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花火大会と科学認識(2/2)

(承前)
つまり根拠というものが多様化どころか離散化しているという場合(たとえば理工学系の知識と社会科学系の知識が相克した場合、人によって認識が異なるのみならず宗教論と進化論がなかなか相容れないのが一例)根拠をどこにするかで推論が異なる。
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つまり、多分「安全性に問題がない」といくら説明しても検査機器がなく、放射線量の確認ができないということだけでも忌避材料になるし、其のロジックと違う見方をされたら効果がないということを委員会の人は感じたのではないか。根拠というものが人によって異なる以上言いがかりを付ける人を「選別する活動」が公共活動では認められない作業工程上の限界と解するしかないと、憂うしかない私は考える。
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さて上記記事(中日新聞: 2011年9月19日 10時03分「中日新聞:福島の花火使用取りやめ 日進の大会、市民の抗議で:社会(CHUNICHI Web))」)にはこのような専門家の解説がついている。

 <名古屋大大学院のY教授(環境放射能)の話>
花火の放射性物質を気にして打ち上げを取りやめるのは行きすぎた反応であり、大変残念なことだ。花火は当然、食品とは切り分けて考えなければならない。こうした根拠のない考えや不安は、差別やいじめの構図につながる恐れがある。

至極全うであろう。但し根拠のない考えや不安は、差別やいじめの構図につながるのだが、人間の幸福感を考えると
「人の不幸は蜜の味」
「他人の不幸で今日も飯がうまい(=メシウマ)」
「シャーデンフロイデ(独:他者の不幸や失敗等に対する喜び、嬉しさの感情。)」
「朝鮮文化における恨の概念」
などこれ自体が、生活欲求にならざる得ない現実はある。そして基本的には昇華(別の高度で社会に認められる目標の実現による自己実現欲求。化合物がいきなり固体から気体へ代わるのはちがうぜ)という方向に行くのも平衡していたりするのだ。従って社会にて其の時々に差別やいじめがあって淘汰されていく結果社会が運営されていく(成長していくではない)という前提があるひとには、このような識者の意見は無意味であり雑音であり、大学教授という責務の恋慕と固執であるという見方もいそうである。すなわち技術者・科学者の社会的存立意義と信頼性にかかわるのであろう。

近年日本の大学教育や企業・組織で工業倫理教育が求められるようになった。そのための学会・技術者組織は倫理綱領・行動規範を策定しており、これ自体は日本は関東大震災を契機として作ったぐらい古くからあった。さらに、日本の技術者が国際社会で活躍するのに必要な行動でもある。
たとえば耐震強度偽装事件とか今回の原発など、社会の技術者・科学者への信頼は低下し市民は専門家を信用していいものかどうか疑念をもち傍観をしている(時に電凸もあるorz)。では科学が成り立った社会に貢献した事象は多いはずなのだが、それらは必ず負の側面もあるということから正負を比較する行動が伴う(建物を作るときの周辺コンセンサス・環境調査など)ところが、この正負を比較する行動は多分に感情的指標などが伴うし、多項式をとくようなものであるため、一般性をもつものにはならないのが現状である。そのため、傍観をしているのみならず科学的思考よりも感情に依存した視点で科学を見てしまう(所謂疑似科学)側面がある。社会的な規範が変質したことから、「専門家としての倫理」が強く意識される結果になった。

科学が社会に信頼されるには規範を示し、倫理観を豊かにもつ専門家を一人でも多く輩出することは必要である。しかし、TVに出る学者を各自の固定概念から逸脱した人というバイアスから見て「あの人は御用学者」「あの人は原発推進組で生活のために社会を犠牲にするのもいとわない」などというバズワードが実際跋扈しているのも事実。同じ規範の文面でも読む人によって信頼するべきか否かが代わってしまう。いや政治家にもこの視点が浴びされているというのもある。
一方科学が社会の信頼を失った場合「倫理教育」を国が行うという指針は、思想の自由という前提から否定されている。これは思想統制という見方が意図しなくても社会からされてしまうからである。そうなると法律の罰則強化や制度の厳格化という、犯罪が深刻化してきた場合の刑法の厳格化のようなパッシブな行動以外は政府では手足を縛られている。
工学・農学・経済学などの実学は社会と密接に関連するから成り立つ学問領域であり、だからこそ古代欧州では学問として認識されなかった時代もある。哲学があって其の上で実学があるともなされていたのである。Ph Drとよく書くが(海外の学位表記)このPhは別に理学でも工学でも同じであるが「哲学博士」というのが其の前提である。Drだけだとアメリカでは修士ということになってしまう。(医学は別である)
社会に信頼される誇りある技術者を育てることが基本であるのだが、技術者・研究者であることが逆に社会に信頼されないというのは大勢を占め、しかし其の技術者の成果物のみは都合よく取捨していただくというていくとなれば、社会と密接に関連する学問とならないので衰退するしかない。これはローマ帝国後期の宗教・伝承のみが社会の基盤であり科学は成果を得なかった時代、そして都合よくいいとこ採りをしたという意味ではオウム真理教の教義と運営においても見られるものである。そして昔の戦隊モノの「悪い科学者」像も参考になろう。
いいとことりをして科学の成果を利用するのは相反条件で説明できる。爆発する火薬は鉱山で物資を生産するためのものであったが、戦争で殺傷する材料にもなった(ノーベル賞設立の理由)そして、其の火薬を用いた本来なら楽しむかつ精神的支援としての花火さえ、相反する人には害毒の伝播と疎まれてしまう。
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技術者倫理を教えることも多い私にとっては、倫理の概念を教えることは意図的にせず、自分の考えを纏めて行動し社会の利得と損失を考えながら、考えをロジックによって積み重ねる習慣を求める活動ができることを目的にして指導するカリキュラムを構築している。このため理系の人には最初に忘れかけた幾何の論証手法まで思い出してもらうカリキュラムを提案したこともある。
そのこともあって、学究の徒は避けるような倫理的判断と工学との乖離をどうするかということで、このBLOGではえらく砕けた話も私の意志であげている。結果的に工学の成果を還元する先は、レベルが高いか低いかを一元的に判断することのできない受身としての一般社会だからである。
しかし、其の倫理と社会通念に対する見方がもともと違っていた場合、どうなのかということになる。多元的文化が開拓地ではともかく土着の人の多い地域で摩擦が多くて成り立たない(破綻する)事例というのはこのためと考える。
たとえば・・・
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バイエルン州立歌劇場、団員百人が日本行き拒否  (2011年9月16日08時53分 読売新聞)
 【ベルリン=三好範英】ドイツ・ミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の今月下旬からの日本公演(日本舞台芸術振興会など主催)で、福島第一原発事故による放射能汚染を懸念し、当初参加予定だった団員約400人のうち約100人が日本行きを拒否したことが15日明らかになった。
 日本公演は9/23から10/10までで、主に東京でワーグナーの「ローエングリン」などを披露する。
 同歌劇場の広報担当者によると、欠員を補うため外部の演奏家を臨時に雇用する。
 オーケストラ、合唱、舞台技術などの分野ごとに、団員が何人ずつ参加しないかは明らかでないが、数人の主役級歌手が出演をキャンセルしたことは主催者から発表されている。日本に行かない団員は4週間の無給休暇を取るという。
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かの地ではこれを理由に解雇できない。同じ理由でドイツ大使館も主要な人間が赴任拒否し、運用がうまく言っていないという。
これを人道的に批判するということができるかというと、極めて難しいというのがわかるかもしれない。

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