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心因反応的なことならあろう(2/2)

(承前)
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「事情必要」君が代訴訟で最高裁が初の判断 日本テレビ系(NNN) 1月16日(月)21時30分配信
 東京都の公立学校の教員が国歌斉唱の際に起立しなかったことなどを理由に懲戒処分を受けたのは不当だとして処分の取り消しを求めた裁判で、最高裁は16日、「減給以上の処分を科すには慎重な考慮が必要」とする初めての判断を示した。
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 この裁判は、国歌の起立斉唱命令などに従わず、懲戒処分を受けた東京都の公立学校の教員約170人が、東京都教育委員会に対し、処分の取り消しを求めていたもの。

 16日の判決で最高裁は、このようなケースで減給や停職処分が許されるには「処分の相当性を基礎づける具体的な事情が必要」との初めての判断を示し、停職や減給となった教員2人に対する処分を取り消した。
 一方、過去に国旗掲揚を妨害したなどして5回の懲戒処分を受けていた別の教員に対する停職処分については、「処分が重すぎるとは言えない」として上告を退けた。
 また、戒告については、「最も軽い戒告処分をすることが裁量権の逸脱とは言えない」との判断を示し、戒告処分を受けた教員の主張を退けた。
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これ自体は、法律運用上の問題であるが、労働法規的には全うである。(「処分の相当性を基礎づける具体的な事情が必要」ということを明確にしたのはそれなりの価値があるとして、実質の法解釈に関しては勝訴うんぬんという話ではない。むしろ敗訴に近いのだが、その判決に対して被告が意味を見出していない。
さて、いくら批判してみても、残念ながら「国旗・国歌」を設定しない国は現段階では(内乱状態だった国などを除くと)存在しない。(多民族国家であって、複数の歌詞を持つ国歌はある。かつてのチェコスロバキアでは国歌が2つあり両方演奏していた)つまり、何らかの形で同等のものを持つ必要はある。ひとたび国歌の論争を始めれば、収拾がつかなくなるだろうというのは他国でも同じ問題をはらんでいるらしい(例:カナダ)。そうなると、単に大概の国では国旗・国歌は記号化しており、それに意味を持たせる行為は問題を顕在化するという認識があるのだろうが、日本では血の色とか、過去の大陸侵略の怨念という議論になってしまうというか、記号化するかではないようだということである。
そこで、
「日本軍の若い兵隊が中国人捕虜を銃剣で突くように命じられた姿が浮かんだ」
「『君が代』を弾こうとすると指が震え、胸がつまり、冷や汗が出てくる」
というのをそれは信じられないという意見を言う人も多いが、現実に被害を受けている人が身の周りにいてという人が50歳台ぐらいだと多くというのはなくはない。しかも「使命感」を持って、そういう時代を今後造ってはならないが、それにはまず子供たちに教育という立場で、其の意見を伝えることだという認識で、教育に身を投じるというのはあろう。
こういう人はしかも、ある意味教育に対してのモチベーションが(バランスがかけていても)やたらたかくて、目的意識を持って業務を行ってきたという人にある程度重なる。となると、その自分が天職としてまい進していた行動を社会の変化で否定される(しかも現場主義で出世も意図せずやってきた)となると、心因反応でこのような状況になる人が一定の割合で生じるのは大いにあると思う。
こういう人は思い込み激しく妄想の激しい人か、非常に頭の固い人とも思わなくも無いが、50歳ぐらいの人だと環境から考えてまんざらわからなくも無いし(又このころは教員採用枠はぼちぼちせまくなっていた)、教員の場合どうしても基本的に人に合わせて行動を変化させることが、教育手法として「悪いことは悪い」という絶対的指導が逃れられないから、納得できない人が出てきてもしかたがない。
もっと困ったことであるが、リベラルな私学(この中には必ずしも国歌・国旗をどうこうという指導方針を採らない場合もある)への転勤がこの年齢では不可能である以上、取れる手法は必然的に限られるわけである。さらに、このような独創的な意見を持つ人は守旧的な環境に満足できないことから、都市部の採用の比較的多い地域にどうしてもあつまりうるという見方もできる。だから、都市部に多くなるのではということはある、
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たまたまこの場合は、橋下氏の教育改革にからめて議論しているのだが、本質は「教育をトップダウンで推進していくことで、知的能力を向上させていく」という教育による社会的な金銭的(生産的)還元能力を大切にするのか、「指導される中での社会的な意義をどこにおくかは指導される側に近い教員の側にあるべきである」という本質的な目的自体のすり替わりにあると思う。つまり国歌・国旗の話には表向きなってはいるが、ボトムアップかつ現場主義的視点と、よく言えば国家千年の計画の中での教育の立ち居地の差であり、またエリートと其の考え方をよく理解した統制の取れる社会を目指すのと、各自が独自に考えた意見をもって実施していくというエリートというものに頼らない(存在を否定した)社会である。(要するに教育がだれのためにどのような位置づけであるかの意識差)
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個人の思想・良心から国歌斉唱の際に不起立をするということは、公教育の場合「逃れられない」変化という形で見直すというのはこれはあと20年はかかるだろう。私教育で「国歌・国旗」を重視しないというのは、まったくできないことではない(実際あるかどうかはわからないが、宗教的教育の場合国歌がなじめないというのはあるかもしれないなあ)。問題は公教育の場合、誰の意思を児童に展開するというのに関しては、「国の意思」に従わせるという意識付けとはことなるし、一定の価値基準を確定させないから公教育という見方があるからである。
橋下徹・大阪市長は上記判決について「思想の話じゃない。法令や条例に従うのが公務員で、僕の感覚なら辞めればいいと思う」といった。まあ、たしかに悪法でも法令や条例に従うのが公務員であるというトップダウン的視点で、法律の解釈の違いというy視点で最高裁の意見を判断しているならこれは正しいし、また教師にもやめるという選択はあろう(やめさせるという選択が問題なのである)。但し公教育が国のためにあるのではなく国民の自主的視点を育成させ、其の視点が法令に反映することもひとつの使命という社会的還元への導き(それは戦前の指導方針の批判から来ている)という私教育との比較からきていれば、そもそも意見は合わないことである。
国鉄解体のとき国労の不当解雇(これも解雇権の拡大解釈という意味で海外のILOなどの労働関係団体からは非難された内容である)において、結果的にこれが解決したのは20年以上たってからである。民間企業でもおなじ問題が起こると、15年くらいの争議は生じている。このことから、橋下氏の意図する活動を彼が思うような円滑さどおりに進むことを促すなら、中学・高校の統合による教員数削減などを強力に推進しないと成り立たないと思うし、訴訟まみれになることは前提であろう。
このように国が国民に周知する国歌・国旗に対する考えを変える場合、自身の信条に従って起立せず条例に背いて処分を受け入れるという教員が一定以上発生し、これは全体の教員のモチベーションに変化を起こす(良い方向もあれば悪い方向も双方ある)ことである。評価システムで管理・支配というのは本当は別の話であろうと私は考える。それを前提として教員が大幅に不足するとか、指示待ちのあまり熱心な意欲を持たない業務としての遂行に徹する教育者が増えるということを、私たち市民は甘受しなくてはならないということであろう。
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私は、国歌・国旗に関しては、本邦は他国の歴史との比較でも極端に悪い歴史を持っていないという認識を持っているので、少なくても公的なところで歌うことなどはさしつかえないどころか、逃れる必要も無いと思っている。ただどうしてもつらいのがスポーツの応援でいたづらに国旗を出すというのである。もちろん国歌斉唱・国旗掲揚などに異議をとなえることはないが、応援のひとつとして、顔に国旗を描いたりするのは偏狭な民族主義的視点を意識してしまうのである。

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