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黙れ!

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「早野黙れ」と言われたけど・・・2011年12月30日 (金)
 昨日紹介した東京大学早野龍五教授のTwitterでの呟きをまとめた記事がありました。
"「早野黙れ」と言われたけど……科学者は原発事故にどう向き合うべきか "(中略)
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 それにしても、東大当局が学者に対してかん口令を出したのですね。これはとんでもないことです。今までに経験したことがないことが起きている、こういうときにこそ、蓄積されてきた知見と科学的方法がその力を発揮するときでしょう。それを「黙れ!」とは・・・・。

 原子力発電に関して推進派なのか反対派なのか、なんてのはどうでもよいことで、データに基づいて分析をしていけば、自ずと立場の違いを超えた共通認識が出てくるはずです。主義主張はその共通認識をベースにしてやりあえばよい。私は、学者の議論の中から出てくるこの「共通認識」を知りたいと思ってきました。自分の立場や主張に都合の良い「事実」だけを拾い集めて何事かを言おうとしている人たちが(推進派にも反対派にも)あまりにも多くて、正直唖然としていました。これが今の「学者」たちの知的レベルなのか・・・と。
 そんな中で早野氏のTwitterでの仕事は、本物の学者のやるべきことと注目しています。最後の世間の注目度と、家人との対話の減少を示したグラフは笑ってしまいした。
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「黙れ」ねえ。
かつての「国家総動員法」において、そのトリガーになった事件に「黙れ事件」というものがある。
1938年3月陸軍省軍務課新聞班長佐藤賢了中佐は委員会審議中、長時間の法案の趣旨説明を行ったが、あまりだらだらやるので、議員より「いつまでやるつもりだ」という趣旨の野次が飛んだ。間の悪いことに其のときの質問者は元陸軍軍人で佐藤の陸軍士官学校時代の教官であった宮脇長吉議員であったが、佐藤は「黙れ!」と恫喝した。私権の制限であり社会主義的であるとの批判があり、既成政党も憲法違反という意味で反対していたし軍側も認識していたが、戦略の統制が既成政党では取れず政府や陸軍に押し切られた。この事件は既存政党の非力さを示すことになってしまった。
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さて、余談は之ぐらいにして、私の通っていた大学の中には敷地内に幹線道路が通っていて(ちなみに公有地)其の上そこには大学をすり抜けて先の集落や団地に行くバスが頻繁に通っていた。(今もそうである)だから事実上大学の管理区域にはならないはずなのだが、当時は道路に「ここから先は大学用地につき警察関係者の入校を制限する ●●大学」という看板が立っていた。(柵やフェンス、門扉はない。)では実際どうかというと、この場所で交通事故が起きたという場合、(これは警察権の放棄を意味するような案件ではないから)警察官がくるが、必ず大学の担当者(これが所謂事務方でなく管理職たる教授クラスなんだそうな)が立ち会うということらしい。
けどこれは、学問の自由を保障するための制度保障としての大学の自治に関する事項としては境界領域なのだそうな。この事例は、学長・教授・研究者の人事、大学の施設や財政の管理などの内容というよりも、その外部への付き合いの議論である。日本では大学は治外法権を有するわけではないから、正規の令状に基づく捜査を大学が拒否できないし、大学では収拾がつかない不法行為がおこりうる場合、緊急時・大学の要請による警察出動がある。問題は、治安維持の名の下に学問の自由や大学の自治を侵害する問題はあるし、もっと問題なのは内部的な自己規制で、「自立的」に制御が行われることが過度になるという、ある意味無意識下で行われる行動である。
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ところで、大学当局が学者に対し緘口令を出したということに関しては、今回の場合いろんなところでこのような事例はあるらしい。日本気象学会が放射性物質の拡散予測の公表自粛を研究者に求めたというのもある。これは『学問の自由』を保障するための制度保障の中では、他の『学問の自由』維持のために緘口令を出すということはあるということを図らずしも示も示した。以前は文系の学問では(実学系であるか否かを問わず)そう無いわけではなかったと思う。
東大教授(法学)戸水寛人であったが日露戦争開戦時に同僚らと「七博士意見書」を提出し、ロシアへ武力侵攻しバイカル湖以東の東シベリア占領を強硬に主張した。さらに彼は日露戦争末期に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とする主張をした。(国力として無理があったが、正しい戦況が伝わっていなかったともいえる。)このため文部省は戸水を休職処分とするが、戸水は宮内省にポーツマス講和会議の拒否を上奏文として提出し、紛糾の上、板ばさみになって山川健次郎東京帝大総長の解任まで発展する。ただし、帝国大学の他の教授は学問の自由や大学の自治を侵害と抗議され、戸水寛人は復職する。(もっともその後の戸水は弁護士と衆議院議員をしているが、一方証券詐欺や投機で塀の上を歩くような行為を行い悪名を残した。)
こういう極端な事例はともかく、(そして戦中においては枚挙があらゆるものに対象となっているのでこれも取り上げないとしても)元来学問の自由に対し大学が学者に対し処分を行うことは決して少ないとはいえない。しかし、大概の場合教授陣が全面辞職などの問題が起きるなど良心に伴う罷業などはあったわけで、其の意思表示がされているわけである。
今まではこれが理系の研究に対して行うことは極めて少なかったのではと思う。それは、いままでの理系学問は専門職としての内容でリバースして社会に還元するには、一旦政治(たまに軍など)や経済への関与の上で展開されるという特性が大きかったからと思うし、情報は中間で整理(というか「加工」)されて外部に伝わるという側面があったのではと推察する。そのため、学者が学説などで外部に提案してもそれが市民に届くということがそう多くなかった。伝わるのは製品や成果として社会還元された後だった。たとえば研究者がTVにで出るといった場合でも、放送局というバイアスはかかる。そもそもメディアは本来正しい情報を伝える使命だが、同時に営利を目的とした民間企業でもあるし、混乱の責任を取ることで企業が存立しない側面もある(例:西山事件後の毎日新聞)。講演会などで発表しても、多くの市民は其の発表の場面にたどりつかない上に、所謂ロジックを組めないとか前提情報があまりもてない市民が聞いて解釈していてそれがあさっての議論になってしまうということも多かったからではと思う。
ところが今は、IT技術の発達で発信する側の敷居も低くなるし、(同時に受信する側の敷居も低くなり、簡単に引火炎上するところもあるが)いままで、社会に対し意見が直接的に通らなかった理系の研究者の発表環境がかわってきたということを感じている。したがって、これは意見を言うときは職をかけて語るしかないという、意見をいうものの姿勢を理系学問でもたなればならなくなったという見方になるのではと思うし、これ自体は抽象的学問と実学の間での見方の差は出来るだろうが、いままでそこまで議論にならなかったことがとうとう社会の中で理解の研究にも及んできたと私は解釈する。
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反面教師的に見れば、警告は受けているが、それ以上の解職などの要求を事務方はしていない(事務方に判断する能力も無い)ということもいえる。(もちろん教授職など継続雇用が前提の人たちがある意味首をかけて言っているのと、非常勤講師が言っているのとは扱いがぜんぜん違うのだが)
このことは瑣末な例であるが、2010年に首都大学東京の先生が以前「ドブスを守る会」というVTRを生徒がつくったことを暗黙で認めたによって解雇されたというのがあったのだが、其のとき私はこう書いた。

でも、教育方針自体は恣意的な考え方でいくらでも変わる。TOPが君子であればある程すぐ変わる。したがって、学生の行動を否定するまではまあしかたがない側面が多く、指導責任を問うまではあろうが、そこで学問の存立意義を問うような言動をする次元で発言を吟味する行動をするならば、そもそもこの学部の存在価値自体が大学でなく技術の雛形を習熟する講習を行う専門学校でしか意味でないという見方をしている。学部のあり方も含めた今後の対応を決めるというなら、芸術に関する姿勢を明確にしないとならない。できるだろうか。

解雇という行為を甘んじて受ける事例として、具体的行動をしていないのは一応『学問の自由』に対し声高に社会的な存在として学問の特性を恣意的に捻じ曲げていく人間に対する単なるポーズという気がするところもある。(そもそもこのような指導がされたということなら、外部公開した段階で解雇材料になる。
それと、組織の論理が科学者個人の活動を封じ込めるケースは今回多くなっている。先に述べた、日本気象学会が放射性物質の拡散予測の公表自粛を研究者に求めたのは、組織の論理ということのほかに、気象の専門家と放射能の専門家がほとんどダブらない領域で、いい加減なことをいうことで結果的に「科学者を信頼しない」という風土が生じる現実があるということもいえよう。
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このような視点を、理系の研究では比較的逃れてきた。(それでも医療問題などはきわどい問題があったが、そのような問題を倫理概念や「ナイチンゲール精神」とかいう言葉で責任を負うなど、分析という視点を出しても意見をかわされてきたという側面もあろうと考える。)
データに基づいて分析をしていけば、自ずと立場の違いを超えた共通認識が出てくるはずとは思うのだが、今回はデータ自体が自力測定できる見通しが立たないなど、情報自体が伝達先のバイアスを強く受けている。(もっとも同じ事は阪神淡路震災のときも、また福知山線脱線転覆事故のときも同じ)もちろん其の問題をすぐに見出だし、データの問題を問題提案するということはひとつの見識であるのだが、今度は情報を受ける側で、基礎的知識が不足している(それだけ高度な前置条件があるとも)そのため主義主張を立てるための共通認識が成り立たないということもいえよう。そうなると、多くの研究者で問題意識を持つものこぞが、返って発言を控えるという人も多かったと思う。
学者の議論の中から出てくるこの「共通認識」を知りたいと思っている人は心ある研究者・実務者には多かったと思うのは私も感じた。しかし、もともと其の共通認識をするための環境や情報量に問題があったのか、情報にはまったく正反対の情報が流れてくる。(このことは福知山線脱線転覆事故のときにもあった)こうなると
●其の情報が判断出来る状態でないと認識している学者こぞ、何もいわないのが、学者の良心である。
●今ある情報を取りあえず纏めて報告することを責務と考える学者の場合、自分が手にはいり理解できる情報を取り込むと情報の偏差のため、意図せず願望を主張するような視点になる。
●社会的要求(それは、上述の大学による内部的な自己規制で、「自立的」に制御が行われることも含む)で、自分の立場や主張に都合の良い「事実」だけを拾い集めて何事かを言おうとすることで、その後の社会のイニシアティブを狙うという学者というよりはアジテーターに近い立場を演じる。
という選択枝が生じることになる。
其の情報が判断出来る状態でないと認識し何もいわないのが、学者の良心であったとしても、それを言わなければならない(うそとなりうることがわかっていたとしても)と感じ職を辞した学者もあれば、良心と能力に従いいわないことで資質を疑われた(・・・まあ、感情論から見れば信じられないが・・・)学者もいる。(上で引用した原稿にも其の当該者が作った倫理資料があった(震災後この記事はリンク切れになっている)のだが・・・
これが今の「学者」たちの知的レベルなのか・・・という嘆きは私も当初感じた。けど、私は、学者の議論の中から出てくるこの「共通認識」なぞは、あまりにも大きな技術の検討と事例、成果と失敗、の事例を把握できるということを考えると学者一人の知力ではすでに収斂できない。自分の立場や主張に都合の良い事実だけを拾い集めてしまっていること自体、整理能力を超えているため限界になっているという気もする。多分同じ事故が1960年代に起こったとて、いう言葉が信義にもとるという人は発言せず、やっぱり「学者」たちの知的レベルはこの程度しかないという意見しか出てこないのではと思う、内部相反を抱えている。
専門外のことには口を出さないというのは多くの科学者の正しい態度である。しかしそれが、場合によってはこれが通用しないということは、ある。一人一人が何も考えなかったかどうかはわからないが、組織の論理が科学者個人の活動を封じ込めるケースは原発事故後に散見される。日本気象学会が放射性物質の拡散予測の公表自粛を研究者に求めたのも有名な話だ。(しあkしこれとて強制ではないことに注意)
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放射線測定はともかく、被ばくについては本件以前は、素人同然だった早野さんの発言の意味は、基礎データの確実な出所の確保と市民(用語としては「公衆」)への伝達であろうと考え、其の点を指摘したのではと思う。つまりそこが確立されないと学者が共通認識を持てないため議論ができないのを指摘したのであるわけで、根源に返ってものを見ている高度な知見である。そこに気がついたというところで、研究者の学識と考える。
ある意味、唐突に現れたともいえるボランタリーな専門家が、ツイッター上で信頼を集めることができたのは知りたい情報をタイムリーに届けてくれたことが大きい。(もちろん、知りたい情報をタイムリーに届けてくれたということは其の信憑性を議論する人間には返って非難の対象になるという皮一枚の行動である)
当然、単純に危険か安全かの二者択一を迫る質問は意味がないと考える人はロジックを立てる形の人で基礎的な視点が高いとおもう。根拠に基づいてた危険の想定を、利害に捉われない立場から理解できるレベルでく解説してくれる情報を求めていた人は一定量いたと思う。分析する上でどんな情報が不足しているかを指摘し、寄せられてきた専門家の分析を評価しながら、情報を編集するプロセスをオープンにする。基礎的な手法でロジックを立てる知識と、心理的余裕がある人には好適である。
逆にそれを受け容れる余力のない人が本当の被害者でもあるので、実効という意味では批判するやからもいかねない。そのような社会が求めているのは、情報を把握できない段階で、しっていたらなんらか既に考察していた内容(つまり誰も既知の情報では推察できない)を元に、社会が求める形での推論である。、
出来ないという言葉があれば其の意見を二度と社会に聞いてもらえないという、「共通認識」よりも答えを執拗に求める本末転倒の無謀な要求である。そして其れを求める人がいる以上その人たちの税金からも、国家や大学が運営されているのでもある。●●の壁ということをいうのはおごりかもしれないが。
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危機的状況で、専門家が最大限に力を出し、専門家の近接領域の人も役立てる活動をするにはどうしたらいいか。そもそもこれを考えるともともと学問というものを分化させるほど膨大にさせたということを、恥じるということになってしまう。しかしそういう状況ならばもともと科学を使った高度なシステム自体が作られない。
つまり、組織の論理以前に自分に信念(一応公衆性のある)ものをもつ科学者を育成し、かつ其のうちの1割でもこういう活動が出来ればそれでよし・・・という形にするしかないのではないか。

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