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どれだけ叩いても構わない

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http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120707
2012-07-07 : "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点
 ネットを眺めていてふと気付いた。
 現在、日本のメディア上では、ネットであれテレビであれ「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」という風景がリピート再生されている。なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでなく、責任者は罵倒され、土下座させられる。法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを、社会正義とみなすような空気ができあがっている。もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはないし、マスメディアも何食わぬ顔で報道する。バッシングが公認される大義名分がある限り、責任者が唾を吐きかけられてもしようがないよねー、という不文律ができているらしい。
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 インターネット上での“炎上”も似ている。失言・過失・違法行為があったと判明した相手に対しては情け容赦が無い。叩かれるに値する大義名分を背負った相手なら、罵倒も、嘲笑も、プライベートの暴露もやって構わない、という空気がネットにはすっかり出来上がっている。そのようなバッシングは、ときには世直し気分さえ伴って行われている。

 「バッシングされる大義名分を背負った人間は、法的責任を追及されるだけでなく、罵倒しても構わないし、土下座させても構わない」というのが、どうやら21世紀のオトナ世界のコンセンサスらしいのだ。無慈悲であり、不寛容であり、あまり上品でもない不文律だが、とにかく、オトナの世界はそんな風に回っている。 
オトナ世界の不文律と、「いじめ」との共通点
 で、そんなオトナ世界をずっと眺めながら、子ども達は育っていくわけだ。
 子ども達は学習能力に優れているので、社会の規範意識をしっかり把握して、正確にインストールしながら成長していくだろう。
 ・叩いてOKと公認された相手は、罵倒しても土下座させても構わない。
 ・警察が介入しない範囲なら、過失・落度のあった者をリンチして構わない。
 ・いったん悪者認定された相手に慈悲をかける必要は無い。
 ・叩かれた相手が後でうつ病になるかどうかなんて考える必要は無い。
 どれも、オトナがやっていることであり、テレビやネットを通して日常的に観察される風景だから、子どもがそれを模倣・内面化しないわけがない。上記のようなジャスティスは、大人から子どもへと引き継がれていく。そして子ども自身の手によって実行されていく。
 すべてのいじめがこうだとは思わないが、多くのいじめには、こうした無慈悲な規範意識が潜んでいるのではないのか。(この後・抄)
子どものいじめは「バッシングして構わない大義名分さえあれば徹底的に叩いて構わない。それが社会だ」の劣化コピー版、のように見える。これから社会に出て行く予行練習として、子どもはいじめにまつわる諸現象を体験する、とさえ言えるかもしれない。
 以上を踏まえると、いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。
 もちろんこれは、とても難しい課題だと思うが、このような無慈悲の悪循環はどこかで断ち切らなければならないし、そのためにも、各人が心のブレーキをできるだけ意識しておく必要があると思う。
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まあいじめの一件でもそうであるが、失言・過失・違法行為があったと判明した相手に対しては容赦が無い。叩かれるに値する大義名分を背負った相手なら、罵倒も、嘲笑も、プライベートの暴露もやって構わないという。昨日の友とて明日の敵である。ただし、これは21世紀のオトナ世界のコンセンサスというのではない。もともとの社会のコンセンサスと言うもの体もっている前提であり、この対象は基本あいてが社会に影響をなくすまで続くのだろうが、その究極は社会に影響をなくさせるまで続くのであろう。品がどうこうと言う話である場合もあろうが、基本的に求められる社会のもつべき諸条件の幅がせまくなればなるほどに尖鋭的であることになるため、多様性の本質とは合いえられないものになる。互いの心理的幅を含む利害関係(・・・あいつムカツクというのも金銭的にでなかったとて心理的利害関係になる)が生じることが、すでに少ないとはいえ健康に影響があり、さらにそこから副次的金銭的影響が出た段階で、それを排除する必要性はあるともいえる。

さて、私刑という表現がある。
所属集団の支持のもとなされる場合があるが其の典拠は判断が合理的である場合というわけでない。中世でもある程度の(熱狂・ヒステリー状態下にあるもの含め)支持されている人の発言や政治的な意図を含む言い回しもあろう。亀の甲羅のわれ様でさえそうだし、決闘も(中世のように私刑原理がある場合はともかく、普通は法的根拠がなく、また刑罰を決する国家政府があるならば)私刑といっても差し支えない。
国家が其の形態をなしていない場合には、私刑は治安や秩序維持のためという目的がある。共同体の規範を逸脱するものに対し、民衆の自警組織によって行われるものであった。そのなかでは民衆の自警組織という場合の「民衆」の意味合いがひずむことになった結果、秩序統制から異人種憎悪・異宗教憎悪の表現へと変化していった事例もあろう。母集団がたとえばドメスティックな団体(不良少年・ヤクザ同士など)に関して暴力行為・いやがらせでおこなわれれば、決闘というかたちになり刑罰にて処罰されるが、この刑罰を執行する機関がない無政府状態(たとえば関東大震災後の東京・軍政下で価値観の偏りがある沖縄県・奄美群島内の一部の自警団・海外の無政府状態で軍閥が張り合うソマリアなどの種々の地域)ではこれらは「正当化されたもの」である。
となると、いじめという表現ではあいまいにされてきた表現を、駄肉をそぎ落とすと「自警団」を自認するかどうかは意識化にあったとしても現実が其の存在にあるものがおこなう私刑にほかならない。ちょっと其の目的がずれるが「必殺仕置人」も多分にその影響がある。
すると
 ・叩いてOKと擬似コミニティーに公認させた相手は、罵倒しても土下座させても構わない。
 ・警察が存在しない社会では、過失・落度のあった者をリンチして構わない。(これは逆にされても頼るものがないと言うことも当然前提である)
 ・認定された相手に慈悲をかける必要は無い。認定された相手が利潤を私たちに施す可能性も期待できないように抹消している以上当然である。
 ・叩かれた相手が後でうつ病になるかどうかなんて考える必要は無い。目的が相手の自分たちの係わる社会からの抹消だからで、うつ病になるというのも擬似コミニティーにとっては成果である。
というのはひとつの法律に基づかない社会通念(すなわち世直しをおこなうトリガー)になるなら統制が取れている。問題は法治主義に相反し近代法治国家では許されていないことと言うこと、そして、其の局地的統制が全体の最適化になっていなかったり、また負の連鎖による問題先送り(仕返しも是認されることになるからである)になるからである。
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外国の人に「敵に塩を送る」ということを説明することがあった。

敵に塩を送る:敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にあるときには助けること。
戦国時代、武田信玄(現在の山梨・長野に領地)は今川氏(静岡県に領地)との同盟を破棄し、東海方面への進出を企てますが、それに怒った今川氏は北条氏(今の神奈川県西部が領地)と協力し武田領内へ太平洋から得る塩を禁輸し、領民は苦しんでいた。これをみて、信玄の好敵手上杉謙信(新潟県西部に領地)は義を重んじ越後から信濃へ日本海から得る塩を送り、武田氏とその領民を助けた故事による。

之を見て、欧米人は武士道精神という視点や、欧州の騎士道に通じるとか言うことをいったのだが、これをなぜかある中国人(エリートたちである)に話したところ、もちろん武士道とか儒教とかでは理解するものの、其の上で「わが国なら領民全員を殺してしまいそこに進駐するはず。ウエスギは武将としては其の時代の倫理にはかなうのかもしれないが、国をつかさどる人間としては意識が薄い。外部に無慈悲な規範意識を発揮することではじめて配下に対する慈悲ある規範意識を育てることが出来る」と言われてしまった。局地的な倫理概念は独善的であるという側面があるというのである。(もっともこのエリートも時代背景を考えると実は緩和による戦略だったと言うなら・・・と言う言い方をしていたが)
国際紛争においては、警察となるものはない(いっておくが国連は調停機関ではあるが、法的な規定によって制御されて作られた法的機関とはことなる)。したがって、
 ・叩いてOKと公認された相手国家機関は、罵倒しても土下座させても構わない。
 ・介入しないように統制を採るとか恫喝しておけば、過失・落度のあった者をリンチして構わない。
 ・悪者認定された相手国家機関や政治家に慈悲をかける必要は無い。
 ・叩かれた相手が後でうつ病(国威減退・難民化)になるかどうかなんて考える必要は当座は無い。
そのものであるため、その競争原理を押し出した企業活動が市場をつぶしあうとか、相手国企業に出資して相手国の政府やコミニティーによる制御を利かさないようにするとかいうのは、雇用手法を日本流の雇用にしない契約にすること前提で出資(そしてそれが脱法行為だとなると出資をひきあげて企業体をつぶす)と言うことになっている以上当然。今でも国際規格の設定など考えると、日本の企業が協調を求めるような意見をもっても無視以前に黙殺されるのも良くあることで、日本発の提案はまず通らないのである。
バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だというのは、国際社会の支配における強欲こそが世界を律する社会においては能力主義の前提からはむしろ全うな行為である。それがコンセンサスならば、このような問題はさほど問題なかろうと思う。しかも生存するために大人たちの社会が変質を迫られ、規範意識・倫理感覚・身振りを変えてある意味倫理規範を質の高くない自警団クラスまで「劣化」させて順応することが求められているとすれば、それにいちはやく順応する能力がいじめをする「ことも」にそなわっていたというまことに「好適」な人材という言い方さえしてしまいうる。
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オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りをより「弱肉強食」に変えていく・・・というか先祖がえりする・・・かなければ、少なくとも本邦では共同体としての生き方を達成できないと「思い込んでいる」なり「強制されている」場合、いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを慈悲ある規範に変化させることは、社会的競争を地球内でおこなう場合、国際的存在感の喪失になりうる。だいたいが、慈悲ある規範が其の地域ごとによって変わっており、全世界的に共通なものを探すとまったくないといっていいからであろう。また、慈悲ある規範が社会的な位置喪失を招くことは国民の労働価値を落とし、結果さらに規範なるものを維持する人材も、資質も、ひいては人命(生活苦によるもの)もなくすことになる。今の学問では高邁な倫理思想を維持するエネルギーが実は経済活動の余剰資源によるものと言う側面がやっぱり残る。
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もちろん「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」というのは今回話題になっているいじめをした子供のことだけでない。いじめをしたこともの名前を諜報機関もびっくりの速さで(正確さは??)特定し、追い詰める行為もそうだし。生活保護受給の問題でも特定化と叱責(さらには国家クラスまでの倫理概念の強制)は、利益の再配分と言う経済的行為が直裁的に係わることもあり、法律問題に反対に抵触しかねないほどすざましい経緯であった。そしてこの類似例はインターネットでは韓国では自殺教唆とかがもっと問題になっているのとかなり似ている。つまり、この規範倫理が新たな社会の活動の源(物的資源・人的資源)を量的に(質的ではないだろう)担保しているため、切れないのも現実である。

今までは他人に対する慈悲は見返りを得ないものであるのは当然であっても、しっぺ返しはないと言う前提があったからこそ慈悲行為がなりたっていうのではないだろうか。日ごろの災害募金でもそうだが、心理的優位は金銭対価にはほとんど反映されないがまれに係わるとプラスに働くという認識が取れていた。しかし、他人に対する慈悲が回りまわって自らのバッシングに回ってしまったり、慈悲の結果が金銭対価を減らしたりと言う場面が現実にあるということを考えると、いじめアカンという行為さえ唇寒しと言うことになってる可能性が、だれしもあるのではと思うのである。

例:ある地域の病院設立にあたって隣接地域の篤志家が多額の寄付をしたのだが、すでにある篤志家の住んでいる病院に対し寄付をしなかった。というのは地元の病院の経営を悪くする可能性があり、これがいらぬ誤解を招き篤志家のやってる事業の従業員に嫌がらせがあったようである。

結果一番総量的にエネルギーを消耗させないのが「無関心・無慈悲」というのなら、このようなことによる人命損失、人的資源の喪失は社会を何とか運用するための必要資源と言う認識になってしまう。
古代の日本ではこのような人的資源の損失は地蔵様とか仏様・神社での神様ということで継承するという手法もあり、そこがリバースして社会通念上の慈悲の余地を意識下に植えつけると言うのもあったと思う。規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが実際上、更なる高度な価値しか認めない生存競争の中で不可避となりつつある現在、無慈悲の悪循環は断ち切ることが不可能になるとなれば、少なくとも意識の下におくと言う、それこそ伝承や仏像による狭い範囲の活動が現実には限界ではないかと思う。「叩いて構わない奴はとことん叩く現実」は、より簡単に武器が軽量になった(いままで私刑をおこなうには銃とか棍棒、そして返り血が必要なのだったが、指先と銅線(信号線)で血を流さず、とうぜん返り血も浴びない位置でできる)私刑ができるようになり、それが経済活動を促す側面さえある利害関係では、より偶像的な手法しかあまねく適用できる手法がないとも、私は考えるのである。

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コメント

こんばんは
興味深く読ませていただきました。
毎日が日曜日になって、たまに昼間のTV番組を見ると、正直頭が痛くなります。「叩いて構わない奴はとことん叩く」みんなでたたく、のオンパレードです。
でも天邪鬼とか判官贔屓とかといったカウンターウエイトのようなものも社会はメカニズムとして持っているような気がします。私自身は、小学生の時教師の主導の下での「いじめ」に会いましたが、たった一人叩くことをせずに私の方にきたクラスメートがいて、それ以来天邪鬼になることに快感を覚えるところが出来てしまいました。あんまりまともな人生ではなくなるので、人にはお勧めできませんが…。

投稿: SUBAL | 2012年7月26日 (木曜日) 20時19分

たたいても相手が耐性を持っていると言う場合は、まあ「しゃれで」というのはあるのかもとも言えますが、そんな他社からの非難に対する耐性を『常に』持ちえる人ってほとんどいないんですよね。
今の立ち居地に順応・反応するというのはあるいみ最後に生き残ると言う事象においては一定の妥当性はあるのかもしれませんが、其の段階で「立ち止まること」をしないという人間が多くなったことに、憂いを覚えます。

投稿: デハボ1000 | 2012年7月27日 (金曜日) 14時42分

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