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「変わる」ことよりも逃避のほうが現実的選択(2/2)

(続く)
「変われば生き残れるのに、変わらないから替えられる。どっちがいいか、よーく考えよう。」と提案した場合確かに自分の生活というもの、生き残ることが前提である場合は、変わることが前提である。しかし、替わらないことを前提できわめて強く構築された企業ときわめて(無駄に)頑強な社会の共存関係がある場合、代わること事体は現象面として追認することしかなされないが、企業が独自に変わる事・替わる事は社会との契約関係を損じたとみなされることがある。
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これは 日本やドイツに見られる企業観である「企業制度説」という見方・視点の影響もある。企業は、社会的道義を踏まえ、長期的に存在するべきものであり、その原則によって社会資本が構築されると考える。なお、この視点はドイツ語圏(スイス)や影響が大きいオーストリアにも傾向はあるようである。

これは産業民主主義 (政治上の民主主義の概念を産業で実現する原理。労使協議制や労働者の経営参加までをも含め、株主・投資家は其の下位に存在する)の思想が構築されていた場合もある。また本邦では、その背後にあるといわれている「利害関係集団(ケイレツ)との安定した長期取引の約束」により短期の利益率より永続的社会契約を前提とし(また社会契約を前提にしなければ融資資金の獲得が出来ない社会慣習)である。(反営利主義という倫理観からの資本主義への問題提起もある)このことから、日本の企業において創業時に、機関投資家を持たない一株株主の集合で創業された企業というのが意外と存在し、永続性を持っている現実は考えていいと思う(バス会社の中には戦時統合前に其の形で創業した事例もある。また、一株株主の集合というのは投資した人が其の投資先で一労働者として働くという、職場・現金収入確保と言う側面もあり、他国では「組合」となるものである。)
このことは、「変われば資本形勢上は生き残れるが社会から契約を破棄したとみなされる」のに対しての社会なかで替えられることが少ないが、有る一定の枠の中で存続を重視する。しかし企業の中を変わることは出来ても構成員の意思を変化すると言う行動が社会通念に違反するならば、事業を集中化すれば高い利益率を得ることができるのに、経営の安定化のために事業の多角化・将来への手持ち資本投下で、株主への大量還元というよりも長期にわたって株主の還元を細く長くすることを社会と契約しているさまになってしまう。
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対するアメリカの企業観を「企業用具説」という。企業は所有者にとって利益を追求するための道具であるという考え方。企業は、株主に利益を還元すべきものであり、そのために生じる副次的内容(文化の構築など)はなんら意味を持たないし、利益を出さない企業が存続することは企業がツールとして使えないわけである。変われば生き残れるが強いて生き残る責任もないということ。また、副次的内容(文化の構築など)が価値あれば、そこでビジネススキームを得る企業を別途作ればいい。
2つの企業の考え方はまったく逆転しており相容れない。

企業が其の中身を外部環境によって変えていく場合、「企業用具説」においては、それに追従できない企業内従事者が入れ替わるか、企業を簡単に社会から消し存在をなくしていくことを正当と考える。一方「企業制度説」においては、変化した企業自体を社会が排除するか、社会のほうが「企業」をおいて逃げ出すことで関係を絶つ・・ことで当該企業の衰退・市場でなく社会組織からの退場を促す。
日本人は、粗悪な企業の延命より、優良な企業が代わるのが良いように一瞬思えるが、文化と考えると、粗悪な企業を延命させ洗練された企業としてすこしずつ対応させることで存続することが、社会に有益であると思う場合、文化の消滅をしてもそれは「淘汰の一過程」と考えるかどうかの差である。但し不幸にして粗悪になった企業の衰退、優良になった企業の勃興が起きていても、この間に文化や過去の経緯などが引き継がれないということが外部要因によって引き起こされ、それに対し対抗する資本力・制度・社会的圧力を構築する姿勢や財力が手持ちされていない場合、社会が逃避していくことで企業の存在をむずかしくする。この手法は「焦土作戦」に近いところもあり、代替する企業活動もなくなることを社会が容認することになる。
所謂之は逃散の一形態である。逃散は、中世から近世の農民抵抗の手段、闘争形態である。特に江戸時代における逃散行為では大百姓の指導で村中が田畑耕作を放棄して山林に逃れる形で消極的な一揆形態である。しかしこれは身を切る行為で、自己の資本を削り、へたすると死ぬことも覚悟する行為であるが、軍備をもたない(取り上げられた)農民には一揆のような指導層がいない場合は、この手法をとることが多かったようである。逃散は都市部へ流入し、貧民とそれに伴う犯罪の増加にかかわることもあったようである。顧客が減少する場合は其の文化の進歩が止まったということで社会的責任上から廃業というのを、むしろ文化構築の上から是認すると言う側面があるならば、変わらないから替えられることこそ企業の社会的責任の貫徹になるのである。どっちがいいかどうこうというのは従事者の論理構成のなかの優先順位に係わってくる。
「企業用具説」をもとに構築している経済活動を「企業制度説」で問題提起することは、本質的狙いが異なる以上本邦では成果を得ることは少ないのが現実。そうなると「変わらないから替えられ」ても、其の企業の社会的通念が変わることで毀損される以上、自主廃業や最小限の企業活動にまで価値を落として倒産するということを選ぶのは、日本的な桜に寄託する武士道でないにせよ、それなりに評価されるともいえる。創業の意思に反して企業を運営することは迷惑をかけない範囲で廃業(業務を他者に縮小した業容で移譲と言うことで自主廃業というパターンも含めると)というのはあろう。
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先般山水電気が民事再生法の適用を申請した。音響機器がアナログからデジタルに移行するのにあたって製造メーカとしての資産管理以外の活動はしておらず(一部の機器は技術の向上も限界でもあり開発がとまったので、製造を他社に移管した)実質的には活動はしていなかったのである。しかし、このように職員を徐々に減らし、採用も特にせず企業価値の滅却を極めてゆるやかにおこなった結果なのだが、株主配分の問題はともかく、企業の社会的責任という意味ではひとつの無理なき抹消にいたったとも言える。
私にとっては本例は、「企業制度説」のうえではきわめてきれいな企業の処理であったと考える。しかし、多分「企業用具説」の概念から見ると、バカ以外の何者でもなかったと判定するのではとおもうのである。

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