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それは愛だ

たまたま、沼津駅前をバスにのるべく西武デパートに向かって歩いていたら・・・碑があった。
ひとつはC58蒸気機関車の動輪で当所に沼津機関区があった(其の昔は機関車の補機のつけはずしとか、電化と非電化の境界であるためそれなりににぎやかな現業機関であった)からこれはまあいい(ただし、沼津ではこの形式は運用実績はそこまで多くない。亜幹線用でもあtっため。)其の隣に赤十字の碑がある。存在は知っていたが碑文をは目が点に。
http://www.izuhako.net/library/entry/post_73.html

若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にない。
                           井上靖

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彼は旭川に生まれ、母の郷里・静岡県伊豆に育ち旧制静岡県立沼津中学校で最終的に学んでいるということからここに立ったものである。あれ、沼津って、1954年に米軍の水素爆弾実験による「死の灰」を浴びた第五福竜丸の母港だったかとさえおもったが、そうではない。(ちなみに水産の街ということはともかく同県焼津が母港。また、船は現在東京で保管)しかし、1963年8月に出来た碑であるので、多分にこの原子力というのはこれらの原子力というより、原子力爆弾などの兵器を意識をしているとはいえよう。しかし、其の力というのは平和利用も含めて「大きすぎて人間が制御しにくいエネルギー要素」という汎用的な意味を含めているようである。ただ、今になってタイムリーな内容になってしまった。
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ただ、碑文が今では、現実をあざ笑うがごとく、あまりにもタイムリーな内容になってしまった。
たしかに、彼の著作中には自伝的色彩の強いものも多いが、実は私は詩情豊かな作風とも評される、多少甘い感じの作風については、あまり積極的に評価する気にはなれない。どっちかというと歴史小説の方に着眼する。「風林火山」「敦煌」「天平の甍」という段階でかなり印象は強かろう。どっちにせよ映像がイメージしやすいのか映画・ドラマ・舞台化されるものは多い。残念ながら老年になってあらわした現代ものはよんでいないので一度は目を通しておきたいと思う。

となると、もしかして、彼は時代小説なりかなり長い時代認識を俯瞰してこの表現をしているのかもしれない。たまたまここでは巨大な制御できると見せかけて実は突如牙をむくものとして原子力という表現を使っているのだろうと思う。というのはこの碑には像がのっているのだが、これは母と子の愛情・母性ということを示しており、反戦とかいう政治的表現・意図が見えないのである。(まあそういう意図のものを駅前の、まったく顕彰の意図が異なる「動輪」の脇に設置するのも変だし)
歴史を日ごろから俯瞰する人だと、「大きすぎて人間が制御しにくいエネルギー要素」というものは人工ではそうなかったし、制御できたと思っても出来なかったというのはほとんどであるということぉ印象で持っている。大方は制御できない状況が察知された段階で、違う構造物をつくっていたり(建物の更新と同じ)、補強したり(建物なら筋交いを入れるとかの耐震補強)、ないしは見捨てる(鉱山跡なんかは最小限の維持管理のみである)のである。しかし、いずれにせよライフサイクルに関する視点は持たないわけにいかない。したがってこれらを対処することは一時的には出来ても、そこで新しい課題がおきて対処に苦労する。いい設備で公害のようなものがじょがいされて、社会的な安寧が図られても、今度はこれを維持管理するところで、コストだったり、人材だったり、社会環境全体の変化だったり、果ては意図的な問題発生(テロとか)だったりする。したがって害を除く行為から新たなる憂慮要員が発生するのであろう。中国の歴史でもそのようなことは緩やかなれども厳然として生じているという視点かもしれない。そうなると技術論・行政論以前に依存するものとなれば、心の持ちようしかすべが無いということなのか。となると、結果的には「愛の力以外にない。」と言い切るのがひとつのまとめになる。
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さて、では実用的に愛という事象が使えるのか。
さすがに震災原発事故以降「絆」という表現が広がり、それを実践している人も多いが、一方この表現を相互的な負担の転嫁・押し付けという認識になる人も増加している。ここで私はこの解決策をしたり顔でのべることはしないが、一流の文化人だから語れる歴史から見た一つの解決策も、学問で心理や心象を判断することを拒否する人には届かない。それは、一流の文化人である井上靖がいったということから、「結果的に学識のある人はは現実を抽象的に見て解決策を提案するから、可能性の無いものに引き寄せられる」という見方のかなあと思ってしまう。かくて絆という表現はいままでごまかしてきたことを責任をとらずに押し付けるという、デマゴーグに近い(意図的に虚偽の情報を流し、嘘をついて人を先導した)視点の責任転嫁という見方に立つデマゴーグまであり、多重性をもち始めた。だから、この碑文の前を人はたくさん行き来するのだが、意外と気がついていない人も多いようである。

そういえば、4月下旬に「わが母の記」という映画が公開されるが、この原作が井上靖である。(ストーリーは東京との二極展開)監督の原田眞人も沼津出身だ。この碑に関係ないとはいえ碑文の上の像が、母と子の関係を示唆しているのが、なんとなく意図せず関連してしまったのかなと感じた。

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