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手首が痛い(2/2)

(承前)
今回私は腱鞘炎(けんしょうえん)になった。手首と親指の付け根に痛みと腫れがある。職業的には筆記具を使う仕事に従事する者の発症例が非常に多いそうだが、私はキーボードと大正琴(苦笑)のやりすぎのようである。
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医者に診断を受けてきたのだが、同時になっている腰痛(これは過去の疾病の後遺症)との切り分けが必要であるというので大掛かりに診断を受けることになった。まあ大事にはならなかったようである。

ただ医者(老齢の人でした)に言わすと、医者自体が手首を腱鞘炎になっていることが発覚したので当人も苦しんでいるという。いわく、「電子カルテを業務上入れることによって医療業務の向上、リハビリ治療への最適化を図る」ということだったそうだ。しかし、医療事務の人はともかくカルテをキーボードで記載することは老齢の医師には結構負担で、常勤医師の負担は多くなる。かくて、この医者も腱鞘炎になっているというのである。8時間以上は毎日触っていることになるらしい。すこし仕事を制御する必要があると私はおもったが、いやいやそうは医者も行かないということであり、其の状況は私も同じである。
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さて、このような紺屋の白袴「紺屋が、自分は染めていない白袴をはいていることから、他人のことで忙しく、自分のことには手が回らないこと。類似:医者の不養生」ということはあるのだが、大概「わかっちゃいるけどやめられない」という段階で起こることはよくある。「わかっちゃいるけどやめられない」って親鸞の思想にも通じるかも。
たとえば、東京電力福島第一原子力発電所事故が発生した際の内閣府原子力安全委員会委員長であった斑目氏は、対応が政治判断の混乱や被害拡大を招いたという文言で語られる。彼は流体・熱工学の研究者であり、研究分野は原子力工学、原子力社会工学、原子力安全工学である。どちらかといえば現場主義の研究者である。
原子力社会工学、原子力安全工学となるものは、エンジニアリングにおける情報伝達や技術者の問題意識の啓発教育手法の研究に繋がる。しかも推進する立場を堅持しながらも、原子力村といわれる帰属意識と安全認識の啓発活動が形にこだわり、それに対して辛らつな意見を出していたのは知られている。だからこそ大学退任時に、原子力安全委員会委員長という辛らつな意見を出すことが自分の身に降りかかる部署に招かれたともいえ、昨今退任を言い出したのもこのあたりであろうが、逆に後継者が出てくるかというとまず難しい(=原子力安全委員会自体が成り立たない)のであろう。

そもそも、学者が行政に関与する場合、相互信頼が無ければならない。しかし、そもそもそれが構築されない状況で政治判断の混乱や被害拡大を招いたというのは現象面では正解であろうが、ではだれか信頼できる技術者がいたのかというと、実は聞く側のバイアスに従うことがまず前提であり、思うに聞く側のバイアスに従う該当者はだれもいなかったのであろう。もちろん言が入れられないから辞職というのもあったが、これとて職務意識という意味では薦められる事ではない。もしこれを融通無碍に活用できる、「御用学者」と揶揄される学者が来たところで、情報の発信(現地状況の収集)・情報の分析(これはあったとしても・・・)・情報の伝達(整理された情報を伝えるきわめて頑強な機構)がなければ一緒である。
つまり紺屋の白袴という状態があるということは情報の発信・分析・伝達があることにどこか完璧さを欠く状況が隠れているのであると私は考える。(情報整理を行う能力や余力がない・・・など)が、また其の問題解決をするには人員異動など、ほとんど勘定にあわない「公的投資に依存したクラスの」問題解決が求められるのでないだろうか。多分医者が腱鞘炎になって苦しんでいることの根本的解決は「声で言葉を記載する」様な機能であるのだろうが、まだ技術的には未成熟な上に、これは運用上のセキュリティーの問題の内包になるし、投資額から見ればまず採用には合わないと考える。つまり、解決できないことが残っており、改善行為というもの事態はそれをよそに押し付けまわすことになるという見かたもしなければならないだろう。
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しかし、紺屋の白袴や医者の不養生は、業務を全うにやっているというからおこる判断をする視点を、当該の仕事をした経験や知識・知見がない人には得にくい。かくて、紺屋の白袴や医者の不養生の具現化した人材を、「民主主義」による凡庸な人(含む筆者)はますます避け、「口当たりのいい」もののみが生き残るという世界も否定できない。
ガラガラポン(複雑になってしまった問題を、一度ゼロにして考え直してみること)を行うことをは言うがやすい。しかし、ゼロキャンセルが出来ない資本・概念・資産を持つ人民のなかでは、親鸞が所謂大衆向けの教義にするしかなかった「わかっちゃいるけどやめられない」ことを前提とした絶対他力を強調するなかでの以上、先が見えない世界があっても入り込めない世界であろうと思う。

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