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さぼってないよ、オレは

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111007
2011-10-07 『自分のアタマで考えよう』内容紹介(叱られたからやり直し!)
(中略)
もうひとつの理由は、昨今の「問題解決力ブーム」です。学校でも職場でも最近はよく聞く言葉だし、その方法論に関する本もたくさんでています。中にはすごくよくできた本もあるんですが、問題解決の手法を学ぶ前提として、「考えるとはどういうコトか、理解できている」ことは必須です。
ところが学生の頃の自分、働き初めてすぐの頃の自分を思い出すと、それさえわかってなかったような気もするのです。そして、「まずはそこから理解するための本を書くのも、意味があるかも」と思うようになりました。
ずいぶん前ですが、大前研一さんの『敗戦記』という本の中に、彼が日立で働いていた頃のエピソードとして、勤務時間中に机を離れて会社の敷地内の庭を歩きながら考えていたら、「さぼるな!」と怒られ、「さぼってないよ。オレは考えてるんだ!」と反論したというエピソードが載っていました。
スゴクおもしろいな、と思いました。日立とか東芝って博士号を持ってる人も多い会社です。大前氏の部署も研究部門でした。にも関わらず、「考える」って何なのか、組織としては理解されてないんだなーというのが印象に残りました。

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この例に限らず「考える」という概念は誤解されていることが多く、表計算ソフトをいじってれば「考えてる」と思ってる人もいるし、本を読んですごく勉強になったから「今日はよく考えたー」と感じる人もいると思います。
でも、ちきりん的にはそれって「考える」とは違う作業なんです。分析も読書(&知識の吸収)も意義はあるけど、でもそれは「思考」とは違うと思うんです。
そして、「思考って何さ?どうアタマを動かすことさ?」ということを、もっと直接的に扱った本にしてみたいと思いました。
(後略)
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自分の著書の宣伝の文章であるが、結構「考える」って何なのか」ということは、どこでも悩むようである。もっともこの内容が抜群かというと、まあそうでもないと私は思っているところもある。しかし、それを知らない人に対しわかりやすく理解してもらおうという視点に対しては共感するのである。

知人は大手の製造系企業で働いていた。そこで彼は製造品の基本意匠とそれに係わる商品戦略立案などをしていたのだが、そこでも事務所で手を休めて考えていたら、「さぼっている」と解釈されてしまい、上長と衝突してしまったということをぼやいていた。要するに「考える」行為は理解されにくい組織というものはあるようだ。
研究所なるところにて仕事をしていた私も似たような経験をしている。まさに其の環境は大前さんと似ている。
机上で考えてもなかなかおちついて考えることはできないし、電話がかかったりすると其の思考は中断される。幸いにも最初にいた研究施設では大きな研究設備があって、2週間に1回ぐらいはそこでこもりきりで実験などをすることはある(その意味では個室があったとも言える)のだが、常時そこにいるわけでなく、日ごろは設備がとまっていることも多い。そこで、勤務時間中に机を離れて機械の置いてある会社の研究室の中を歩きながら考えていることはよくあった。こういう実験室の場合は、ところどころに机もあるので思いついたことをメモする紙・ポストイット類を持っていけば、結構考える環境になるし、「そうならば基礎文献を其の視点からよんでみよう」となればすぐそこから図書館にいけるという環境であったのである。
一度「なんだか誰かが研究室でうろうろしてると思ったらあんたか・・・」といわれたことはあったが、そのときはまさに相手も同じようなことをしていた(苦笑)である。
しかし、さすがに会社の敷地内の庭というわけにはいかなかった。研究内容を考えるのに中庭では、どんな人がまわりにいてるかわからないし、メモをかけないし来客で他社の研究者がいるということもままあるということもある。
そしてそのうち転勤で設計・開発部署に私は異動した。業務内容はさほど変わらないのだが敷地の関係もあって、机のほかに研究室ではなく実験室がある。こちらは共用であるがそれ以上に実験作業の専門の職工さんがいてデータを取るときの追加加工や測定の補助、データの整理などをする人がそろっていたのである。
そこでも私は同じことをしたが、見事に上司にやめなさいといわれてしまった。しかなく従ったのだが、後にその指示をした人と酒の席で話し込んだことがある。お互いにこのことを覚えていたのである。

 考える過程でなにかと本を見たりするのは必要であるが、それだけで物ができるということはないのが製造業。

 私たちの企業はは実験結果や論文を作成することで収益を得、社会に成果を還元することが主となる成果ではなく(それだけでの収益というものも知的財産の外部販売とかでゼロではないが)それをいかに製品として販売することによって、社会に成果を還元しながら、収益を得るのが担うべき仕事である。

 研究や開発・設計のように難しい仕事を苦しみながら創造性を持って成果を得る部門も在るが、一方製品を世に出す過程では創造性を持つことが職分として好ましくない部署もあるし、また勝手に自主的な動きをせず決められた仕事のみを行うがすこしのミスも許されない(ある意味人間的でない)仕事を担う・・・つまり創造性を殺して仕事をすることが職分である・・・人もいて、これらの人との共同作業により開発を含めた企業活動は成り立つ。

 実験職員のなかで熟練実験工さんが、実験指示に従って評価をしたり、其のときの実験による特異な状況などを我流で判断することをして、情報や連絡が恣意的に途絶えることがあっては、設計者や研究者は仕事の成果を得ることができない。同じことは経理業務・知的財産の外部調査や侵害調査などの企業活動に必要な間接業務支援部門でも、恣意性が許されない業務に係わることは多い。

 このように、企業の中には創造性を持つことが職分として好ましくない部署もあり、ルーチンワークにおいてきわめて高い技量を発揮する人と、創造性を持って成果を得る能力を持つ人は、必ずしも重ならないし、かなりの場合互いの仕事の進め方に対して理解ができないというのが残念ながらおおい。創造性を持つことが職分として好ましくない部署の業務を担う人の視点から見れば創造性を持って成果を得る業務に対して指示に従ったり、情報を伝達するのはお互いに思慮をしながら行っているし、疑心暗鬼のままやっている場合さえときにある。

 創造性を発揮する人の行動を、ルーチンワークにおいて技量を発揮する人は納得できない。しかも、其の齟齬の結果、お互いに情報の共有化を図らないで多少の不信感を持つことで業務が滞ることは、実際に多い。そうなると創造性を発揮する人の行動がルーチンワークにおいて技量を発揮する人に伝わるためには、振る舞いの中でさえ相互に信頼できる余地を作っておく必要がある。創造性を発揮する人の行動を、否定的見解でつぶすことがルーチンワークにおいて技量を発揮する人が可能であるし、またルーチンワークにおいて技量を発揮する人創造性を発揮する人の行動を、創造性を発揮する人が否定的見解でつぶすことが可能である。

 そうなると、業務の中でルーチンワークにおいて技量を発揮する人に対して理解されやすい行動をとるように配慮するということで、お互いに仕事をやりよくしていくというなら、ほかの人が理解しやすい行動・振る舞いが求められる前提は分かるのではないか。

いや、この著者の意図していること(外資企業を経験してきた人のようで、それなりに高い知的訓練をしていることはわかる)に対しては、たとえばシンクタンクのように成果物が無体形情報だったりサービスだったり、ないしはその周辺の業務においては構成員の大方が創造性を持つことが職分として求められるというなら、十分理解できる。しかし、実際そのような業態では受け側が「創造性を持つ」という業態に対して納得している顧客のみに対応するということになるのだが、製造業はあくまで分業体制によって成り立つ側面があり、また高い成果を求めるには各々の技量を有効に発揮する必要があろうとしても、理解できないために仕事の受け渡しや分担、日程管理を含めたマネージメントを阻害する要因は排除しなければならない。
著者も業務上創造性の高い業務をしているということはわかるが、その成果の取り込みを誰が担うかによって、「考える」という概念は誤解されているというより、考えるという行為はそれ単体で第三者が理解できるものではないから、少なくともそれが共同作業の中で共有されるような環境にしなければ、創造性の高い作業をしてもそれを第三者が評価しないことで、徐々に考える行為をさえなくなってしまうということを憂慮するという見方も成り立つと思う。
 このようなことはたとえば海外企業が「研究所に、休憩室を設けた」とか「懇親設備を整備して」ということによってスキルをあげるということでうまくいくというとしても、本邦ではこれらの行為が研究者の資質が上がるより研究者以外の人員(シンクタンクとて経理部門とかの後方支援部隊はいるし、経理業務の煩雑さのため日本のシンクタンクはこのような後方支援の人材を多く抱えないと仕事が回らないという事情もある)のモラールダウンを促してしまうということになる。逆にアップルにおいては「研究所に、休憩室を設けた」とかいう独創性の高い活動が話題になるが、これはファブレス的な企業形態をとっていることで、考え方の異なる部門を切り離して、製品としているから企業統治がなりたっているのではと思うことがある。(その意味では日本国内でもキーエンス社は近いかもしれない。中途退職者が多く、技術継承が自社に蓄積されないということもあるが、其の分技術系等の異なる製品を、改良という踏襲を経なくて開発し互換性がないものを作るというのまで似ている)
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大前氏自体は考えるといってもこのように「考えることをきわめて高く突き詰めていく」人であるが、其の成果を第三者に理解してもらうにが、スキルが高すぎて追従されないということがある気がする。で、もし彼が誰にでもわかるように平たく説明することをしたら、多くの場合には散漫になってさらに理解できないものが多かろう。
一時の政治活動のことから、頭がいいが、理解できない人からの同意がいただけないようには話を砕くことが困難な内容が多くリーダーシップが採りにくい人であると思ったこともある。(おまけに、彼の政治団体が解散したときに持っていたバスを某バス会社が中古で買い込んで、路線バスに使っていたのを見たときに、バスを持つ政治団体って極左・極右の特殊な例しかないのになんで・・・・と思ったりしたので。ORZ)
ただ、そうはいっても昨今の原発の件を出番を見て、、彼の説明はさすが、この分野で学位を取得しただけに、素人クラスまでわかるような話をしており、「なんだ技術屋さんとしてならえらくわかりやすいじゃん」と思った。そこで、なーんだ基礎能力が高すぎ(また合理性の高い思考は、それをトレースできない人には意味がなく、理解というより信頼というほうが追従して賛同されやすい)、理解できないということが彼の技術経営論には多いので、誰も取り入れないということなのかと合点したのである。敗戦という以前にすべてにおいてすり合わせが必要で、すべての関与者が(全うな理由でなくても均等に)ポジティブ・ネガティブ含めて関与するような社会では、不当でも議論の質を落とすことがない以上先に進まないが、大前氏はそれが納得できなかったのではと。

そう言う意味では、「考える」って何なのか、組織としては理解されてないということでは必ずしもないのではと、私は思っている。「考える」ことを可視化することが実績でもアクションひとつにとっても均等に重要なのだという現実である。
業務分担という企業内の本質と「すり合わせによる詳細な設計検討が求められる、原子力を元とした機械設計や研究の現場」という日本的企業の成り立ちと統制手法(製品特性というよりもマネージメントに求められる社会特性)においては、「考える」というのは構成要素のひとつということであろう。
製造業においては特段優遇をしたくてもできないし、価値基準をできるだけあわせてもある程度のスキルがある人員が多い分ぶれる現実を考えると、自己矛盾が元来あるということを統制できる能力が「企業体」のなかでは、明らかにすると階層構成前提となることによるある一部の職分における、強烈なモチベーションの劣化、モラールの損傷を誘発するため、均等性を保たないと成り立たない。社会の構成内容に合わせなければ考える行為さえほかのものに劣るとみなされるロジックの人による触れの現実をを、社会に対して利益を還元するという企業ではやはり無視できないという側面。この話はそれを示しているのではないだろうか。

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