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もう食傷気味(2/2)

(承前)
先日の記事にしかり、新聞でもこれはいかがなものかという記事があるのも事実である。(http://dehabo1000.cocolog-nifty.com/holder/2011/12/post-f8e9.html)但し、そういうものの選別はある程度で切るという読者であるという仮定をしたところで、完璧に信頼できる個別情報「のみ」が知識でであるという姿勢は、実は非常に困ったことになったことではないか。
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インターネットの普及が日本よりも早期(というか世界的に見ても先行した)韓国では、マスコミの記事よりインターネットに流布される情報の方が優越されるネット社会が日本よりも多く構築されている。これは報道に関する機関が少ないことを意味しない。新聞の普及率と絶対的購読数は世界的に見ても高い(これは日本時代の新聞社が活動していることも考えればよい)放送局に関しては長く民放が抑圧され(国営放送への統合)たことで、報道の「大本営発表化」という根本的不振があるもののチャンネルもおおく、民放も再度増加している。しかしこの社会の信頼感のためインターネット上では誹謗・中傷が相次ぎ書き込まれ、憶測が憶測を呼ぶことでやがて真実と疑わなくなるいう抑止が効くものがまったくないというのでエスカレートする側面がでている。
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これがドイツのように全国紙が事実上赤新聞(ふるいなあ・・・イエロー‐ジャーナリズムともいう。扇情的な暴露記事を主とする新聞。この表現は明治中期、黒岩涙香率いる大衆紙「万朝報(よろずちょうほう)」が赤がかった質の悪い用紙(再生紙)で、暴露摘発記事を載せたことに由来)になっている全国紙「ビルト」と、高級紙のように分かれれいるなら、あたまから報道によるモチベーションがある人と、頭から係わらない人が分かれてしまうという形になる。欧米のような階層社会ならまあ之でも成り立つのかもしれない(どうもそうでもないらしいが、)。なお、世界で最も売れているイエロー‐ジャーナリズムの新聞はビルト・その下に東京スポーツがあり、直後にザ・サン(イギリス・・こちらもイギリス大衆紙のTOPである。そもそもセンターホールドのヌードグラビアが有名))が続く。
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まあ、確かに新聞記事の特性をよまないで単に情報の仲介者であると無問題に取り込む時代ではない。昔は世の中の出来事を知る、知って知識・教養として身に付けるためには大いに新聞を読みなさい。といったものであるが、深く出来事の真相を追求できる環境が整うと、新聞社・新聞記者のフィルター具合が無視できないことがある。さらに、ある種フィルターをかけて都合の良い方向に誘導することは、世論の形成という意味ではじつは任された業務のひとつ。だから「ちゃんとした世論構成ができるならば」ペンは剣よりつよいのであるが、前提たる世論構成ができてるかの問題が大きいのである。

 その意味ではまったくニュースを知らないですごすことができるかというと、実は単に生きるだけであればそれで十分などだろうといえる。そうなるとまったく興味を示さない世界の人は新聞を読まないか、知らないことをそれでよしとする生活が是だろう。TVですむものならそれでいいという人もいようが、これとて(比較的中庸なNHKでも)フィルター具合が無視できないことは多い。いや、社会の木鐸的公平性を持つBBCでも、意識のトリガー(要するに無駄に促すだけともいえるが)をたかめることを第一とするアメリカの報道機関・さらには国民にプロパガンダによる宣伝による弊害を全体主義下・マルクス主義下で露呈させたため、報道機関への信頼性や情報の伝達に関するマスコミの効果を、峻別能力がある知識層以外で否定する世界にあるドイツでは、もともとそのような「公正という」意味でのマスコミはありえないという見方になる。本質的には記者・経営者・政治のフィルター具合が見えない以上、信頼という話にならない(というか社会システム自体を信頼していない人がそれにも対向しない人も多い)のである。

その意味では比較的読者が基礎地域があり、断片的知識を纏めて構築できる資質がある人物にとっては、ネットの新聞記事のベタ記事情報というのはひとつの見方かもしれない。これは、通信社の元記事にたどり着ければひとつの成果にはなる。以前はサイトもない時代にはそれができなかったのだが、共同通信社による配信記事をそのまま用いたものが多い新聞社を買うとく、通信社原稿をほぼ生に近い状態で読むことのできる(逆に記事作成能力の低い)かつての東京タイムズ(廃刊・やや高級紙の論調であった)とかが貴重な存在で、そのニーズが高かったともいえる。今でも産経新聞の記事をそれ目当てで読む(つまり産経独自の論評をまったく読まない)ニーズもあるらしい。但し比較的読者が基礎地域があり、断片的知識を纏めて構築できる資質がある「と思い込んでいる」人物のほうが圧倒的に多いのも事実であるのだろう。
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実際、新聞記者の質がどうこう(たしかに、旧知の知り合いが新聞記者となったのをきいて、あんなやつが記事をかかれてはという話は多いのだがorz。)ということでなくても、関連知識を得られる能力があればベタ記事で足りるということはわかる。但し、そのような関連知識を得る、ないしは問題意識を持って批判的に見るための意識構成を考えるということでは、新聞ぐらいしかじっくり読み返すというTOOLがないし、所謂大衆雑誌は更なる編集者の意図が強くなっており、これまた使えない。
とはいえ、個人的情報源のみが信用に値するという意見というのは、確かにある意味信頼はあるのだろうが、それができるほど個人の人脈が広い人はこれまたいないし、どうしても付き合う人は偏ってしまうのである。たとえば特定宗教の人の知識層に、地縁などの問題で偏った状態であるが其の意識が認識できない人たちの中で、さらに関連知識を得られる能力があってもそのトリガーが得られないという場合、ベタ記事のみで断片知識をえてもそれの有機的結合が期待できないとなれば、この方が大きな問題である。
新聞を読まないなら読まないで生活はできる。TVを見ないから生活ができないとは言わない。孤高の位置を占める生活もあろう。しかしあくまで社会の中で公益確保という内容を元に生活するなかで、意見を見て日々反省するにせよ、信念の強固化にせよ生活の大方・其の人の生きる社会的に必要な場合(それを超越している生活をしている思想家や、逆にパンのみで生きることが是であるというある意味確固な意思を持つ人ならいらないですむのかもしれないが)ネットニュースやベタ記事だけで、最低の情報による生活はこなせるものの、より練られた生活を送っていくことは、よっぽどの基礎教養があっても困難であろう。
まして工学・農学・金融などの経済学のように実学のかかわりがある人、ないしはその周辺に係わるサービス業などの一連の業務にて、一切ベタ記事しかニュースソースにさわらないとか、人脈のみで形成された情報源のみを使用するという「たが」をはめることは、踏み間違えれば智への自殺行為であるとさえ私は感じる。確実な事項を得るのも必要だが、本当はその確実な事項を得る過程を探り、仮定の組みなおしを適時行う行為こそが、実学には求められる。
確かに人間はパンのみで命を維持することはできるが、人として生きることはできないのである。其の点から見てまことに残念ながら、(「日付以外はみな誤報」という新聞への批判、イエロージャーナリズム以外に旧共産圏の御用新聞も言われることらしい(苦笑)) 駄目なニュースが適度に混在しているからこそ、ある程度のビジネスパーソンには反語的にいい新聞という気もする。(なお、「誤報」とは、正しく伝える意図なのに間違うことだから、正しく伝える気がない記事は「誤報」かという話があるのだが・・・)
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サテあなたは正月の新聞をみてどう感じましたか。
今年もよろしくお願いします。

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