にコミットするので、あなたはあなたの問題にコミットしてください。僕はあなたたちに行動を強要することはありません。
(中略)
というわけで、
・僕は当事者意識が持てないので、当事者意識を持っている方は頑張ってください
・僕は自分が当事者意識を持てる問題にコミットします
・個人としては、変わらず中国国籍の友人とは仲良くします
というところが、僕の領土問題に関する態度です。無知といわれようが、まぁ今はそう感じるので仕方ありません。一若者の意見として捉えておいてください。
-------------------------------------中断
ブロガーで最近は独立してやられている方。
内容を纏めているのがすべてで表層的にしかない内容だが、逆にここまで割り切るともう納得しかない。
この後、もし当事者になるような羽目になったら(詰まるところ戦争になったら)家族を連れて海外に移住すると言うらしい。いやそのようなかたは私の周りの場合、特にIT技術系のソフト技術者・SEさんは震災以前からいたし、其の後段々増加しているが。
ただし、ちょっとこの開き直りはどう考えるといいのかとおもうところがある。すべての社会問題は、本質的に全員が強くとも弱くとも当事者となる。社会問題のすべてに当事者意識を持っているのが本来の社会の考え方である。(すなわちスイスに見られる直接民主主義)その結果、特に問題が複雑だと人間精神が崩壊してしまう寸前の人もいるのはわかる。(直接民主主義が機関として300人程度のキャパが限界なものは物理的なのと内容の複雑さにある理由がそこである)そこである程度の内容に対しては、議員など代理者に仮託することにしなければならないのが運用上のひとつの限界
個人の自由を制約するやり方ではあるが、逆に言うと個人の自由を制約するやり方でのしてきた社会に立ち向かうのは飛車角抜きで(・・・PCが飛射核抜きと変換し、本節ならそれもあるだけに一瞬複雑に動揺した・・・)何とか互角に持ち込めというようなものが社会の願望と言う体であったなら、こうはいえない。
最も当事者意識を持てる知識にない問題だから差し控えると言ういいわけなら、これは巧妙な発言(ポジショントーク)である。けど、個人としては、変わらず中国国籍の友人とは仲良くしますという段階で、時に友人が意識が高かったら、私知らないしいわないですむと言うことですむかは疑問。(ネットの友人なら関係を絶つのは可能性があるが、リアルな有人の場合、これ厄介ですぜ)。まあこの方の場合はそれを言わない理知的な友人ということがいるんだろうとおもうが。
ただこれは推測になるが、この人の場合は国家や国という概念は基本的に座標軸の数値以外の意味がないのではとも思う。いやなものがあれば避けるというのが出来るのは、運がよい人間か圧倒的かつ永続的に力があると言われるようになっている人だからできることである。(そして、圧倒的かつ永続的に力があるという第三者評価は周囲の代替わりも生じる50年も続くわけないのである)
「個人としては、変わらず中国国籍の友人とは仲良くします」
技術的な話で繋がるなかならそこまで心理的な話題まで話さない。商談でリアルにあうことになると、それなりに技術に関する考え方から其の情報の取得法まで絡んだ時に「ああお互いの技術情報の得方の差異・精度の限界・資質の差異(・・中国のほうが進んでいるものは農業の実践などではあるわけで・・・)は、理解できない人に理解させられない先が各々にいる以上しかたがない」と言う時に、多分当事者問題でないと逃げられない事情があると思う。(私の場合はここで議論になって、得られるデータの事前選別をやったとき感じた。)この軽い付き合いですむ関係のみでの話では、額面だけの付き合いだけで仕事ができるのかという疑念を持ってしまう。
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この4人の意見が一緒である必要はないわけで、その差異をあげつらうのかはする気がない。そのような議論を起こすことは慎むべきである。ただその大きな差の逃れられない、かつ、絶望的な差異の原因のひとつにあるのは、こういう対比が出来そう。

(1)の国家ありきと言う前提からの諭旨
(2)の国家観に踏み込まないところでの提案
(3)の国家観があるが其の現実からの束縛の解放
(4)の国家観の逃避と言うよりは国家システムの逃散

(1)⇔(3) (3)⇔(4) そして一番分かりやすいが(1)のトーンをもちながら思い切り中庸化した(2)となろう。
少なくとも、ある程度根拠の有る議論をするならば国家観がどうあるかという議論になるのだが、基本国家観については大方の国においてはコモンセンスで決まってくる。たとえば
○主要な宗教・伝承・習慣の拘束
○有名政治家や国王(時に『指導者』)などの君主・君主相当職の裁定が国家基準
○政治思想などによる選別(共産主義に期待する大陸と資本主義に期待する台湾のような戦争の有無を問わない分裂した国家)
○事実上国家間で居住者の移住が出来て信義に従い国家を選ぶことも可能な欧州・国是に賛同しないものは国民にしないとまで踏み込んだドイツ
と言う形になろうが、この要素が極めて弱いものしかないというのが日本である。(君主の挙動は規範にはならなくなってきた)
ここで問題なのは、国家観を政治思想などで踏み絵とした選別を行う場合、思考停止し、国家観は国際的な共通性を持たないことが分からない人間が多くなるということ。一方逆に目標が明確なため行動が迅速に進みやすいし、制御しやすいのである。その意味では中国は国体がある意味明確である。(愛国と言う概念が分かりやすいからこそ愛国無罪なる概念が通る)ところが、価値観が多いから各自が考える自立分散的な活動は得やすいが国家観の共通性が薄すぎる状況では、目標は明確にすることに抑制が入り、無茶もしない代わりに迅速さが求められる活動は不向きである。
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で、この国家観は日本語では「国体」と言う表現で語られてきたものである。いまや存在が余り強くない仏教の思想ぐらいしか拘束内容がなく、天皇によるどうこうと言う国体の考え方が世界的な標準と敗戦時の社会情勢でうせてしまった(まあ国体自体の存在もコモンセンスとはかけ離れていたことも事実だが)わけである。戦前は天皇が明確な意思を出せたが、それでも弱いと思う者が「国体明徴声明」なんてのを出す。詰まるところ国体は強く纏めても欠点を持つが、ないと言うことは国家の存在を否定するのと大きくかわりがない。
国家観の存在を否定されてその後育たなかった中では、指導者的人間のありていが国家観ということになるが、これまたボトムアップを期待する自立分散機構では乱立するかみんな引っ込んでやらないかで、成り立たない。下手をすると合衆国制度をとるようにしなければ国家観による統制は不可能な本邦と言うことを、この事件に関するばらつき現象はしめしているのかもしれない。

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