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地頭だって天賦の才だって

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http://blog.blwisdom.com/shikano/201206/article_1.html
地頭は存在しない   2012/06/30 19:10    鹿野 司
泣く子と地頭には勝てぬ、と申しますが。じゃあなくて~コンサルティング会社や外国企業の面接試験とかでは、地頭(じあたま)を試す問題が出るらしい。これは、ぱっと見どの程度の規模かよくわからない事について、論理的に推論して、それがどの程度のものかが概算する能力の事みたい。なんか回りくどい言い方。
物理の世界では、こういうのをフェルミ推定とか、オーダー・エスティメーションという。あることについて、だいたいざっくりが違算する事ね。(中略)日常周りの友人知人をみまわすと、何人かは、うわーこの人賢いなっていう感じの、臨機応変当意即妙に色んな事ができちゃう人がいるよね。だから、そういう素の頭の良さってのがあることを、たいていのことは疑っていないと思う。
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ところがじゃ。これまでの認知科学の成果からすると、そういう知識に頼らない論理推論能力なんてものは、ホントは存在しないことが解っている。

たとえば、飛行機が飛んでるとして、そこから何かを落としたとする。すると、落とした物体の軌道は、A飛行機の飛ぶ後ろ方向へ落ちていく。B飛行機の真下に落ちていく。C飛行機と同じ方向に落ちていく。のどれだろう。
これはまあ、物理やってる人ならぱぱっと解らないとダメだけど、そうでない人は結構迷うらしい。答えはCね。
ところが、ボールが転がってきて崖から落ちたとする。このとき、ボールは、崖から垂直に真下に落ちるとか、崖にめり込むように落ちると考える人はまずいなくて、崖から落ちるほど前の方に進みながら落ちていくと答えられるはずだ。飛行機からものを落とすのも崖から物を落とすのも、物理的にはほぼおなじ事で、オレたちが知識に基づかない純粋な論理的推論をしているのだとしたら、両者の難しさは同じはずなんだけど、実際はそうはならない。
飛行機から物を落とすみたいな、あまり見たことも中ければ、考えてみたこともないような問題は難しくて、机からボールが落ちるみたいな似たようなことを見たことがあったり、イメージしやすいことに関しては間違いにくい。(中略)つまり、馴染みのある問題の推論は易々解けるのに、そうじゃないのは正しく推論するのはすごく難しいって事だ。これって、普遍的な論理推理能力が人間の頭の中にあるとするなら、起きるはずのないことなんだよね。
この知識によらない論理推論能力は存在しないってことは、他にもいろいろなところで見る事ができる。
たとえば最近ネットで見てすごく面白いなあと思ったのは、「読めないとはこういうこと→勉強できない子をあぶりだす5つの質問」だ。(中略)
こういう事から考えると、脳の中にはたぶん、普遍的な論理的推論回路なんてものはたぶん存在していないんだろう。そういうのは、膨大な知識の積み重ねの中から、見かけ上現れてくる幻のようなものってことじゃないのかなあ。
この現象は、人間の知性に対して、別の側面も明らかにしていると思う。311を境に、オレ的にちょっとびっくりしちゃったのは、それ以前はかなり確かに物事を考えることができると信じていた、色々な分野の人たちが、こと原子力に関しては、びっくりするようなトンチンカンなことをいったり、信じたりしたって事だった。でも、これは、個人は、論理的な思考は普遍的にあらゆる分野についてできるわけではない、地頭は存在しないと思えば、なるほど納得できる。
オレたちの社会は、例えばノーベル賞を受賞したような凄い人なら、さぞかし賢くて、あらゆる分野について、いっぱしの正確なことを言ってくれるだろうと期待している。でも、ホントは、そんなことは、なかなかできることじゃない。ある分野で傑出した人でも、あまり知らない分野については平凡なことしか言えない、たいした分析はできないのが普通だと考えたほうがいい。その応用の利かなさは、たいていの人の何とはない期待よりもはるかにダメなんだろう。
逆にいうと、ある分野で傑出した人は、自分ならいろいろな事について確かなことが言えると慢心しがちって事もあると思う。そういう人が、色んな事に口出すと、権威を持っているだけに、かなり混乱するなよな~つまり、ある人のいうことなら信頼できるという考えは常に危険をはらんでいて、どんな人についても個別の話について、是々非々で判断するほかないってことなんじゃらほいほい。
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そう考えると、その昔のダビンチのような天才という人を見ると、知識・思考力・パワーのバランスがあるからこそ天才となったのではと思う。どれが最初でと言うことではなく、すべてがバランスが取れていることが必要であろう。
だけど企業の入社試験などで判断できる内容は時間の拘束と(それ以上に人材を選ぶ人の能力の有無にも左右されるのだがw)どうしてもワンポイントで確認するしかないのかもと思っている。
知識があって、それを思考力で類推して、他の事例と照らし合わせて・・・と言う繰り返しをパワー・・・力ずくで繰り返していくということが、日常の生活で難なくこなせるというのがここでいう地頭になるのだろう。しかし、これとて、あまりにも広い内容(それこそ原子力など周辺技術は類推するためには生はんかの技術じゃ収まらない知識量・実践事例・過去トラブルがある)となればルーチンが間に合わず、そして、破綻していく「知識層」が多かったのであろう。だから、普遍的な論理的推論回路なんてものは存在していないというのは事実であろうが、知識の積み重ねの中から、見かけ上現れてくる「幻のようなもの」と言うのでもなく、上述のサイクルをどのようにまわすかを、体感的に習熟しているということなのだろうと思う。
もっともアングロサクソンにおいてはギフテッド(gifted:天賦のという意味)とよばれ、一人一人の人間が天・神によって創られているという欧米の宗教観があり、そのなかで「天才を見つけ出す」と言う発想がある。頭から能力差がある世界が前提であるという認識の下では人間の成長・発達というものは一人ひとり違っているという前提があり、其の中で「優れた人」「社会に有益な人」を見つけるということになる。だから、そのような稀有な人材を見つけ育てた社会は、其の人材を有効に社会に還元するためには、「才能を持っている人を見つけ出し、見つけ出したらそれに従う」という概念があるのかもしれない。其の概念を「地頭」といって持ちこむとすると、日本人は「地頭を開発しよう」と言うモチベーションになるのかもしれない。(もっとも、アメリカなどはギフテッド教育を推進しているが、学業成績は維持したまま一般大衆に同化せよという圧力はあり、これまた才能をつぶすとか、一歩ふみはずすとわき道に入れず自爆するというがちがちのキャリア形成というのもあるのだろう)
対して日本では、生まれつきの能力差はたかだか努力や環境などの後天的内容にくらべれば問題にならない考えが強く、能力平等観などと呼ばれ、日本人の特徴かつ日本の社会の考え方が前提として異なる理由だと言われているし、これを前提にして労働市場も教育体制も、果てはトヨタ式生産方式・TPM活動という形で成り立ているところもあるし、人材登用手法もそこに由来しているところがあるようである。
こう考えると、地頭という概念は日本人の資質にはもともと相容れない概念であり、そこを何とかしない限り、齟齬がおこることは避けられないし、採用時にうっかりいうことは、『独自の判断基準をしますよ』と言っていることになるわけで能力平等主義である私たちでは、批判の元になること請け合いである。
さらに、欧米の機会平等主義に対して日本が能力平等主義であることは、キャリアプランの見方にも係わってくる。欧米の履歴書(+カバーレター)と呼は基本的に自分の仕事を売り込むカタログであり(だいたい履歴書ではなく経歴書という)美辞麗句で飾られるのが当然なのであるが、逆に日本で履歴書と言うと公正な見地で書いている公文書的性格を求められる側面があって、自分の売り込みは過去の仕事内容の証拠であるということもあろう。(なお履歴書の様式例がJISなり工業規格で挙げられており・・というと海外の人にはなんで・・・と思うらしい。人権保障と言う説明をするが、概して???が浮かんでるようである。)

能力平等を前提として基本的社会制度が構築されて、それこそが1000年単位で社会の存立意義になっているする日本社会においては、こうでもしないと逆差別や感情論などを引き起こし議論を停滞・誤解させる危険を伴う。さらには遺伝子論争や優生思想がからんでしまいやすい。
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オレたちの社会は、例えばノーベル賞を受賞したような凄い人なら、さぞかし賢くて、あらゆる分野について、いっぱしの正確なことを言ってくれるだろうと期待している。でも、ホントは、そんなことは、なかなかできることじゃない。ある分野で傑出した人でも、あまり知らない分野については平凡なことしか言えない、たいした分析はできないのが普通だと考えたほうがいい。その応用の利かなさは、たいていの人の何とはない期待よりもはるかにダメなんだろう。

しかし、これを見ているとなんでアメリカでの政治団体には、「ある分野で傑出した人でも、あまり知らない分野については平凡なことしか言えない、たいした分析はできない」と言う思いがないなあなどと思う政治団体も実際あると思う。ティーパーティー運動においても、其のリーダーの資質は保守派の草の根運動という側面からはいたし方ないのか確保できない。人物はいても知見にある人物は居ないという、分散するティーパーティー団体を結集する資質のある政治的指導者がいないことをおもうのだが、これは、「ある分野で傑出した人でも、あまり知らない分野については平凡なことしか言えない、たいした分析はできない」というなかから、人材を『捻出』しなければならないはずなのだが、それでもキャリアとしては一定の「ブランド」の人物が外部から見るといるように見えるが、けどいないのであろう。そういうことはここで天賦の人材がでてきてとなれば、その実そう視点が変わらないのに「地頭は存在しない」が「ギフテッド」は存在すると言うなら大いなる矛盾である。(逆に在特会は、知見にある人物が固定化しあとは思考停止していると言うことを感じる場合はある)
専門知識は高いが資質がたいしたことのない人物が、「知識があって、それを思考力で類推して、他の事例と照らし合わせて・・・と言う繰り返しをパワー・・・力ずくで繰り返していくということ」をいって、しかし大衆がそれに見事に左右されながらも迎合しない社会と、「知識があって、それを思考力で類推して、他の事例と照らし合わせて・・・と言う繰り返しをパワー・・・力ずくで繰り返していくということ」をおこなう専門知識の高いが本の一握りの人物が、全部を支配するような社会。それは本当はどっちがどっちと言うべきことでないので「個別の話について、是々非々で判断するほかない」というのは私も当然の結論であるのだが、結果的にお互いがお互いの足を引っ張るしかない社会となることを是認するのは仕方がないということにもなってしまう。

「コンサルティング会社や外国企業の面接試験とかでは、地頭を試す問題が出るらしい。」と考えるとこれらの企業は欧米的ビジネスモデルである場合が相当多いわけで経営・人材育成も其の流儀に偏るしかない。(また一般企業でも基幹株主が欧米系だと物言う株主が社内人材育成や採用に関してこのような意見を強硬につけてくるという話が時々ある)けどそれ自体がギフテッドもどきを常に求めていることになるのかもしれないなら、其の選別条件でやること自体が天才により凡才を監理するという経営方針しか出てこない企業であり、すくなくとも日本における製造業には、知識を出す双方の層の分断が、結果、体力を衰えさせる元になる可能性はあるなあと、思い出している。

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