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妄想「力」自慢(1/2)

いじめのどうこうというのが話題になっている。朝日新聞の特集などは、(問題が無いとは言わないが)リベラルの考え方の中での提言を集めてきた、(しかも最後に春名風花さんという発言力の高い(=意識の高い)子役をもってきた)ので、うーむと新聞を見ながら私はうなってしまった。
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但しやさしさという切り口での切り口では、もうことを処理することは出来ないというのだろう。そのような論旨での記載がないどころか、消極的ともいえる「逃散行為」を進めるしかないというのは印象的である。

そのほか海外在住時における経験が記載されている。前回の同じ掲載との差はむしろ倫理面からの教育活動・指導・教唆がもう効果がないという現実を前提した、あきらめであろう。
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もちろん物理的な「力」ということではないのだが、いろんな啓発書が世のなかに出ていると、其のうたい文句やセールスポイントに「力」が付くことが多いことにふと気がついた。
断る力
悩む力
決断力
仕事力
聞く力
決断力
後輩力
読書力
課長力
そうじ力・・・・・・・・etc・
こうなると消臭力とか、長州力とか竹内力までそう見えてくる。(なお「消臭力」は、長州力にちなんだ名前なんだとか)
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もちろんこれらは「力」と言っても物理的な力の話でなく、能力の話であるはず。しかし、能力というものが実態を持つような具体的形態は見えない人には見えないし、若年者には実感として其の存在意義が理解できないし、現実にそれが明確になる場面に合わないとなる場合では、物理的な力の行使をおこなう場面こそ能力を展開し、あいてが怪我したり、うつ病でひここもったり、やけどのあとや青あざを作るという現象面での明確な現象を伴うことを、力の行使と解する若年者もいるんではないか。
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《いじめている君へ》春名風花さん  2012年8月16日
 いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。 ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪なゲームで遊んでいるんだもんね。
 ぼくもツイッターでよく死ねとか消えろとかブスとかウザいとか言われます。顔が見えないから体は傷つかないけど、匿名なぶん、言葉のナイフは鋭いです。ぼくだけでなく、時には家族を傷つけられることもある。涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります。
 けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。
 いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力を持ってもらうことでしか止まらない。 (後略)
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これ自体はひとつの提言として非常に面白く、説得力がある。当事者に一番近いということで貴重なのだが、「本当に自殺しようが、その人たちが何も感じない」という体験不足という人(・・・その人は逆の体験をするとかあると反省・悔い改めが期待できる・・・)もあるのだが、もともと力こそ生きるための唯一に近い存在価値であるという教育や、確固たる問題意識を持っているような場合もある。このような対応は想像力を持っているとしてもそれを否定することが アイデンティティー なる生きる意味になっているという人である。
達成される目的と内容が確立されれば、笑いながらでも人を殺すことができると言う人もゼロではなく、またそれは人格の破綻と言う形ではないため、排除が事実上出来ない。想像力を持って確固たる信念を持って結果を理解して、生き残りのために(言い換えれば悪意を前提にして)おこなう行為では、いじめは、いじめた人には「社会の摂理」でしかないし逆に他人にそれをされたら、手段を選ばずつぶすだけである。其の存在はまだ、春名さんにはわかっていないし、それが時に社会の重要な存在価値としてちやほやされる場合もあることは知らないと思う。
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さて、想像力が足りないと言うのは訓練の場面がすくないということのかもしれない。これは理科教育を中学校でやるとき、技術者・教育者がショックをうけることでもある。
ただそこまでも行かない範囲の連想や類型の探索と言うような場面で、子供たちに接してする売る人も多い。もしかしたら妄想という、論理的でない頭の使い方でさえ不得意な人が増えているのではないかと思う。(続く)

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コメント

こんにちは。
僕は妄想を含め想像力を重要視しています。ひいては多様な経験の必要性も。
今の日本人の多くはそうした点からみてバカばっかりになっちゃいましたね。
政治のせいなのかマスコミのせいなのかテレビ(ケータイ)ゲームのせいなのか、頽廃の時代なのか。
建設的な思考をしたいのですが、もうどうしていいのか僕にはわかりませんのでデハボ1000さんの後半の論を待つことにします。

投稿: niwatadumi | 2012年9月 5日 (水曜日) 16時52分

私の仕事の場合、時に理科教員補助をするか、其のテキストを作ると言うことがあるのですが、段々「類推」という側面が弱くなっているようですね。

投稿: デハボ1000 | 2012年9月 5日 (水曜日) 21時18分

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