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「考える人」(1/2)

http://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosophy/president/conferment/
立教大学の2011年度大学院学位授与式の内容を読んで、うーんとうなってしまった。
ちなみにこの総長は欧州政治思想史が専門ということである。
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全文は上記記載を見ていただきたい。
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2012年3月24日  立教大学総長 吉岡 知哉
学位を取得された皆さん、おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
昨年3月11日に発生した東日本大震災から、1年と2週間が経とうとしています。(中略)東日本大震災が崩したのは、日常世界の物質的基盤だけではありません。深刻なのは、水や食料から社会制度まで、日常世界を構成しているさまざまな要素に対する「信用」が失われてしまったことです。(中略)高度な研究を行っている専門家や、著名な大学の出身者である政治家への不信が広がる中で、大学という研究・教育機関への信頼が失墜していったのは不思議ではありません。いま私たちは、大学の存在根拠自体が問われていることに自覚的であらねばならないのです。

では、大学の存在根拠とはなにか。一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。(中略)大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。ところが、東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった。(中略)
しかしさらに考えてみると、大学への不信はもっと以前から存在していたのではないかと思われます。ある時期から、もはや大学には「考える」という役割が期待されなくなったのではないか。
社会が大学に求めるものが、「考える」ことよりもすぐに役立つスキルや技術に特化してきたことはそれを示しているのではないでしょうか。大学について語る場合の語彙も、「人材」、「質保証」、「PDCAサイクル」など、もっぱら社会工学的な概念に変わってきています。
近年、大学の危機が論じられることが多くなりましたが、その際問題になるのは、「グローバル化」と「ユニバーサル化」です。しかし、人間社会が大学に、考える場所であることを期待しなくなっているのであれば、そのことのほうがずっと深刻な危機ではないでしょうか。また、このような変化の背景に、そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような気分が醸成されてはいないか、という点にも注意しなければなりません。反知性主義が力を得るための条件は東日本大震災以後いっそう強まってきていると思われるからです。(中略)
「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。皆さんの中には、これから社会に出ていく人も、大学院生として後期課程に進む人も、また、大学や研究所で研究者としての歩みを続ける人もおられることでしょう。社会人として働きながら本学に通い、これから次のステージを目指している人もたくさんいるに違いありません。皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。それは皆さんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。どうか、「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。
おめでとうございます。
-----------------------------------------終了----------------------------
多くの企業家にとって「考える」という事が企業内で熟成されている環境があったばあい、それを活用することは、企業の経営においては両刃の剣である。
考えるということは、いまある内容に対してそれを前提条件として考える行為は本質的に時代的・社会的行為であるが、いまある内容に対してその前提条件を崩して考えることは本質的に反時代的・反社会的であり、まさに多くの企業はお題目に時代的・社会的という前提があってこそ社会内の存立が維持されるからである。
この先生の問題分析は、学究の徒としては真理の極み、徹底的に考える上でのほかの「考える人」の発言の尊重ということも連鎖的に想起されるものであるが、逆にこのような指針で企業活動に入られた場合は、それは企業活動や経済活動という前提条件を疑う事が社会的のみならず、生計的にも死につながるということが、本邦のみならず全世界にあるのではないか。
例えば、いまや本邦の技術者・マーケティングなどまで含めた人材には自前でアイデアや製品を創造できる人材が求められているというが、その求められる内容は大きな制限付きの創造である。その制限は社会生活における基準が例えば法規制対応・社会的存在価値・経済性創出・・・・結果的に、独自性をもって考えたもののうち多くはどこかでひっかかって否定される。多分企業の中で考えて提案したものの1%が成就されたらしめた物だろうと思う。結果、その限りなく低い収率に疲れ果て、また成就しなかったものの99%に対する損失を労働対価の計算にいれることではじかれていく。その段階で「では別のことに」という発想を考えることができたら、そのフィールドでまた考えられる活動をすればいい。
とかく間違えやすいことだが、大学も教養教育を行うことを謳う。しかし、各学部の基礎事項を知識として学ぶ共通教育も、前提条件としてある程度は必要だが、教養教育としては考えるという行為の習熟訓練と習慣づけである。これをリベラルアーツと定義するなら、大概こちらは固有の人毎の差が起き易い内容で、規格化された指導内容になじまないとなると、手抜きされている傾向がある。
そして専門教育においても同じことはあろう。専門知識の基礎(電気工学なら・電磁気学とかいろいろありそう、)と専門知識の現実において如何なる運用・如何なる公知情報提供・知識運用の思考訓練(これなんぞは工業倫理を含めた専門職に対する職業倫理の議論である)も考えるという行為の習熟訓練である。
考えれば大学の卒論(私の場合は卒業論文ではなかったが卒業研究と発表会という形になったし、思考訓練はその段階で不完全ながらもやったような気がする)というのは本質的にはその過程が露呈されているものでなければならないはずである。(運用上そうなりにくい現実もあるようだが)そしてこのような訓練は、社会の進歩と内容の重層化でやや修士課程にその内容のウエイトをおく可能性が昨今、工業系の学校では出ているし、医療系の学校(特に医学・薬学・獣医学)は必須だからこそ6年間の教育という過程にかわっていく。」
ところで、大学という場の中で、思考訓練を行う場は少なくとも6年間という間においては(この式は修士・博士対象)出来るだけ達成されているべきものである。そこであくまで元来の意味での教養教育(リベラルアーツといっている例が多い)が与えられ、更に専門教育において場に応じて考えて問題分析を行い、それを解決することを毎日やっていくのが、高等教育(専門教育ではない)の場を得た人材が行う仕事であると考える。
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問題となるのは、同時代の齟齬を大切にするということは、ややもすると大学などを出た資質のある人がある程度職場のキーマンになっているような職場でたとえば5人中1人ぐらいがいる中なら、ひとつの存在意義として有効活用できるはずである。しかし、企業によってはチーム業務の中で、各自の意見をひくところはひき、生かせるところはいかせるという活動姿勢を行う場合、数多い業務の中では同時代の齟齬が所謂集約業務に対して明らかに問題を生じる場面があり、疎まれるのみならず社会性を失うということで思考訓練の取得内容が、かえって「資質」を生かせない側面になることを示唆するのを危惧する。
比較的このような各自の思考訓練が互いに相乗効果を持つのは、専門職の集合体(研究所・シンクタンク・専門分野がかさならない医療チーム・そして高等教育の学校)であろう。反対に類似業務を分担するところにあろう。
これは高等教育を否定しているのではない。高等教育の目指すものと社会の求めているもの(上述に従えば、「人材」、「質保証」、「PDCAサイクル」など、もっぱら社会工学的な概念の中での存在)が、各々最適化に順応して順応している中で、折り合わない側面が出てしまったという感じがする。
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たとえばこの大学の先生を香山リカ氏(現代心理学部教授)がしている。(彼女は医師としては香山リカ名義を用いない。 一方立教大学教授としてはペンネームの香山リカ名義を用いている。これは精神科の臨床医療のときには知名度が高い名前では身の危険もあるからだそうだ。この事例はほかにも聴いたことがある)昨今は政治的な発言をする中で、某政治家の発言に対しかなり食いついていた経緯がある。(最も彼女は公開討論などの参加は否定的であった。どうもこれは高等教育の中で意識している理想的な社会通念とそれに係わる心理項目を彼女が意識して発言しているのに対し、対する相手が社会工学な仕組み前提の意見で結論ありきの議論をしているということから、もとからどこまで言っても議論の合意点は得られないという仕組みを感じているとも思う)。
(続く)

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